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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第2章 >2 皇道運動と大本よみ(新仮名遣い)
文献名3昭和青年会と防空運動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグリバチ(リバティ) データ凡例 データ最終更新日2022-07-23 23:09:06
ページ123 目次メモ
OBC B195402c5223
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本文  一九三二(昭和七)年八月の第六二回霊真如聖師生誕祭には、全国より集まった昭和青年会員は、亀岡天恩郷東光苑において、はじめて聖師の査閲をうけた。八月二三日には青年会の規約が改正され、総裁・総裁補を推戴、青任会長制をとることとなり、総裁に聖師、総裁補に日出麿、青任会長に宇知麿がそれぞれ就任した。そして航空部・訓練部が新設され今後の運動の進展にそなえた。
 さらに同年一一月の大本大祭には、制服を着用した青年会全員が東光苑に集合し、やや本格化した査閲分列式をおこなった。青年会がはじめ自発的にきめた会服は、奉仕作業に適するものとして、一つは黒のビロード地でルパシカまがいのもの、一つは肩吊り型の労働服型であった。ところが満州事変後、国防巡動が盛んになり、青年会が統一組織に改組されたために、会員の制服を統一する必要にせまられ、カーキ色の開襟、バンド付、丸型帽子とすることになった。当時会員は日光部・月光部・星光部の三段階に分けられ、日光部員は無条件無期限の奉仕、月光部員は一定の期間を限定した奉仕、星光部員は後援協力の奉仕をするものとした。制服の制定とともに、団体行動をおこなう基本的訓練を実施し、その指導は会員中の在郷軍人籍を有するものが当った。会員相互の挨拶は挙手の礼をすることにした。しかしその訓練も、各学校において基本訓練を施した程度のもので、軍隊式の訓練にまでならないようきびしく配慮した。
 一一月の大本大祭の査閲分列式のあと、つぎのような訓話が聖師によってなされた。「……いまここにお集りになった青年諸子は、全国からの、いはば代表者ばかりで数において非常に少いはずであるのに、これだけ沢山の神軍隊が集まられたのを見まして、地方に於ては更にこの上に幾十倍の神軍隊が組織されてゐるといふ事を想ひますとき、非常に心強い感じが起ります」。こうして団体的な実践活動の組織休制がととのえられていった。
 そのころのことである。当時米国空軍の権威とみなされていたウイリアム・ミッチェル将軍が、雑誌「リバチ」において「吾々は日本と戦争の用意あり」と題した論文を発表した。それには、米国の飛行機はハワイとアラスカから容易に日本を攻撃できるとのべ、また「日本の恐れているのは実に吾が空軍の威力である。日本は地形上わが空軍の活動にとって理想的な標的を提供してゐる。……日本に対する爆撃は英国よりももつと的確で決定的だ。爆弾投下は市街を焼き払ひ、村々に流れ込んだ毒ガスは完全に人々をおう殺してしまふであらう」という挑戦的主張がもりこまれていた。この論文は昭和青年会員にとっては、見逃がすことのできないものであった。「……外国軍の攻め難き、神の造りし細矛、手足の国と称へしは、昔の夢となりにけり……」の神歌に想いをはせて、昭和青年会は防空思想の喚起に立ちあがった。すなわち「挙国制空」のパンフレットを発行し、「空を制するものは世界を制す」の標語を全国に配布して、防空思想の普及運動にとりかかった。
 まず亀岡天恩郷内に防空展覧会を仮設し、しだいに内容を充実させて全国各地で防空展覧会を開催した。そして雄弁会で訓練された会員が会場内の説明にあたった。昭和青年会員のなかには、航空隊に所属していた現役の青年将校も多数いたので、その人々の協力によって資料も新鮮で正確なものが多かっか。したがってその内容は、観覧者の多くに強い印象をあたえ、各地の連隊や在郷軍入会も後援をおしまず、のちには陸海軍当局までがその援助をおしまなかった。こうして防空展覧会は昭和一〇年までつづけられた。地方巡回にあたっては大・中・小の三班に編成され、末端にまで滲透するよう配慮された。地方での開催は、一九三三(昭和八)年六月新潟を皮切りに昭和九年秋までの一年三ヵ月間に、北は樺太・北海道から南は琉球・台湾、さらに朝鮮・満州にいたるまで、開催地は一九四ヵ所、入場者は延一六〇万一三一六人、一ヵ所平均八四五三人という成果をあげたのである。地域別にみると樺太二、北海道八、東北一〇、関東八、甲信越七、東海一二、北陸三、近辮五四、山陽一六、山陰一二、四国六、北九州一八、南九州一五、台湾七、朝鮮四、満州四ヵ所などで、入場者七〇〇〇人以上一万人未満の市町村は一六、一万人以上が二八ヵ所となっている。
 雑誌「昭和青年」に発表されている聖師の文章のなかには、つぎのような一節がある。「近来世界の各国は競ふて飛行機飛行船の製作と操縦に憂身をやつし、つひに戦術上無二の武器となり」「航空機の最も完備せる国家が世界の覇を唱ふるに至った。我国の航空界も大いに近来発展したものの海外某々国に比し到底敵すべからざるの情勢である。……吾々昭和青年はこの際、神国擁護のため、一日も早く航空術を学び、国家の緩急にまみえねばならないのである」。そこでは青年は積極的に航空問題にとりくめと指示されている。そしてみずからも兵庫県城崎町にあった日本海航空会社の水上機に搭乗し、同航空会社と昭和青年会との提携がはかられたほどであった。昭和青年会の防空展開催地の上空へは、たびたび青年会章をつけた飛行饑がせんかいして、展覧会の空気をもりあげたりもした。
 一方、国際連盟をめぐる情勢が極度に悪化してきたので、昭和青年会は昭和七年一二月四日「対国際連盟国民大会」を京都の岡崎公会堂において主催した。
 川崎中佐指擇のもと、各地から参集した昭和青年会員は京都駅前から隊列を組んで行進し、平安神宮にいたって各参加団体とともに大会をひらいた。これが昭和青年会による最初の市中行進である。主催に加わった団体は、猶興学会・大日本生産党・洛北青年同盟・政友会・民政党・京都在郷軍人会・海軍義会等である。大国以都雄が開会を宣し、芦田均(政友会)・中村三之丞(民政党)・内田良平(生産党)ら各参加団体から一人ずつ熱弁をふるって、大会宣言と決議がなされた。決議には「国際連盟は速かに満州国独立の正当なることを認むべし、国際連盟にして日本の国是に反するものである時は断乎反対す」とのべられていた。

〔写真〕
○団体訓練をうける昭和青年会員 亀岡東光苑 p123
○防空運動の展開 上から 模型飛行機をとばす聖師/全国で開催された防空博覧会/防毒ガスの訓練/防火班の活躍 p124
○防空大デモ行進 徳島 p125
○国民大会は京都の岡崎公会堂で開かれた p126

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