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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第1章 >3 教団発展への動きよみ(新仮名遣い)
文献名3梅花運動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-10-07 08:09:20
ページ76 目次メモ
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本文  一九三一(昭和六)年の二月四日、例年のとおり綾部の五六七殿で節分祭がとりおこなわれたが、このときの参拝者は殿内りっすいの余地なく、八万にのぼる人型の大祓行事がおごそかにとりおこなわれた。
 このおりの宣伝使会席上で聖師からつぎのような言葉があった。「宣伝使は神様の命令により時代に順応して指導する使命を受けて居るのであります。それで宣伝使はやはり政治方面の方へも注意を払ってもらひたい。又芸術の方面、教育の方面、一切の方面へ注意を払って、何でも一切、浅くとも広く之を知って居らねば段々むつかしくなって勤まらぬやうになって来ます」。そしてさらに「完全なミロクの世を実現させるには一切の物が必要である。また今日の進歩した科学も必要である。之は神様が世界を一つにする為に、通信なり新聞なり交通機関なりも出来たのであって、三千年苦労なされたが、時節が到来して今日の物質文明の世が出来たのであります。教祖が明治二十五年に『三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰を掛け鬼門の金神守るぞよ』かう言はれた言葉は、今日の物質文明と大本の精神文明との準備がととのうたといふことで、『三千世界一度に開く』といふのは縦ばかりでない。縦から横から全部一切、地にある物、天にある物一切を指して、それが一度に開くといふのである。今までに蘊蓄してあった総ての経綸が先づ形の上から現はれて来るのであります」と教示された。
 宇知麿は五六七殿の挨拶で、当年は聖師更生の意義ふかき年であって更生とは還暦のことである。さらに明年は大本開教四十周年をむかえることとなるので、「三千世界一度に開く梅の花」の大活動をしなければならぬ。一日もはやくわれらの魂のなかに、地上の世界に、梅花ふくいくたるうるわしき神の国のくるように神業のために誠をつくす、これが梅の花の活動である。「梅花」は「倍加」に通ずる。この節分を機とし「梅花運動」をおこしたい。この倍加は数倍加を意味すると強調した。
 梅花運動を推進するためには、本部と地方との連絡をいっそうよくしなければならない。そこですでに各地方に設けられていた分会を、あらためて正式に大本祥会規約のなかにとりいれ、分会の機能をさらに発揮できるように工夫された。分会および分会長・分会次長はつぎのとおりである。

近畿第一=(分会長)大和良作・(分会次長)粟辻忠造、近畿第二=古市宣三・木村次之助、山陽=木下愛隣・藤原義男、山陰=藤原勇造・松田盛政、東海=桜井信太郎・神谷光太郎、北信=嵯峨保二・大沢晴豊、関東=出口日出麿・御田村竜吉、奥羽=村松山寿・中鉢玄策、北海=田中省三・斎藤長治、四国=山口恒彦・上野善蔵、九州=山県猛彦・松浦教友、台湾=石丸順太郎・木下雅楽麿、朝鮮=松並高義・川崎勇、満州=深水静・西村秀太郎、ブラジル=近藤勝美・石戸次夫

 その後、分会は主会と改称(昭和6・8・25)されることになり、本部から派遣された駐在宣伝使や特派宣伝使の指導によって、地方における宣教の拠点となった。
 宣伝使の総数は、一九二八(昭和三)年二月には、二二六二人であったが、一九三一(昭和六)年四月には四一三七人になり、その内訳は大宣伝使一八人・正宣伝使一六九人・凖宣伝使三〇〇人・宣伝使試補三六五〇人である。
 みろく大祭後、一九三〇(昭和五)年末までの入信の状況について、生存者(一九六四─昭和三九年現在)を中心にアンケートをとってみると入信者が急増していることが判明する。そして入信者はやはり二〇才代に多く、つぎは三〇才代であって、学歴としては高等小学校卒業程度が多数をしめていた。また職業は農業・商工業・公務員および会社員・その他の順位となっている。入信の動機は信者や知人の勧誘によるものがもっとも多く、それも教理に心をうごかされたとするものか断然多い。それについで、み手代などによるお取次がそのきっかけとなっている。また浜口内閣によるデフレーション政策やアメリカのウォール街の株価暴落をきっかけとする大恐慌の余波をうけて、農民の生活は窮乏し、失業者もふえて、社会不安はますますたかまっていたので、こうした社会不安を反映して、人生の苦悩を解決しようとして入信した人々もめだっている。大本の宣教がこうした深刻な世相のなかで民衆化し、宣伝使や信者の活動によっていっそう底辺に根をはりつつあった事情がよみとられるのである。
 梅花運動の方法としては、講演会・座談会・個人宣伝などによるものが多いが、山陰地区では、大国特派の指導によっていくつかの宣伝班がつくられ、宣伝使一〇人以上を一班とし、班長一人をおいてさらに組にわけ、町村にもれなく宣伝する組織的な態勢がつくられて、最後には戸別訪問をするというすすめかたが採用された。そのほか集中的な宣伝や、拠点のない地域には、信者をその地に転住さして宣伝することなどもこころみられている。
 聖師作品展の開催は全国的にいっそう拍車がかけられ、台湾・朝鮮・満州などもあわせて、一九二九~三二(昭和四~七)年の間に、内外地二七三ヵ所、開催延日数は六四一日、入場者は六五万六四七〇人(左表参照)にもおよんだほどで、その成果は大きいものがあった。

年度別/開催地/延日数/入場者数
昭和四年/六/一三/一二、一三一
昭和五年/一三五/三三二/五二九、四〇六
昭和六年/八七/一九四/八二、七六八
昭和七年/四五/一〇二/三二、一六五
合計/二七三/六四一/六五六、四七〇

 これにあわせて「人類愛善新聞」の街頭売り、または戸別の一部売りがひきつづきおこなわれ、宣教の先端をゆく活動がひろげられた。
 こうしたなかで、婦人や青年たちがたちあがってきた。一九二九(昭和四)年の初めごろには、亀岡天恩郷内で昭和青年会が結成され、その動きがひろがって、一九三一(昭和六)年八月四日までには、地方の各地に二八の青年会が組織されていたが、梅花運動がおこると、山陰では天幕自炊の宣伝隊がつくられたりして、宣教活動を積極化していった。なお、婦人会も地域ごとに結成されていった。
 宣教の一方法として探用されたものに、地方新聞に大本関係の記事をつぎつぎに掲載してゆく努力がある。これには、各地一七の一般新聞がそれに応じて協力した。
 梅花運動によって、どれほどの入信者がえられたかは、数字のうえではあきらかでないが、天恩郷大道場における修業者は、一九二八(昭和三)年には一七九〇人、一九二九(昭和四)年には二二〇七人、一九三〇(昭和五)年には三〇三〇人というように上昇を示し、一九三一(昭和六)年になってからは、月ごとの修業者は前年度を多数うわまわって、とくに七月四日から九月六日までおこなった夏季講座の受講者(修業者)の場合などは、総数一二四四人にもたっしていた。そのうちでも、京都府・東京・島根などが多く、遠隔の地からは台湾をはじめとして、朝鮮・満州および関東州・中国・南洋などからも参加している。
 修業者は、ふつう一週間安生館に宿泊して、大祥殿で朝夕の礼拝につらなり、夕拝後『霊界物語』の拝読をきき、午前と午後に受講し、これがおわれば八日目に綾部にいって、大八洲神社をはじめとする苑内の参拝をなして、所定の修業をおえることになる。七日間におこなわれる講話の題目は、ときに一部変更はあったが、「心霊に就て・霊界の真相。大本教旨(二回)。開祖略伝・聖師略伝。四大綱領・四大主義。信仰と芸術・日本人の使命。人類愛善運動・大神業と出口聖師。信仰雑話・入信の手引」などであった。
 修業者は各階層にわたっていたが、このころ『出家とその弟子』の著者である倉田百三が、一週間滞在して修業したのも注目される。そして彼は宇知麿にあてた手紙のなかで、その印象をつぎのように記している。

御尊父様(聖師)にお目にかかりたることは殊に大いなる悦びでした。近来人品に逢ひてかかる感味を得たることはありませんでした。又二代さんの赤ん坊の如くで真なる御心況、御苦労を積まれたる人と知るだけに、向更その素直にしていぢけざる御様子を尊く思ひました。温かく親しく好もしく感じました。一体に大本といふものに対する理解と好意とを今度の亀岡行きで非常に深めることの出来た事を嬉しく思ひます。……教祖の御墓地に詣でし朝の印象、今も髣髴と致して居ります。

 一方信者の信仰向上をはがるために、全国各支部に「霊界物語拝読会」がつくられて、本部の指導による拝読と研修に力をいれた。聖師は一九二九(昭和四)年五月一日に「霊界物語はなるべく三日間で一冊読むくらいの速度がよい」とのべ、同月六日から天恩郷大祥殿では、夕拝後の『霊界物語』拝読者は肩衣をつけることにした。さらに地方の分所・支部でも毎日夕拝後拝読するよう指示した。なお宣伝歌や自由節などをレコードに吹きこんで頒布し、三味線や八雲琴を入れての読誦法など、松村宣子・津田冠月らを派遣し指導させたので、各地に拝読熱がたかまった。
 一方、エスペラント、ローマ字運動も着実に進展していた。本部・地方においてはくりかえし講習会・展覧会・雄弁大会などがひらかれていたし、「神の国」や「明光」についで昭和四年二月からは「人類愛善新聞」にも、エスペラント、ローマ字の独習講座が連載された。エス文「緑の世界」も昭和三年からは独習者本位に内容が充実され、昭和五年九月からはエスペラントの常設講習所が亀岡に設けられるにいたった。こうして学習の機運はもり上がっていった。なお、昭和四年一二月、ローマ字普及会では「全国の鉄道駅名を日本式ローマ字に書替」えるよう鉄道大巨宛建議文を起草し、署名運動をおこなっている。

〈更生祭〉 聖師の還暦をいわうために、一九三一(昭和六)年の八月二五日(旧七月一二日)には五六七殿で更生祭が盛大におこなわれた。このおりの全国からの参拝者は五〇〇〇人におよび、綾部町では町内各戸に大本神旗をかかげ、夜は町民か提灯行列をするなど、全町あげての祝賀行事で非常ににぎわった。綾部における三日間の行事がおわって、亀岡でも祭典や余興そのほかの行事があったが、綾部・亀岡ともに夜はそろいの更生ゆかたを着て、聖師の音頭により、太鼓をたたいてさかんな「みろく踊り」がおこなわれた。すでに聖師吹きこみによる音頭のレコードもだされており、それが地方にもゆきわたっていたので、このときのみろく踊りのにぎわいは夜空にかがやく一大絵巻となった。
 聖師の更生をいわって、全信徒の手で天恩郷に更生館が新築された。更生館は「大」の字をかたどった神殿様式で、間口二二メートル・奥行五〇メートルが、銅板ぶきのおおきな建物である。これは宗教博の大本館を模して、さらにそれを拡大美化したものであった。内部には開祖の遺品や聖師の作品をはじめ、一見して大本の概要がわかるように、出品や展示に工夫がこらされ、その一隅には聖師の画室ももうけられた。更生館の新設は天恩郷に偉観をそえたばかりでなく、館内の展示物は参観者に便宜をあたえた。この更生祭を記念し、宣伝使全員にたいし昇任が一級ずつおこなわれた。
 聖師が第一次大本事件の解消で、六ヵ年にわたる疑雲からとりのぞかれて、一九二七(昭和二)年自由の身となったときにも、欧米各地から祝文・祝詩がよせられてきたが、このたびの更生祝についても、海外から多数の祝文・祝詩がおくられてきた。これらを一冊にまとめたものか『讃美集』である。
 この『讃美集』の特徴は祝文や祝詩がすべてエスペラントでかかれていることである。しかも、祝文・祝詩をよせた人々は欧米諸国の各階層にわたっており、それを国別にすると、フランス・チェコスロバキア・ブルガリア・ドイツ・イタリア・ハンガリー・ユーゴスラビア・イギリス・北アメリカ・オーストリア・スウェーデン・ポルトガル・リトビア・ポーランド・スペイン・トルコ・デンマーク・ルーマニア・南アメリカとなる。これらの人々はエスペランチストであり、大部分が宗教的信念をもっている人々でもあった。
 なかには救世主・予言者の出現を信じ、「光は東方より」という信仰をもった人々もあった。それは「東洋の光」・「極東の空より欧州に来れる太陽」・「日出づる国に光明赫々たる巨星」・「太陽は極東に現はれたり」というような表現によっても察せられる。人類は一つ・世界は一つ・人類は兄弟同胞であるという思想がすべてにわたって一貫してみいだされる。また従来物質主義の欧米を主とし、精神主義の東洋を従としていたことかあやまりであるとする思想を表現した祝文や詩句もくわわっていた。つぎにその二、三を摘記しておこう。
 パリのミセイ・ド・リエンジは「かつてルナンが、『未来は欧州のもの、欧州人のみのものである』と予言したのは、誤つていないでせうか。欧州は世界を征服して以来、最も深き物質主義に沈溺しだしたのですが、極東はあたかも新しき光の如く覚醒し、大本と称する綜合的教義が、人類に向つて霊的神髄を教訓せんとしてゐます。人は我等の起源若くは成り立ちを如何やうに考へやうとも、現下の全然精神を欠如せる時代に於て、人類の精神的改造をその使命とすべく一身を委ねる人達をば、称讃するの外はないのであります」とのべ、パリ市控訴院弁護士エル・ド・リエンジは、「数世紀の間我等泰西の野蛮人どもは、おこがましくも東洋の諸邦に宣教師を送り、キリストのみよく人類に平和と愛とをもたらし得ると信じたものであります。今や、出口聖師よ、貴下は我等欧州人に宣伝使を派遣せられました。人類愛、親切、智慧等は旧大陸たる東洋には今なほ爛漫として咲き誇って居るといふ事を師は証したまひました。さらに又『光は東方より』と云ふ言葉をも証したまひました」とのべている。
 さらにドイツ・エスペラント連盟総裁のエルンスト・クリムケ博士は「聖師は東洋の光、精神生活の花にして、受の種子たり、また愛の種まき人にます。……人類よ聖師に感謝せよ! 聖師は人類をして濃霧を通して光明を見せしめ、障碍を撤して天国の関門を開き、以て人類がもれなく宇宙の富に接して、自由の道に、おのがじしその幸福を見出さしめ玉へばなり、われは聖師を宝冠を戴けるいづれの王よりもいや尊き、宝冠なき王として敬意を表明す」と聖師をたたえ、エスペラント中央委員会会長・英国エスペラント名誉会長であるジョン・マーチャントは、「最も尊敬する出口師よ。…いまこの瞬間、私の心を満たしている希望と、貴下が健康と、力と、幸福のうちに長生きされんことを望み、なほ一層人類のために、偉大なるお仕事をつづけられますやう……私は善なる神が、貴下とそして貴下のお仕事を祝福されるやう希望します」との祝文をよせている。
 このようにして意義ある更生祭はおわった。だが、梅花運動がおわりをつげたのではない。それを契機として梅花運動はいっそう強力にすすめられていったのである。更生祭のおこなわれた八月二五日には大本祥会の規約が改正され、分会を主会と改称、駐在・特派宣伝使を祥会職員として規約に規定し、地方宣教の体制がさらに強化されていた。そしてこれまでの宣教では、奄美大島・沖縄へは山口利隆、北海道へは田中省三、台湾へは河津雄と石丸順太郎、壱岐・対馬へは上村照彦と石田鎮彦、朝鮮・満州へは筧守蔵・深水静・宇城省向、伊豆大島へは鵜飼美生かそれぞれ任地で活躍し、また吉原亨・大国以都雄・古高常徳らが各地に特派されて成果をあげてきたが、更生祭を機会に駐在および特派宣伝使は全員が解任されることになって、あらためてつぎのような任命があった。

駐在宣伝使=山口利隆、桜井八洲雄、橋本亮輔、深水静、田中省三、土井大靖、宇城省向、上村照彦、石田鎮彦
特派宣伝使=大国以都雄、加藤明子、吉原亨、石丸順太郎、中村純也、富士津日水勇、古高常徳、竹本朝太郎、奥村芳夫、細田東洋男

 一方、同じ八月二五日、人類愛善会では、東京市四谷区愛住町にある東洋本部に、総本部の東京事務所をおき、そこで総本部の事務をとることとし、分会・支部の統轄機関として連合会を設け、本部・地方の組織体制が整備強化された。そして南洋ポナペ島に開栄社を創立し、宣教をかねて開拓事業がはじめられていた。また国内での道院・世界紅卍字会の設置数も四〇〇をこしていたので、祥会に道慈課が新設され提携はさらに緊密なものとなっていった。
 ここでこの当時の信者の分布と宣教進展の状況をうかがうために、一九二八(昭和三)年みろく大祭当時と一九三一(昭和六)年九月における府県別の分所・支部一覧を右表(八六頁)に示しておいたが、こうして大本は国内ばかりでなく、ひろく海外にも雄飛して、更生祭後もさらに、全教団をあげての宣教をつづけていった。

〔写真〕
○教勢の進展とともに神域も拡大された 右より更生館 秀光館 春陽亭 大銀杏 月宮殿 明光殿 亀岡 天恩郷 p77
○梅花運動の展開 亀岡駅頭にあふれた参拝者 p79
○講話をきく修業者 亀岡 大祥殿 p81
○参拝者修業者の宿泊所 亀岡 安生館 p81
○霊界物語の拝読と研修には力がそそがれた 少年の拝読会 p82
○講習会のポスター p83
○出口聖師の還暦をいわって更生祭が盛大におこなわれた 聖師の音頭によるみろく踊り p84
○更生館 亀岡 天恩郷 p85
○教勢は国の内外で飛躍的に進展した 府県別の大本分所・支部一覽 p86
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