文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第2章 >2 あらたな胎動よみ(新仮名遣い)
文献名3バハイ教徒の来綾よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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判決によって不敬の刻印をおされ、大本の再出発は一頓挫したかにみえた。しかも、前述のように知名の人士が、つぎつぎに大本を離反してゆく。こうしたなかで、王仁三郎は不眠不休の熱意と努力とをもって、連日『霊界物語』の口述をつづけたのである。その結果、王仁三郎によるあたらしい指導原理のもとに、大本はふたたびあらたな活動を開始する。一九二二(大正一一)年の二月四日、節分を期して、大日本修斎会は大本瑞祥会とあらためられ、それまでの一地方支部は分所に、会合所は支部に改称されて、全国的組織の改善がはかられていった。瑞祥会の初代会長には修斎会会長であった湯川貫一が就任し、以下役員もこれに準じた。事件の前には素朴な筆先の理解から「がいこく」を悪神と解したり、外国風をすべて排斥するという弊風が濃厚であったが、その弱点がのりこえられて、「がいこく」とは体主霊従のことであり、利己主義や弱肉強食のことであると解釈されるようになり、「日本は神国」とする思想も「世界は神国」というように広義にうけとられるようになった。
また自己の信ずるおしえのみを正しいとし、他の諸宗教を邪説視していた傾向や、科学や芸術までを軽視したかたむきなども、きびしく修正されていく。このようにして、排外的、あるいは排他的な傾向が徐々に払拭されていったのである。これらは、『霊界物語』の口述とその発表とに密接なつながりをもっていた。
この年の五月二三日、おりから四国を巡教中であった二代教主は、教主を来訪してきた海南新聞社の記者にたいして、つぎのようにのべたと、当時の新聞に記されている。それはあらたな大本の態度を端的に物語られたものということができよう。
神さまは平等で、仏もキリストも、教の根本は同じこと、取次ぐ人に違ひがあるだけです。大本は他宗の排斥はしない。心の誠を信じ真面目に天分をつくす人はみな大本の人々ですから、大本事件は表面大本の信徒でも、心の正しくない人々のあやまりが大本を汚したのです。けれども、すべては神さまの思召しによることですから、けっして恨んだりはしません。誠の道をふみ正しき行ひをもって進めば、かならず世に光を放つときが来るものと信じます。
大本は戦争を吹きこんだりはしません。世界の隅から隅まで平和になることを祈っています。戦争がおこれば世界の人々はみな苦しまなければなりません。何れが善いにしろ悪いにしろ、尊い人命が数限りなく失はれ、財産もなくなり、人類共同の幸福からみて、悲しみの極です。何人も自国の頑くなな我執を一切とり去って、平和を祈るしずかな心に立帰らなければなりません。
その言葉には、利己的な信仰をいましめ、かつ排他と独善を批判して、平和を願い祈るという大本のあるべき姿が明確に示されている。「世界の隅から隅まで」の平和をもとめる大本の立場には、もはやせまい信仰にとどまりえない「世界の大本」という観点がしだいに表面化してくる。そしてそれは、海外の宗教その他の諸国体との積極的な交流のなかにも具体化してくる。
大本とバハイ教との関係が最初にできたのは、一九二二(大正一一)年七月二八日、二代教主が伊豆にむかう途中のことであった。三島駅から大仁へむかう電車のなかで、二代教主の一行は、アイダ・エ・フインチという当年六六才の米国婦人にであった。彼女は三年前から、バハイ教宣伝のために来日しているということであった。
これが機縁となって同年の九月九日、突然フインチは綾部にご代教主を訪問した。彼女は二代教主としたしく語りあい、一泊して、翌一〇日亀岡におもむいて王仁三郎と面会した。そして彼女は午後大道場で、バハイ教の起源や教義の大要をのべた講演をなし、大本は抱擁力があり、謙譲の徳にみちみちているとむすんで大本の存在をたたえた。
バハイ教は一八四四年ペルシア(今のイラン)におこり、ひろく世界各地へと普及されつつあった。社会と精神界の改造を目的とするバハイ教の運動は、もともとバフとよばれる一青年によって創始され、その後六年の間にわたって、世界の人類愛と兄弟同胞のおしえを唱導しつづけた。そしてついに、一八五〇年には殉教をとげたのである。バフが殉教した後、ペルシアの貴族の出身であったバハーウラがこの運動を継承し、新時代の繁明を布告した。だがしかしこの世界的な教義は、当時のペルシアには容易にはいれられなかった。その後バハーウラおよびその教徒の一団はその運動に反感をいだいたペルシアの暴政家らによって流刑または投獄に処せられ、ついに一八六八年にはシリアにあるアツカの牢獄に幽閉せられたという。四〇年というながい年月を追放あるいは繋獄の生活におくったバハーウラは、一八九二年にこの世をさった。ついでその子アブデュル・バハーが継承者となり、バハイ教は、神の僕をもって任ずるアブデュル・バハーの指導のもとに、ヨーロッパやアメリカへとしだいに普及されていった。アブデュル・バハーは一九一二年に昇天したが、遺言によって孫のショキ・エフェンディがその後継者となっていた。
バハイ教のフインチが綾部にきてから、約八ヵ月のちの一九二三(大正一二)年四月二二日に、彼女は同じバハイ教徒のルト嬢をともなってふたたび大本をおとずれた。二人は教主殿において、大本の大要や『大本神諭』・『霊界物語』・神殿破壊の事情などについて説明をうけた。彼女らはとくに、超人的な『霊界物語』の口述についてはふかい関心を示し、その口述の模様などについてくりかえし質問した。その後一〇〇人ばかりのあつまりにおいてルート嬢は講演をなし、パンフレット「大本概観』をいたるところで配布するのだといって十数冊をゆずりうけて、二人は大本を辞去した。四月二五日付の大本へあてた手紙のなかで、フインチは「帰東の途中、車中で大本二代教主に邂逅したが、しかも教主は二人の同伴者をしたがえて、わたしの直前に座をしめられた」ことを不思議とし、「一年の中に二回までも車中に邂逅したのは、まったく精霊のみちびきによるものである」とのべてよこした。
五月二五日の「中外日報」は、「バハイズムに共鳴した大本教の人達」という見出しで、この「二つの両教徒の抱擁の事業こそ、来らんとする社会の上に大きな地響きを投げる嬰児の囁きではあるまいか……思ふ侭に凄い呻を立てて流動し行く社会の中に、再び驚天動地の目覚ましい薬を投ずることは間違ひないであらう」とのベて、両宗教のつながりに非常な興味と期待をよせている。
〔写真〕
○左より フインチ 二代すみ子 王仁三郎 ルート 通訳・西村 p694