文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第3章よみ(新仮名遣い)
文献名3創立にいたるまでよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2022-07-01 18:09:00
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一九三四(昭和九)年の七月に昭和神聖会が発会したが、この会を創立した聖師の意図は、「今やウラルの嵐は何時日本の本土に向つて吹きつけて来るか知れないまでの危機に直面し、また一方太平洋の荒波はこの大和島根を呑まむとしてゐる非常時なのである。…そこで私は本年(昭和九年)一月以来政治家その他各要路の人々の意見を叩いてみたが、この大難局を目前に見ながら、すべてが自己主義であり、事なかれ主義である。これではいけないと私は深く感じ、身命を賭しても我皇国の非常時を打開し大神の御神勅通りに日本の光を世界各国に輝かさねばならぬと固く決心したのである」(「神聖運動に就て」─『惟神の道』)と述べ、また、〝皇神のみたてと四方をかけめぐり神聖会を創立なしたり〟とみずから詠んでいるように、聖師は世をうれうる至情からたちあがったものである。
これよりさき、聖師は「人類愛善新聞」の発行について、「百万部出たらいよいよ世に立つ」といわれていたので、一〇〇万部達成後の聖師の行動が非常に注目されもした。ところが一九三四(昭和九)年三月上旬号で一〇〇万部発行が実現されたにもかかわらず、いっこうに目あたらしい動きはあらわれなかった。
しかし、ただじっとしていたのではない。ひそかに構想がねられていたのである。昭和九年の一月一四日、伊豆の湯ヶ島から突然、東京の紫雲郷別院にあらわれ、人類愛善会亜細亜本部の次長米倉嘉兵衛と常任理事高川宅次に、貴志中将・建川少将や陸軍省をたずねさせて、その月の二〇日には湯ヶ島へかえった。二〇日以後は伊豆から動かず、教団の重要祭典である二月の節分祭にもかえらなかった。聖師の帰綾は四月一六日のことであって、実に四ヵ月間というものは、その行動を一般には知らされていなかった。そして五月三日、横浜の関東別院へ二代教主と同行し、六日には綾部へかえった。しかし、翌七日ふたたび関東別院へ出発した。『天祥地瑞』午の巻の序文に「昨冬天祥地瑞『巳の巻』を口述し了り、引きつづき著述にかかる考へなりしが、非常時日本の現状を坐視するに忍びず、遥々綾の聖場を後に関東別院に起臥し、国体擁護の為め、昭和神聖会の創立凖備に寸暇なく口述中止のやむなきに到り」と、その当時の消息をもらしているところからみると、その間、ひそかに構想をねられていたものと思われる。前の年の一二月から約半年のあいだ、大国以都雄・深町霊陽・国分義一らに命じて、時局の推移と情勢判断の資料が集められていたことから推しても、その間の事情の一斑がうかがわれるのである。
本部のほうでは、聖師が関東別院にはいったまま帰らないうえに、いろいろ大がかりな計画がおこなわれているといううわさが流れてきたため、聖師の動向が総務会で問題となった。そこで五月三日聖師が二代教主を同伴して関東別院に出発する機会に、総務会を代表して大国が随行し、うわさの実態を調査するとともに、聖師の意図をたしかめ、しきりに帰郷を懇請したので、一二日聖師はいったん帰亀したが、二三日には再度東上してしまった。当時東京においては、政友会代議士長島隆二や公爵一条実孝その他の有志と、そのころ聖師の側近にいた内海健郎・国分義一・岡本霊祥・深町霊陽・林英春らとのあいだで、大日本協導団の結成原案が作成されていた。しかもその賛成者にはほとんど政界・財界・軍人・知名人の名が網羅してあったが、果してそれらの人々が結成に熱意があるか否か、はなはだ疑わしかったので、ふたたび総務会は六月五日大国を上京させてその調査にあたらせている。ついで六月八日、上京した宇知麿は大国から「協導団運動の件」を聴取しており、一六日ふたたび上京した宇知麿は、聖師より「ソノ後ノ教導団結成ノ模様ヲ承り主義・綱領・団則等ノ原稿」を託されている(「宇知麿日記」)。
その大日本協導団は、政界・財界・学者・宗教・法曹・新聞・文芸・愛国者等各界の有志を網羅したもので、原案には、主義として「本団は協導精神を信条とし、中外に皇道の大義を宣布す」と記されていた。また綱領には「一、本団は皇祖の神勅を奉戴し肇国皇謨の恢暢を期す 一、本団は皇道の大義に徹し顕正破邪の実践を期す 一、本団は協導精神に則り全人類和平の確立を期す」とのべられている。団員は、名誉団員・特別団員・賛助団員・維持団員・団員の五種にわけられ、団は団員費・団員の寄付金・篤志家の寄付金ならびに本団所有の動産および不動産よりの収益で運営するたてまえをとっている。機関としては、評議員若干人・理事若干人・総裁一人・副総裁二人・参議若干人・顧問若干人を置き、総裁には公爵一条実孝が就任することになっており、実践行動の方面では協導軍団を組織して、その大総統に出口王仁三郎があたることになっていた。このように大がかりな一大愛国的国民団体が構想されていたのである。
第二次大本事件第二審公判のさい大国が提出した上申書には、「出口王仁三郎は長らく横浜の大本別院に滞在して当時の上層愛国団体の指導者だちと交遊し、……既に四、五人の人々と図り、純然たる愛国団体を創立し、国内の諸愛国団体を統合せんと計画してゐた所に私か訪問したのであります」と書いている。聖師からは「此の非常時に当り、日本国民として如何にも晏如としてゐることは断じて出来ぬ。それで既に三、四人の人達と愛国団体を創り誠心を以て御奉公せんと協議してゐる所である。幸に君は愛国運動の部面(昭和青年会)を担任してゐるのだから、その人達と協力してみてほしい」との指示があった。そこで大国は、「三、四の人達」と数回にわたって意見の交換をしたが、結局これらは「資金のみを要求すると共に名誉の地位を獲得せんとする野心」のみが見えたので、大国は率直に協導団結成は机上プランで成立しないことをのべ、聖師に断念されるよう進言した。ところが、「私は大本教団といふものを飛び出して一個の出口王仁三郎となり、日本臣民として御奉公する時は今日であると思ふてゐるのだから。此の事が成らでは綾部へも亀岡へも帰らぬ決意である。是非憂を同じふする人々によって純真な愛国団体を設置してほしい」という聖師よりのかさねての指令があったので、大国は協導団構想を一応破棄し、あらためて聖師の意図にそう構想のねりなおしをした。
聖師の歌に、〝偉大なる民間有志の現はれてこの難局を救ふべき時なり〟〝非常時の日本を万世に光らすべき非常の人物現はれむとすも〟(「昭和」昭和9・3)とうたわれているように、聖師はこの年はやくもかたい決心をしていたことは否定できない。
一九三四(昭和九)年の七月八日、東京築地の料亭常盤で第一回の昭和神聖会創立委員会が開かれた。出席したものは宇知麿・大国・御田村竜吉・米倉嘉兵衛・米倉範治・土井靖都・広瀬義邦・河津雄ら、約三〇人の大本および人類愛善会・昭和青年会の幹部たちであった。大国によって執筆された声明書・綱領・会則などの原案を特別委員に付託し、準備委員長に御田村竜吉、副委員長に米倉嘉兵衛をあげ、専任委員長に大国を、専任委員には河津・深町・富沢効・内海・国分がそれぞれ委嘱された。そして七月六日には銀座の交詢社ビル五階に創立事務所を設け、その後はそこで毎日のように会合が開かれた。
以上の創立委員会の顔ぶれをみると全部大本の信者である。それまでに大国らが一条、宮家の方および男爵菊地武男、安藤紀三郎・貴志弥次郎・佐藤清勝らの各中将などと数回の会合をかさねたが、その意思はあってもいよいよとなると慎重論が大勢をしめ、いたずらに時をかされるの感があった。聖師からは非常につよい態度で、創立の時期を逸してはならぬとの指示があったので、自主的にまず立ちあがり、その後各方面よりの賛同と協力を要請し、これらを糾合するという方針にきり加えられたのである。
一三日には、発会式を七月二二日に挙行することに決定し、会場は九段の軍人会館を使用することとした。軍人会館は一般民間団体には使用させないことになっていたが、昭和青年会が同館の建設資金の一部を献金していた関係もあって使用することができた。警視庁や憲兵司令部などに届け出をし、各新聞社や各愛国団体などへも挨拶状を発送すると同時に、人類愛善会・昭和青年会・昭和坤生会各支部へ通達がだされ、東京の各支部には当日の会場整理などにあたるよう指示がなされた。
〔写真〕
○押しよせる弾圧の嵐 民衆はつねに警察に監視されていた p165
○昭和神聖会創立の構想がねられた… 関東別院 p166
○伊豆別院 p166
○世をうれいてよまれた出口聖師の歌 p167