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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第2章 >4 弾圧の嵐よみ(新仮名遣い)
文献名3起訴と起訴猶予よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ472 目次メモ
OBC B195402c6244
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本文  ここで読者の便をはがるために、全国的におこなわれた昭和一一年末までの検挙数と、その処分についての一覧表を、当局発表の資料にもとづいて、次頁にかかげておこう。
 もとより次頁の表は当局側の公表資料であって、すべてが網羅されているわけではない。警察に検束されたり、または出頭を命じられた数などはこの表にはしるされていない。それらの数をくわえれば、その関係者は三〇〇〇人をはるかにこえていると思われる。
 つぎに、昭和一一年末までに起訴された人々の氏名を列挙しておく(氏名は裁判調書による)。

出口王仁三郎 出口すみ 出口元男 出口伊佐男 井上留五郎 高木鉄男 (亡)岩田久太郎 東尾吉三郎 御田村龍吉 桜井同吉 西村昂三 湯川貫一 湯浅斎治郎 大深浩三 森慶三郎 桜井重雄 山県猛彦 河津雄次郎 藤原勇造 土井靖都 田中省三 藤津進 出口貞四郎 出口新衛 中村純一 北村隆三 広瀬義邦 瓜生鑅吉 徳重敏雄 木下愛隣 森国幹造 岩佐守 国分義一 米倉恭一郎 木村貞次 松田盛政 細田市左衛門 波田野義之輔 井上省三 佐藤善四郎 細田東洋男 桐村満蔵 比村中 吉野光俊 笹岡康男 長野久治 中邨新助 鈴木常雄 浜中助三郎 安藤武夫 児玉知二 中野隆次 (亡)宮川剛 伊藤伊助 中野与之助 関由太郎 武田仙蔵 竹原弘 富井徳太郎 石山喜八郎 国分周平

 起訴留保の処分は山口利隆・奥村芳夫の二人であった。
 起訴猶予の処分をうけた者はつぎの一七四人であった(氏名は当局発表による)。

(出口家)出口あさの 出口むめの 出口八重野 出口尚江 出口住ノ江 (綾部)梅田常次郎 細見惣一郎 成瀬勝良 杉本豊次郎 (亀岡)吉原亨 有留弘泰 伊藤栄蔵 辻安英 上野威 山内二郎 安部融徳 大場群平 大崎勝夫 岡部善平 志田富雄 黒田正幸 (北海道)石田卓次 (青森)立花新四郎 (岩手)桑畑鶴松 菊地万慶 (宮城)佐沢広臣 大槻貞一郎 中鉢玄策 半沢和作 水戸富治 遠藤元吉 青砥勉 (福島)武田美儀 池田新次郎 渡辺誠二 野崎斌 鈴木恒男 鈴木喜久男 戸部初太郎 三浦要 添田藤右衛門 加藤利七 日野小五郎 (栃木)鈴木延吉 池田一郎 (茨城)中島義信 二川宗兵衛 野口茂平 赤沢光之助 神田四郎 太田貞三郎 飯野茂司 矢口基宣 赤沢善兵衛 飯田一郎 植田清次 徳田辰男 宮島隣堂 鈴木幸助 (東京)東島猪之吉 (神奈川)中野岩太 秋山陽三 木下仙一 (山梨)細田徳治 熊谷真咲 (新潟)山田善一 (石川)堂前正盛 島田九左衛門 川畑次政 浜中助太郎 高沢善七 津川春朗 田辺祐信 榊原房次 西出和三郎 小泉栄次郎 松島懿秀 松任乙松 丹羽市三 青柳董一 大野久一 中村精司 (長野)玉井一郎 (静岡)古知市太郎 木野大五郎 小野武夫 井口太郎吉 藤原章雄 (愛知)浅井昇 山田義政 大田栄 内藤粂幸 小野田寿一 森長勉 (三重)岡房一郎 山田貞佳 (和歌山)島田頴 小川定夫 玉置安太郎 (大阪)猪原良二郎 前沢千代雄 西田豊太郎 木口操 中道幸雄 (京都)上野啓一 (兵庫)中島省三 建内平八 飯田辰雄 (鳥取)藤田武寿 平木正二 (島根)梅村隆一 田村兼太郎 藤井浅吉 三上造酒 米田梅三郎 青木憲二 吾郷得郎 樋野久一 吾郷益斎 大倉中 尾添清吉 原田重男 須田徹 古川治男 石倉徳 田中又市 荒木武信 荒木栄 今津堅吉 (岡山)牧慎平 村上貞夫 藤原義男 藤井健弘 松永友吉 山口武彦 七村金太郎 (広島)和田仁三郎 平岡良夫 桐島直一 井ノ本新左衛門 伊達則之 川上忠夫 (山口)藤本善男 佐藤実雄 西島新一 中原幸次 植田直樹 佐戸隆一 松村協弼 宮脇沢一 (徳島)山本治郎 (高知)坂本登喜男 和田鹿沖 荻田近一 (愛媛)石丸順太郎 (福岡)讃井音次郎 掛豊彦 古川仁蔵 渡辺一 前田広治 中島丙恵 山本速 (大分)南佐一郎 佐藤宗喜 (佐賀)古井清市 原口正次 石橋忠吉 野中嘉一 古井輝清 伊東貫一 小野今吉 小笠原茂 (熊本)北里利義 木庭次守

 なお昭和一二年に起訴猶予となった者は一三人であるが、その氏名はつまびらかでない。
 こうして昭和一一年はおわった。それは暗くおもくるしい一年であった。ところで、この重圧下における大本信者の動向はどのようなものであったろうか。前にも引用した『社会運動ノ状況』(昭和一一年)には、つぎのように報告されている。

一部の狂信的信者間に於ては流石に異常の昂奮に駆られ、今次検挙は即ち「昭和神聖会等の愛国運動に対する現政府の政策的弾圧なり」となし、或は「這は即ち法難にして如何なる弾圧に遭ふも我等の信念は聊かも変動するものにあらず」等の言辞を漏らし、或は又「聖師様(王仁三郎)に限つて不敬等のことあるべき理なし」等と飽迄不逞の事実を信ぜず、更に進んでは「今次検挙は大本発展の一過程たる神の試練にして之に依り正信と非信が立別けらるるなり」とすら妄称する者ある等の状況にして、一般信者も亦概ね大本再起を予想して成行を静観しつつある模様にありたり。然るに其後事件の真相漸次明確となるに従ひ、世人の大本教団に対する批難攻撃は益々喧囂たらんとするあり、信者等も亦冷静に反省するものを生ずるに至りて自ら幹部役職を辞任し、謹慎の態度を示し転宗を声明する等の者相亜いで出で、早くも本年一月迄に自発的に看板を撤去し解散したる支部二十数支部を数ふるに至れり。斯くて信者等は検挙を機として益々迷蒙を深め密かに信者の結束に暗躍せんとする頑迷者派と、当局の措置、一般の報道を素直に肯定して転宗謹慎を表明する者とに概別せらるるに至れるが、日時の経過と共に自ら反省して迷妄を脱却し、進んで転向転宗し、又は当局の指示に従ひて去就せんとする等の者逐日増加の傾向を示し来れり。斯かる状勢下に於て本年三月十三日、先づ王仁三郎以下の最高幹部九名が起訴収容せられ、更に同日附皇道大本外七団体に対して結社禁止の命令あり。次いで各地の奉斎施設に対しては撤却又は改修の命令発せられ、又地方幹部等の第二次検挙断行せらるるに至る等、当局の峻厳強硬なる各種の処分を受くると共に、其の反面に於ては夫々地方当局より本教団の兇邪不敬の所以を懇切明確に説示せらるるに及び、表面の皇道仮装に眩惑せられて入信せる大部分の信者等は、今更其の不逞不敬なるに驚き呆れ、自ら奉斎せる私宅の祭壇を毀却し、又は大本関係の書籍物件類を進んで当局に提出する等の所為に出で、深く自己の迷蒙不明を陳謝するに至れり。概況上述の如しと雖も、其間大本教義の表裏を皓々知悉して密かに其の目的達成を冀求せる者、若は一部の偏狭なる狂信者等にありては、叙上恩威併行の措置命令にも猶肯ぜず、「未だ判決の確定を見るにあらざれば信仰を捨て難し」と称し、又は「聖師は現神なれば必ずや無罪の判決を得て出獄し、大本運動は再び隆昌を見るべし」等を夢想し、秘かに王仁三郎の写真又は大本皇大神等を神壇の深奥、裏面等に納めて礼拝し、或は神諭、霊界物語等の重要教義教書を、非信者、知友等に托して蔵匿する等、頑迷の態度を示しつつありて、之が為再検挙せられたる者も二、三に留らざる事情なり。

 警察当局側も信者の動向をかなり把握していたことかわかる。さらに「特高外事月報」(昭和11・5)によれば「……而して之等自白者にありては、概ね一応自己の不逞不敬を陳謝して転宗を誓約しつつあるものの如くなるが、一部の狂信徒輩にありては、自白後に於ても猶『今次の検挙も畢竟神の経綸に外ならず、御神業は尚刻々進行中にして転向の必要を認めず』と豪語し、或は『御皇室に対し奉りては畏れ多くも、現在の心境としては転向の意志毛頭なし』と陳述して憚らざるものある状況にして、前記の所謂転向転宗も方便の転向なりや、衷心よりの転宗なりやを疑はしむるの余地ありと思考せらる』ものあり」とのべており、その七月分の「概説」には「……然れども一般信者中には今尚秘かに信仰を続けつつある者尠なからず、甚だしきは再び組織的再興を計らんとしたる事例あり。之等に対する取締乃至転向補導に関しては留意を要する所なり」と記している。
 たたいてもたたいても、なお根づよく燃えつづける信仰の火に、いかに当局が手をやいたかを、これらの報告書も物語っている。神を信じ、聖師を敬愛し、さらに身の潔白を確信している信者にとって、それは当然のふるまいであった。
 六月一五日には全国地方長官会議後、宮中において、天皇より「大本教検挙事件によつて宗教の信仰心に及ぼした影響はないか」との問いがあり、それにたいし鈴木京都府知事は、「府下には大本教を信仰する民は必ずしも多数でなく、在来の宗教には余り関係はなからうと見てをりますが、この事件によって在来の宗教は今後一層すべてに注意致して行く必要があらうと存じ上げます。大本教は京都府下の民よりも他国から集まつた信者が多く、これらも今回の検挙によつて遷善改過して真の日本人に還るものがだんだんにあります」(「大阪朝日新聞」昭和11・6・16)とこたえた。
 京都府警察部では、大本の検挙や取調べにたいし、功労顕著であったとする警察官の論功行賞を発表した。そして七月二日には京都府庁で内務大臣から功労記章の伝達および、鈴木京都府知事から特別賞の授与が盛大におこなわれた。功労記章は軍人の金鵄勲章にも相当する栄誉とされ、当時特高課の次席であった奥永不可止、特高課警部の高橋誠治・蔵本岸松・小川貢、亀岡署特高係巡査部長の由良伍一の五人がうけた。なお特別賞をうけた者は当時綾部署長の五十嵐定七ほか三九人であった。その後この論功行賞にもれた者から不平がおこり、「部内統制上に一暗影を投じかねまじき兆を示すまでに立ちいたつた」(「大阪朝日新聞」昭和11・11・21)とさえつたえられる。また大本検挙陣の主要人事にも異動がおこなわれた。七月二五日には、ひとのみち教団を検挙するため、杭迫特高課長が大阪府の特高課長へ転任した。しかしその後任には大本検挙綾部大隊の隊長であり本部施設の破却を担当した永岡保安課長をあて、大本糾察の手をゆるめることはなかった。
 このような報道がかさなるにつれ、信者はこのたびの事件が国家的大事件であることをあらためて思い知らされ、苦難にみちた前途を痛感せざるをえなかった。

〔写真〕
○事件によって昇進への道がひらかれていった 京都府庁での大本事件表彰式 p477
○大本事件の表彰をめぐり不平不満が爆発し内部抗争が表面化した 暗闘をつたえる新聞紙面 p478

〔図表〕
○無題 p473
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