文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第3章 >1 幼少のころよみ(新仮名遣い)
文献名3出生よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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西は半国、東は愛宕、北帝釈の、山の屏風を引きまわし、中の穴太で牛を飼う。これはのちに、出口聖師が、故郷を回想してうたった歌の一節である。山陰道の入口に所在する亀岡盆地の中心地亀岡町、そこから西方約四キロに、もとの穴太村(現在、亀岡市曽我部町穴太)があった。西国二一番札所の穴太寺があることで、古くから知られている所である。一八七一(明治四)年八月二二日(旧七月一二日)のことである。京都府南桑田郡曽我部村大字穴太小字宮垣内三五番地に住む小作農上田吉松に、男の子が生まれた。その日の午後八時ごろ、夕食の膳についた吉松の妻よねは、にわかにはげしい陣痛をおぼえた。まもなく呱々の声をあげた初産の男の子喜三郎こそ、後年の大本聖師出口王仁三郎である。
喜三郎の生家上田家は、古くは、藤原を名乗り、八代前の藤原政右衛門の代に、「上田」に改姓したといわれている。上田家の産土神社である小幡神社(穴太)所蔵の文書によると、「一巴上田・二巴斎藤・三巴藤原」と記されており、家紋のとりきめがなされていたが、喜三郎の生家の家紋は、藤原にちなんで三巴であった。上田に改姓後も、家紋だけは引つづき藤原のものを使用したのであろう。生家の上田家は、もとはゆたかな農家で、良田とあわせて広い山林を持っていたといわれている。
上田の家には、豊受神宮(伊勢外宮)遷座に関する地名起源説がいいつたえられている。その昔、雄略天皇の時に、豊受の大神を、丹波国丹波郡丹波村比沼真奈比から伊勢の国山田の村に遷す神幸の途次、曽我部郷宮垣内の聖場がえらばれて、神輿のお旅所とされた。上田家の祖先が、天児屋根命であるという縁故で、とくにその地が選定されたという。そのおり、祭儀に供えた荒稲の種子が、太い槻(けやきの一種)の樹の穴の中に散り落ち、穴から種の芽がでた。これを育てたところ、みごとな瑞穂をみのらせたので、里の人々は神の許しをえて、良田にその種子を蒔きつけ、村内に植えひろめた。それから、このあたりを穴穂の里といい、やがて穴太(あなお)の里に改められたと伝えるのである。村の伝承によると、上田家のもとである藤原家は、文明年間に、大和国から一家をひきいて、丹波国曽我部の郷へ落ちてきたが、当地に五町歩の二毛作の上田を所持していたので、のちに、上田と改姓したものであろうともいう。しかし、いかに上田を所有していても、大干魃の前にはひとたまりもないので、上田久兵衛の時に、屋敷の西南隅に灌漑用の池を掘って、ひでりに備えていた。そのことをおこりとして村人は、この池を「久兵衛池」とよんでいた。
穴太には、もともと、上田姓が三組あって、北上田・南上田・平上田と称されていた。喜三郎の生家は北上田に属する。喜三郎の家には、詳しい系譜があったようだが、喜三郎の曾祖父の代に道楽息子があって、他家へ質に入れたため、転々として、近在の吉川村の晒屋という家に所蔵されていた。これを上田家では再び手に入れはしたが、一九〇一(明治三四)年の時に火災で失ったということである。その所伝によると、文明年間には、藤原氏は西山の麓、高屋という土地に大きな高殿を建てて、そこに、一〇〇年あまりのあいだ、高屋長者とよばれて住居していた。その後愛宕山(穴太)の麓の小さな丘に砦をかまえ、この一帯を領していたが、明智光秀のために没収されたという。いまでも殿山という小高い山地が、小幡神社の境内に隣接して存在する。
〔写真〕
○歌碑 故山の夢(部分)─拓本─ p106
○聖師の産湯の井戸 玉の井(亀岡市穴太) p107
○家紋(一巴上田・二巴斎藤・三巴藤原) p108