文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第1章 >2 教線の拡充よみ(新仮名遣い)
文献名3巡教活動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2017-05-08 17:35:21
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聖師の巡教に呼応して、出口日出麿教主補の巡教や、各宣伝使による講演会・座談会などが全国各地であいついで開催され、教団をあげての宣教活動がすすめられた。
日出麿教主補の一行は、一九二八(昭和三)年の五月に、浜松・用宗・湯ヶ島・西駿河・名古屋・岐阜・豊橋など、別院一・分所一・支部二四ヵ所をまわって、各地の信者大会に出席したり、座談会をもよおしたりした。教主補によって信仰のあり方が平易にとかれ、また多くの短冊や額などにも揮毫されたりした。また鎮魂で病人がなおるなどの大本でいう神徳が発揮されて、信者もまたいっそう宣教に努力するようになった。六月には大阪、七月には京都市内各分所・文部で宣教がおこなわれ、さらに山陰に出張して神刕別院はじめ島根・鳥取両県下の各分所・支部にも巡教の旅がなされた。ついで八月には四国にわたって、愛媛県下の分所・支部信者懇親会や信者大会への出席がなされ、高松へもたちよった。九月八日よりは九州別院・福岡・大分・宮崎・鹿児島・雲仙・長崎・壱岐・対島・戸畑などで四七日間にわたる九州各地の巡教があり、五五ヵ所の分所・支部を歴訪して地方の宣教を力づけた。
宇知麿も、西村光月とともに三月には北丹地方に出張し、舞鶴を中心に八回にわたって連日各地で講演会をひらいた。ついで、宇知麿は五月に、前節にのべた聖師の東北巡教の先駆として、筧守蔵の随行で東北へ出張し、東京からはじまって郡山・米沢・漆山・赤湯・山形・青野・大寺・大谷・酒田・鶴岡・仙台などで、一三回にわたる大本ならびに愛善精神についての講演をおこなった。地方の言論界は、いずれも好意的な記事をのせている。
一方、山陰地方には井上留五郎・湯川貫一・西村光月らが出張し、九州地方には東尾吉雄・深水静が出張するなど、教線もひろがり宣教はますます活発化する。
〈聖師の巡教〉 一九二九(昭和四)年をむかえて、聖師は正月早々の一月三日に北丹分所への巡教にたち、こえて二月六日には京都分院の開院式にのぞみ、また一一日は大阪府三島別院の開院式にも出席した。四月一三日には、別院建設敷地検分のため和歌山比井分所へ、三月二八日から四月一一日までは、二代教主とともに随行吉原亨ほか明光社員ら一行一〇人で、瀬戸内海島々の宣伝に使用する瑞祥丸の進水をかねて、愛媛県新居浜の白石邸につき、さらに大洲(宇知麿実家)・松山・高松・徳島・高知(足立卓子邸)というように四国各地の巡教の旅が続行された。ついで四月一九日には滋賀県木戸村から献納申出があった別院候補地が検分され、四月末より五月はじめにかけては、伊勢の香良須神社の参拝、ひきつづき水口・津・彦根などの文部をめぐり、五月一六日には愛知県稲沢の東海別院開院式におもむいた。
五月二六日から六月五日までは信州への巡教がなされる。随行は吉原亨・加藤明子ほか二人であった。諏訪・甲府・松本・浅間温泉・筑摩・北信・野沢・長野・多治見をめぐって、日本ラインをくだり岐阜にでて亀岡に帰着した。この巡教中、六月三日に、長野県松代町の皆神山の登山がなされた。この山はのぼり二キロ(一八町)、山頂には熊野三社として伊邪諾尊・伊邪冊尊・国常立尊・素盞嗚尊がまつられているといわれ、ふもとには伊都速雄神社かある。この山は聖師によって「皆神山は世界の山脈十字形をなす因縁のある山である。素盞嗚尊が初めて素焼を作られた所である」とのべられている。
〈日出麿教主補の巡教〉 教主補の一行はこの年(昭和四年)の二月一〇日に綾部を出発して、台湾にむかった。随行したのは井上留五郎・河津雄である。河津は昭和二年に聖師渡台のあと宣教活動をつづけていた。そして支部八ヵ所ができ、信者は約三〇〇戸となっていた。本島人の信者も増加し、本島人による大稲埕支部も設置されていた。教主補の一行は基隆から台北・草山・台中・二水・日月潭・埔里・嘉義・台南・鳳山・河東などの各地に巡教した。教主補は聖師から、特別の場合のほかは、講演などをしないようにときかされていたが、屏東と宜蘭では、この地の知名人たちの発起による盛大な講演会がひらかれて演壇にたった。
台湾よりかえった教主補は、四月には大阪・大和・山城地方へ出張し、和束別院設置の内定をみた。四月二九日から六月四日までは深水静の随行で、東北出羽方面へ巡教し、一行は山形・宮城・福島・群馬・栃木・埼玉・東京・神奈川・静岡の各別院・分院・分所・支部にたちよった。この巡教中、海軍中将伊藤乙次郎その他の軍人・医師・教育家・劇作家など各地の知名人と面接されており、聖師代理として東山分院の霊泉湯びらきにもおもむいた。ついで七月一〇日から一九日までは、土井大靖(靖都)をともなって、神刕別院をはじめとして島根・鳥取両県下の各分所・支部の巡教がなされた。
さらに教主補は九月六日に天恩郷を出発し、まず東京の愛信会を拠点として、府下各支部を一二日間にわたって巡教し、東京の信者たちは教主補より「東京を開くといふことは、仲々意義深い事であるから、皆協力してもらひたい。地方のみ開けて肝腎の東京を開かねば効果がない」と激励されている。ついで茨城県にかかり、一八日の間、県下の分所・支部を巡教し、一〇月六日山形県にはいり、七日間の宣教がおこなわれ、新潟県にまわって金沢の北国夕刊新聞社にたちより、一〇月一六日に帰綾した。
巡教行脚はその後もつづけられている。一一月一二日、教主補は随行の土井大靖・渡辺宗彦とともに信州路にはいり皆神山に参拝して、北陸路を巡教した。まずこのたびの巡教は寺泊分院にはじまり、佐渡ヶ島にわたって五日間滞在、その後新潟県下を宣教し、二六日には富山県におもむき、一二月五日には石川県にはいり、さらに福井県をへて、じつに五県三七ヵ所にわたる巡教がおえられて、一二月一六日に帰綾をみた。
なお宇知麿もこの年の四月二九日に山陰に出向し、神刕別院および松江分所における各五日間にわたる大本特別講話会に出講している。このとき受講者はあわせて三〇〇人をこえた。また八月一日より九州別院における一週間連続の特別講話会に出講し、このときの受講者も約三〇〇人ばかりであった。
〔写真〕
○教主補出口日出麿の巡教は各地におよんだ p27
○大本特別講話会 宣伝使服は講師の出口宇知麿 九州別院 p28
○世界紅卍字会赴日団の来訪 月宮殿瑞月門前 p30