文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第4章 >2 教団の充実よみ(新仮名遣い)
文献名3神苑の造営と祭事よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-11-20 16:28:19
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〈亀岡天恩郷〉 一九三二(昭和七)年二月一日には、更生館北側に聖師の画室が更生館付属建物としてたてられ、みろく亭と名づけられた。二月一六日には、天恩郷北側(現在の植物園)に万祥殿を建設するために地鎮祭が執行された。総建坪五五五・五坪で広前だけでも一〇〇〇畳敷き、屋根の高さ一八メートル、総銅葺きの予定であり、神殿・拝殿・広前をそなえ、広前の約三分の二は椅子席、三分の一を畳席とする構想であった。七月二二日には瑞声閣が完成した。瑞声閣は建坪二五〇坪、和洋折衷の総二階だてである。大本瑞祥会各部課はここに統合され、昭和青年会・昭和坤生会・天声社事務所も包含することとなった。つづいて七月三〇日には瑞月庵が完成した。ここは聖師の休養所にあてた。建坪五〇坪、六室で中二階だてである。この完成祭が挙行されたとき、聖師は「従来落成式とか竣成式とか称してきたか、言霊学上からは誤りで、真に完成した意味にはならぬ。今後は大本では完成式と称するやう」と示された。一一月三日、洗心亭(浴場)が完成した。しかし参拝者・修業者が激増してきたので、翌年一一月三日移築し新心亭と改称した。昭和八年七月一八日には保生倉庫が完成している。
万祥殿の建設はその後進捗しなかったので、一九三三(昭和八)年二月三日、万祥殿完成促進委員を任命して促進がはかられ、一一月二三日より秋の大祭参拝者のうち七〇〇人によって、くり石や砂利運びと地搗がおこなわれた。くり石は、聖師の命によって天恩郷内より掘りあつめたものを使用している。こうして万祥殿は昭和九年中に完成することになっていた。一〇月には七月苑を東雲社と改称し、『天祥地瑞』の筆記および聖師の著述や作品を整理する機関がおかれ、一一月二五日には教碑・追懐碑の完成除幕式がおこなわれた(五編二章)。
一九三四(昭和九)年三月二八日、地鎮祭を執行した透明殿は、翌年二月七日完成祭をおこなった。建坪一二〇坪、木造二階だてで、聖師の応接用をかねて昭和神聖会の統管部にあてた(五編三章)。一九三五(昭和一〇)年の一〇月三〇日には、大本会館の地鎮祭がおこなわれた。大本会館は建坪二五〇坪で、最初昭和青年会館として企画されたが、その後芸術会館にすることになり、常時神劇・神聖歌劇や映画が上演でき、また各種会合にも使用できる会館の様式で、三〇〇〇人収容できる設計にあらためられた。なお東光苑西南隅に建設中の昭和青年会国防部の国防館が、昭和九年一二月三〇日に完成している。
その他昭和九年において透明殿東南角の石垣工事、高天閣より東雲社前の坂道のコンクリート舗装工事、第二安生館裏濠の埋立工事、東光苑北側旧馬場跡を二分して花壇・新池とする工事など、神苑内の整備がたえまなくおこなわれ、また昭和一〇年二月には第二安生館裏(現在の天声社工場)の竹藪をふくめて五〇〇坪の地所を買収した。
〈綾部〉 一九三一(昭和六)年八月一九日には至聖殿の、ついで一〇月二九日には五六七殿の瓦屋根を瓦板葺とする工事が、それぞれ完了した。一九三二(昭和七)年一月二七日には、穹天閣北側に三六亭ができた。三月には参拝者の宿舎として、個人経営になっていた第一・第三・第六宿舎は廃止し、旧天声社二階を神生館と称して、本部直営宿舎にあてることとした。翌年六月には綾部並松の松雲閣に移転し、名称は神生館としていたが、昭和一〇年これを祥雲閣と改称した。
一九三四(昭和九)年八月二〇日には鶴山に宝物蔵が完成し、これには黄金閣に保管されていた筆先・『霊界物語』の原稿および宝物等がおさめられた。一〇月には祖霊社東側の梅原宅敷地を、つづいて翌年二月には神苑の隣接地一三戸の敷地一五〇〇坪を買収して、神苑は一段と拡張された。
一九三五(昭和一〇)年一〇月二七日、鶴山(本宮山)山頂に建設される長生殿の斧始式がとりおこなわれた。長生殿については、八月の主会長本部長合同会議の席上、聖師によってつぎのようにのべられている。「皇道を天下に宣布発揚せんとせば、どうしても大神様の神霊の奉安所を建てて神様に奉る必要が迫つてゐる……それで本年の一〇月二七日の記念日(第一次大本事件により大正一〇年一〇月二七日に本宮山神殿の破壊完了)に斧始式を執行したい。月宮殿は十字の形になつてをる。……乾坤に通じてゐるといふ精神から、皇道の本意を体し今度の長生殿も神様をお祀りするから、十字の神殿にした」。
しかし万祥殿といい、長生殿といい、ともに未完成のままに第二次大本事件をむかえるのである。
〈穴太瑞泉苑〉 一九三三(昭和八)年夏、穴太の久兵衛池(玉の井)を整備するため周囲に石垣をめぐらし、従来の約六倍のひろさに池を拡大した。そして一一月二日に玉水殿の斧始式をおこなった。建坪六五坪余の神殿造りである。このときより穴太の玉の井の名称を、瑞泉苑と改めることになった。玉水殿はその後工事をいそぎ、昭和九年四月二〇日完成祭をかね大神の鎮座祭が執行され、さらに八月一六日には玉水殿の社務所が完成した。この社務所は水上館ともよばれ、王の井池の一端にまたがった建物である。
一九三五(昭和一〇)年二月七日には、石の宮の神聖神社が完成し鎮座祭が挙行された。ご神体は璽と鏡と剣である(五編三章)。なお同年三月三〇日には長久館の遷座祭がおこなわれた。
〈祭事〉 一九三一(昭和六)年一一月一三日、第四回大本瑞祥会総会において本部は、大祭・中祭・小祭の区別をあきらかにした。「大祭は節分大祭、春のみろく大祭、瑞霊真如聖師生誕祭、秋の大本大祭で全国の信者全体が奉仕する祭典であり、全信者が参拝し感謝をささぐべきものである。参拝できない場合は、玉串を送つて共にみ祭りに参加するもの」「中祭は、本部でおこなふ各大祭および本部月次祭以外の祭典で、信者が各自に参拝してみ祭に参加するもの」「小祭は、本部や分所支部の月次祭であって、本部にあつては在住信者、分所支部においてはその所属の信者が共に参拝し奉仕するもの」というのであった。
一九三二(昭和七)年旧七月一二日、瑞霊真如聖師生誕祭を亀岡町の夏祭りとすることになった。亀岡町では町の発展策として大本との関係を密接にすることと、これまで亀岡町に夏祭りがなかったので、商工会・町当局・部落会等の総意による要望で決定されたのである。当日は大本の神輿は東光苑広場にお旅所を設け、その前で郷土芸能・みろく踊などをもよおし、第二日は神輿を町有志が供奉して町内を巡幸し、町内各戸に軒灯・神灯・大本神旗をかかげ、打上げ花火などで祭りのムードをたかめた。
一〇月三〇日には、信者以外の綾部鶴山の拝観または案内を禁じた。なお一二月には、天王平に納骨堂が完成した。
一九三三(昭和八)年二月三日の節分大祭には、人型行事中、聖師みずから太鼓を打ち、七五三調を五六七調にあらためられ、瀬織津姫の行事には先頭に立って和知川におもむいた。二月二八日、聖師の命により、この年からの祖霊大祭を大本春秋の大祭とあわせてとりおこなうことになった。これまで祖霊大祭は、昭和二年秋以来大本の大祭とは別個に、春秋の彼岸の中日になされてきたものである。
同年一〇月二七日、神島参拝の当日、亀岡天恩郷の高天閣に綾部から遷座してあったみろく大神の神霊を、月宮殿内に遷座した。一一月一九日、大本大祭の信者総会で聖師の命により、祝詞の「神言」中の「荒振神等をば」とあるのを今後は「荒振る神等をば」と奏上すること、また四拍手はあまりはやすぎないようとの注意があった。
一九三四(昭和九)年三月一日、綾部の金竜海の大八洲神社の下に奉祭してあった岩戸神社の神霊を、教祖殿内に遷座した。そして四月一一日には、元の岩戸神社に白竜明神を鎮祭した。
一九三五(昭和一〇)年八月の亀岡における聖師生誕祭は万祥殿が未完成であったため、その敷地に天幕をはっておこなわれたが、一〇月二八日の綾部における大本大祭は、斧始式をしたばかりの長生殿敷地内で、聖師が斎主となってとりおこなわれている。ついで翌日の開祖祭も聖師が斎主となられたが、聖師が斎主となったのは大正一四年以来一〇年ぶりのことであった。この年から従来綾部五六七殿と亀岡大祥殿でおこなわれていた大祭の祭典が、長生殿と万祥殿でおこなわれることとなったのである。
なお同年一〇月二五日、五六七殿および大祥殿の朝夕の礼拝は、朝拝式に「神言」、夕拝式に「大本祝詞」と変更された。
〔写真〕
○万祥殿の建設は急ピッチで進められていった 亀岡 天恩郷 p233
○五六七殿 右は至聖殿 上方は本宮山の穹天閣と三六亭 綾部 p234
○周辺に水をたたえてそびえる言霊閣 p235
○長生殿の斧始式 綾部 鶴山 p236
○神輿の渡御は大祭のムードをもりあげた 亀岡 天恩郷 p237
○節分大祭の人型大祓行事 左から二代教主 出口日出麿 出口三千麿 五六七殿 p238