文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第1章 >1 現界的活動へよみ(新仮名遣い)
文献名3みろく大祭よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2022-06-01 03:04:57
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一八九二(明治二五)年、「三千世界いちどにひらく梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松でおさめる神国の世になりたぞよ。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。……神が表にあらわれて、三千世界の立替え立直しをいたすぞよ」と、艮の金神の名によって、国常立尊のかみがかりが、突如として開祖出口なおにはじまってから、丹波の国綾部の地に発祥した大本は、その後いくたの波瀾と曲折の道をのりこえ、あらたな民衆宗教として全国的に発展していった。
ところが世の立替え立直しの予言警告やその宣伝活動は当局をつよく刺激したため、一九二一(大正一〇)年の二月には第一次大本事件が勃発した。大本は当局の弾圧をうけ社会からも激しい非難攻撃をこうむったが、それにも屈せず出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』をあらわして信者の育成教化につとめ、ヨーロッパには宣伝使を派遣して、海外宣教に力をそそいだ。また事件による責付出所中であるにもかかわらず、未開の地蒙古に入って、東亜経綸の一石を投じ、死線をこえて帰国すると、亀岡の古城址を開発して宣教の本拠天恩郷を建設した。さらに宗教の世界的な連合を企図して人類の教化に相互協力の実をあげるため、人類愛善会を創立して世界平和のための精神運動を展開した。また宗教と芸術の一致をとなえて、和歌・冠句・俳句などの文芸活動をおこした。そして書画・楽焼にいそしみ、かつ地方を巡教して信仰の意欲をもりたたせた。そのため一九二八(昭和三)年ころからは、大本はしだいに明るい活気にみちた教団へと立直って、参拝者・修業者の数はとみに増加してきた。大本は発祥の地綾部を祭祀の根本聖地とし、亀岡天恩郷を宣教の聖地として、ここに二大聖地か確立された。これは『霊界物語』に示されている「天国」と「霊国」の二つのすがたをうつしたものである。こうして、大本はふたたび活発な発展のみちをたどってゆく。
第一次大本事件は一九二七(昭和二)年五月一七日免訴によって解消した。社会ではなお大本にたいする悪印象はぬぐい去られていなかったが、大本としてはあたらしく活動を展開する時運としてうけとめられた。
一九二八(昭和三)年三月三日(旧二月一二日)は、出口王仁三郎聖師が満五六才七ヵ月となった記念の日である。神示によってこの日に「みろく大祭」がおこなわれることになった。神諭には「五六七の世が参りたぞよ。釈迦が五十六億七千万年の後に、至仁至愛神の神政が来ると予言したのは五六七と申す事であるぞよ」(大正7・旧12・23)とある。それにもとづいて大本では、これまでも「五六七」を「みろく」とよんできた。大石凝真素美の『弥勒出現成就経』(「神霊界」大正8年4・15~9・15)には、仏説の五十六億七千万年は、三千年の意味であり、弥勒は五十六年七ヵ月以上を経た大真人であって、日本に下生し、これを応身の弥勒如来と称するとのべられている。「みろく」のことについては、大正八年八月一五日号の「神霊界」に聖師の「随筆」として、「筆先に三千世界の大化物が現はれて云々と言ふ事があるが、兎も角、大化物が満五十六年七ヶ月に成った暁を視て居れば良いのである」と記述されてもいる。また『霊界物語』第一巻総説には「変性女子の三十年の神業成就は大正十七年二月九日である」とものべられていたところから、大本の役員・信者も、大正一七年すなわち一九二八(昭和三)年の旧二月九日、あるいは聖師の五六才七ヵ月のときに、神業の大きな転換がおこなわれるであろうとひそかに期待していた。
聖師は昭和三年の元旦をことほいで、〝すみわたる五十六億七千万明けし昭和の初日の出かな〟とよみ、『水鏡』にも「今年即ち昭和三年辰年は、此世初まつてから、五十六億七千万年目に相当する年である」とのべ、さらに三月三日には『歌日記』に、〝今日こそは五十六年七ヶ月五六七の神代の始めなりけり〟〝諸方面諸菩薩ひきゐみろく菩薩高天原に今日下生せり〟とよまれている。
これはみろく如来が聖師に応現し、聖師はここに「みろく菩薩」として下生し、いよいよみろく神業のため現界的活動をするというのである。
一般社会に伝えられている「みろく信仰」というのは、もともと西北インドにおこり、中国をへて日本へつたえられたものである。「みろく菩薩 Maitreya」にたいする信仰で、みろくの浄土への上生思想と、五十六億七千万年の後にふたたびこの世に下生するという思想とをもっていた。わが国では七世紀の前後からさかんとなり、平安時代にはみろく浄土の信仰がいっそうたかまっていった。鎌倉時代にも、この信仰はうけつがれてゆき、山嶽信仰とも結合していった。とくに富士にたいする信仰との結びつきには注目すべきものかおり、東国の民衆の間にも根をおろしてゆく。一五世紀なかばの応仁の乱以後は、権力の動揺や血なまぐさい戦乱のひろがりなどもあって、民衆の間からは世直しへの期待のもとに、いっそうみろくの信仰はたかまっていった。「みろく」という私年号は、すでに早く、平安時代末期の高倉天皇の時にもつかわれたことがあるが、戦国時代の一六世紀前半にも用いられたことがある。とりわけ織田信長・豊臣秀吉によって天下が統一されたときには、「今が弥勒の世なるべし」とも感じられていた。三浦浄心はその著『慶長見聞集』のなかで、桃山の時代を「さてもさても目出度き御時代かな、わがごとき土民まで安楽にさかえ、美々しきことどもを見聞く事のありがたさよ。今がみろくの世なるべしといふ」とのべ、「実々土民のいひ出せる詞なれども、まったくの私言にあるべからず」ともいっている。「土民の詞」として描かれているように、民衆におけるみろく出世の信仰はこのように根強く生きつづけていたのである。それはともかくとして、開祖の筆先には、明治三〇年代から「みろくのよ」「みろくさま」「みろくのかみ」などと、「みろく」ということばがしばしばしるされ、大本独自のみろく信仰がたかめられていたのである。
昭和三年三月三日、この日はきわめて意義のふかい「みろく大祭」の日であった。全国から多数の信者が参拝したことはいうまでもない。当日の午前八時、聖師をはじめ出口家の人々は、信者一同とともに綾部の天王平の開祖奥都城に参拝した。そののち、五六七殿に集まり、午前九時半ごろ聖師は、二代教主出口すみ子・三代直日・日出麿をはじめ、寿賀麿(遙)・宇知麿(宇知丸)の各夫妻・尚江・住ノ江ら出口家一同のほか、総務一四人─井上留五郎・高木鉄男・岩田久太郎・御田村竜吉・東尾吉雄・湯川貫一・四方平蔵・梅田信之・中野武英・湯浅仁斎・出口慶太郎・桜井同仁・西村光月・栗原白嶺らとともに至聖殿に昇殿した。この日はいつものような大祭の式典はなく、聖師の先達によって一同「神言」を奏上し、おわって聖師による
〝万代の常夜の暗もあけはなれ みろく三会の暁きよし〟という歌の朗詠がなされた。ついで聖師は手ずから神饌物をさげ、日地月の三輪になぞらえて自分は林檎を三箇とり、二代教主には大きな大根と頭薯を、日出麿・寿賀麿・宇知麿にはそれぞれ大根と頭薯をわたし、一四人の総務へは、他人には食べさせないようにとの注意をして頭薯をひとつずつ手わたされた。これがいったい何を意味するものか、もらった者も、また一般信者にもわからなかった。後にこのことが、大本再弾圧の理由にされようとは夢にも考えられなかったことである。
聖師をはじめ信者一同は直会ののち、亀岡天恩郷へ移動した。白装束を着用した聖師は一同とともに、聖師の産土神である穴太の小幡神社に参拝してひきかえし、大祥殿の礼拝をおえて、さらにここでも直会があった。翌四日には高熊山参拝があって、みろく大祭に関するいっさいの行事がおわりをつげたのである。この日参拝者が大祥殿に供えた玉串料は総計五六七円であり、高熊山へ参拝したものもくしくも五六七人であった。
大本でいう「みろく三会」とは、天のミロク(瑞霊)と地のミロク(厳霊)、さらに人のミロク(伊都能売の霊)と、天地人がそろうたときをいい、また法身・応身・報身のミロクがいちどにあらわれるということを意味していた。大本ではミロクのありかたや、はたらきを法身・応身・報身のミロクの三身とよび、主として法身ミロクは開祖、応身ミロクは聖師、報身ミロクは三代直日のそれぞれのご用であると理解されていた。なお現・幽・神の三界を根本的に救済する暁を「みろく三会の暁」ともいうと『水鏡』にのべられていた。「下生して現界的活動をする」ということは、地にくだって時所位に応現し、救済のため社会的・現実的活動をする意味をもふくんでいる。
三月三日の『歌日記』によると、〝一切の教務を神に奉還し役員十八赤児とぞなる〟と記されているが、その日に大本総裁・総務部主事・内事部主事・総務・天恩郷主事・同主事補・大本瑞祥会会長・同会長補・天声社社長・同社長補の職務および大宣伝使全員の諸役が返上され、三月三日の一日ばかりは、大本教主以外は、聖師をはじめとして右の役職員は全部無役となった。その翌日、聖師は大本総裁・天恩郷主事・大本瑞祥会会長・天声社社長の職務をとることになって、つぎのような人事が発表された。
総裁補・井上留五郎、総務部主事・岩田久太郎、内事部主事・高木鉄男、天恩郷主事補・御田村竜吉、同主事補心得・大国以都雄、大本瑞祥会会長補・東尾吉雄、同会長補心得・橋本亮輔、天声社社長補・御田村竜吉、同社長補心得・瓜生潤吉
なお総務ならびに大宣伝使などについては、従前の人々かあらためて任命された。
この改革は、聖師が「みろく菩薩」として現界的に活動することを意義づけたものであった。こうして聖師の統卒のもとに、大本の諸活動が積極的にくりひろげられてゆくことになる。
四月の春の大祭後、宣伝使の会合でのべられた聖師の言葉は、その点でも注目すべきものがある。「今年は明治維新より六十一年目、丁度戊辰の年……非常な変動のある年」である。「……唯一の尊皇団体が不敬罪といふ事にせられたのであります。是は我々として精神的には非常に痛痒を感じて居るけれども、誠といふものは何時か現はれるものであると思って居った所が、愈々その雲も晴れました。その間兎も角、神様以外のことをいふからこんな目に遭ふのだといふ様な具合で、神様の教ばかり唱へてきました。然し、今日では当局者も大分目が醒めて、各府県共に種々神主などを頼んで国体の弁明に努めて居ります。大本は俄にそれをせなくても始終やって居りますが、かういふ風に世の中が変って来ましたから、敬神、尊皇、愛国の旨を体し、神国の国体を守る可く相共に充分の宣伝をして貰ひ度いのであります」。そして神の教を説くばかりでなく、「神国の国体」をまもるように努力せよ、動揺する世の中につよく宣伝をおこなえと力説されたのであった。総裁補井上留五郎も、この大祭の挨拶のなかで、「人は神の子、神の宮」であることの実績をあげるとともに、日本国民であることを覚悟しておかねばならぬと強調した。
「非常な変動期」と聖師によって指摘されているように、昭和三年前後には日本国内外にわたり種々の問題がおこっていた。対外的には中国の南京事件・漢口事件が勃発して若槻内閣は苦境におちいった。そこで田中内閣か組閣(昭和2・4・20)されたが、山東派兵がなされ、そのため排日運動も激しくなってきた。田中内閣の「対支方針」の声明には「支那(現在の中国)における帝国の権利並に在留邦人の生命財産にして不法に侵害さるゝにおいては、断乎として自衛の措置に出づるはやかを得ない」とあり、その態度は内外に大きい波紋をまきおこした。また他方では国際経済会議および日英米三国軍縮会議も開かれている。
国内では一九二七(昭和二)年の前半から金融恐慌が経済界をおそい、会社・商店の破産があいついだ。銀行のとりつけ騒ぎが全国的となったので、政府は昭和二年四月支払猶予緊急勅令を発布して大混乱をきりぬけようとした。政治面では昭和三年の二月に、わが国最初の普通選挙による衆議院議員総選挙がおこなわれ、無産政党から八人が当選した。社会主義にたいする警戒が支配層の間にたかまり、その年の三月一五日には共産党の大弾圧がおこなわれ、さらに、六月二九日には緊急勅令をもって「治安維持法」もまた大巾に改正されることになり、最高刑として死刑・無期懲役が課せられることとなった。当局による思想統制へのうごきも、「特別高等警察課(特高)」の拡充によって顕著となった。特高が警視庁官房にはじめて設置されたのは、幸徳秋水らの大逆事件のおこった翌年の一九一一(明治四四)年であったが、一九二三(大正一二)年には北海道・長野・神奈川・愛知・京都・大阪・兵庫・山口・福岡・長崎の一道二府七県に設置された。そして昭和三年には、その他の県にすべて特高課が新設され特高網が完備した。
ことに昭和三年五月には済南事件がおこり、ついで六月四日には、張作霖爆殺事件がおこって満蒙の危機がつたえられ、内にも外にも経済的に緊急を要する事態が続出しつつあった。みろく大祭を契機とする大本の「現界的活動」への道は、このような国内外の情勢のもとにすすめられていくのである。
〈公認運動〉 当時の宗教としては、公認教は神道一三派・仏教・キリスト教などのみであって、その他の非公認の宗教は「類似宗教団体」※としてのとりあつかいをうけ、当局からきびしい監視をうけていた。たとえば、一九二八(昭和三)年の四月に、天理研究会の不敬事件がおこり、三八五人検挙されているのは顕著な事例である。
※類似宗教という言葉は、一九一九(大正八)年三月、文部省宗教局の通牒「宗教及之に類する行為をなす者の行動通報の件」のなかにある「神、仏、キリスト教等の教宗派に属せずして、宗教類似の行為を為すもの……」からはじまったといわれている。
大本役員は、かつて聖師から、公認教となって文部省宗教局の監督下にはいると国家宗教のわくのなかにはめられ、かえって種々の干渉をうけるので、それではほんとうに「神様に仕へる事は出来ない」ときかされていた。ところが一九一九(大正八)年につづき一九二四(大正一三)年にも、文部省宗教局から警視総監および地方長官にたいして「宗教類似の行為」について調査が要請され、いちだんととりしまりが強化されてきたので、聖師は、大審院の免訴判決ののちは、ひそかに公認への運動を配慮しつつあった。それは今後の国内情勢をおもんぱかられてのことであろうとおもわれる。入蒙に同行した岡崎鉄首の紹介で、聖師が元代議士平渡信(政友会)といくたびか面会し、また警視総監や内務省警保局長らとの会談がおこなわれている。そしてその公認は、みろく大祭の三月三日までに認可になると大本の役員や信者の一部から期待されていた。そのこともあって、前年から宣伝使の新任が急増し、この年の一月にさらに約九〇〇人の追加任命が発表されて、二月二七日には、宣伝使の総数はじつに二二六二人となっていたのである。公認されればこれをそのまま教師とする意向であった。一月末、台湾・沖縄方面の巡教を終えたのち、急に予定を変更して聖師が東上したのも公認問題のためであった。しかし三月三日になっても、公認は実現しなかった。
聖師は、それでもなお教団の将来をおもんぱかって公認への努力を惜しまなかった。平渡信もときおり天恩郷に聖師をたずね、あるいは信書で連絡してきていた。だか一方、信者であった前代議士梅田寛一らにたいしては、事件が免訴になってから間もないことだから、いましばらく待ったほうがよいという意見もつたえられてきていた。しかし聖師によって、〝東の便り如何にと待つ吾れの旅にある身のもどかしきかな〟〝金なくば誠の道も通らざる世の行く末の危ぶまるゝかな〟〝何処までも我が大本は国のため誠を尽して進みこそすれ〟と、六月一日の歌日記にも記されていた。
だか、その期待はむなしかった。それは大海原京都府知事が「神道大本教創設許可願」の文書を破棄したことが判明したので、ついに公認運動はうちきられることになった。
〔写真〕
○金融恐慌の嵐が経済界をゆりうごかし預金者が銀行に殺到した p3
○月宮殿へご神体を遷座 昭和3年11月12日午前1時 綾部の教祖殿を出発して亀岡へ 左の駕籠は聖師出口王仁三郎 右は二代教主出口すみ子 p5
○至聖殿 p8
○昭和3年6月張作霖が爆殺された 奉天郊外 p11
○神道大本教創設許可願 p12