文献名1大本七十年史 下巻
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文献名31 昇天よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九四六(昭和二一)年の春から夏にかけて、前述のように、第二次大本事件で徹底的に破壊された綾部・亀岡の両聖地のとりかたずけや、あらたな構想による築造整備の作業が、全国の信徒の勤労奉仕によって順調に進捗していた。
聖師は毎日のごとく、中矢田農園から更生車で天恩郷に出かけ、月の輪台の築造、瑞祥館の建築等の現場に、土と汗とにまみれて炎暑も苦とせず献労している数十人、ときには百数十人にのぼる奉仕者の陣頭指揮にあたった。そのため作業は急速に進んだが、八月にはいってからはさしもの聖師にも、疲労の色がみえはじめ、孫の曙(出口虎雄の長女)をひざにだいて、天幕の中で休息をする時間もおおくなった。しかもその間も、聖師によって、〝遠近のまめ人あまたおしよせてやすらう間もなき吾なりにけり〟〝意外にも訪問客の多くしてやすらう間さえなきぞくるしき〟とよまれているように、来訪者や信徒の面会のたえまがなかった。
八月の一四日には急に腹痛がおこり、工事中の瑞祥館に三泊して静養につとめた。月の輪台の石垣積みが完了した二五日の午後、聖師から「今日はみな早うやすんでくれ、わしももう帰る」との言葉があり、更生車にゆられて農園に帰る聖師を奉仕者らは見送った。その翌二六日のあさ、いつもは早起きにもかかわらず、ようやく九時ごろに目ざめ、すこしふらつかれたので、手洗いからのかえりには側近の者にささえられていた。そして神前の間に入ってそのまま床についた。これが第一回の発作である。かけつけだ亀岡の上原久一医師により脳出血の症状と診断され、絶対安静となった。すみ子夫人はもとより、出口家一同・役員や側近の者は非常に憂慮して、その看護に万全をつくした。
かつて一九四〇(昭和一五)年八月一二日、大阪の北区刑務支所(未決監)に収容されていたときに心臓病でたおれ、脈搏は一二〇となり結滞がつづいたことがある。保釈出所した翌日の昭和一七年八月八日に、上原医師の診察をうけたところ高血圧と診断された。そこで一〇月二一日には上原医師と京都日赤の児玉病院長との診察をうけ、昭和二〇年九月二四日にも高血圧のため臥床をみた。その後、楽焼制作中にも高血圧でしばらく床についたり、紀州旅行のおりにも二、三度、高血圧症状でフラフラしたことがあった。そのため今回は相当に重態ではあるが、安静加療されるうちには、神の加護のあつき聖師のことであるから、かならず快復されるものと、周回では希望的楽観をしていた。
聖師発病の報は全国の信徒につたわりつぎつぎと亀岡へかけつけてきたが、すみ子夫人のほがらかな言葉や、在住信徒の「神さまだ。心配はないだろう」という言葉になぐさめられて、かえっていった。本部としては九月二日に。「苑主先生には………高血圧の亢進を來し、本月二十六日以来病床に就かれて居ます。御老令のことでもあり御容躰をお案し申上げて、専ら静養をお願いして万全の御看護をさせていただいて居ります」と地方へ通知し、「今後苑主先生への御面会は一般の皆さまから進んで御遠慮していただき度」とうったえている。
天恩郷の瑞祥館は九月八日にほぼ完成したが、聖師が病床にあったので、完成式は延期し、また一〇月に石川県、一一月に九州路へ予定されていた聖師の巡教も同時に延期された。そのうちに病状は小康状態となったので、一二月五日の夕刻、特別に仕立てたほろつきの寝台で仰臥のまま、奉仕者八人によって台をささえられて、中矢田農園から瑞祥館へ気げんよくうつられた。その間、主治医の上原・浅井両医師、出口家はじめ役員たち多数のものがつきそった。瑞祥館の完成式はそれから三日後の一二月八日におこなわれた。その後病状は一進一退し、ばかばかしくないので、京都から細野四郎・林良材医博をたびたびむかえて手当てをし、また信者の奥井敬三鍼灸師の治療をもうけた。看護の奉仕者も増員し、中矢田農園からつきそっていた松浦くに子・牧原正子・海月テル子、また途中から内海静江・三雲暉江・内崎昭代・坪内千栄子らが側近につとめた。
聖師は半身不随で、動くことができず、ほとんど臥床したままであった。しかものちに、右脚に神経痛が併発した。それでも性来の楽天主義は不自由をすこしも気にすることなく、信徒たちに、「わしが、こうしていることがご用なんだ」とかたられていた。いつも、なにか楽しそうで、病室はあかるいふんいきにあふれていた。国際宗教懇談会が開催された事情について、出口伊佐男委員長の報告をうけられたときは、わがことのように得々として非常によろこばれたという。また聖師の道歌をえらんで編集した『愛善の道』が出版されたときは、何回となく手にとってその出版をよろこばれた。また委員長らから愛善苑の目ざましい発展の模様を聞くことが、なによりの楽しみで、「愛善苑はわしがやってるんじゃ」と満足そうであった。
従来から聖師の聖霊は、天かけり国かけり霊的に世界各地をめぐり、救世の神業を遂行されるものとみられていたが、病床につかれてからは、ことにそのような様子がいちじるしくなった。しばしば側近に、「金塗雲車に乗ってエルサレムに行ってきた」とか、「中国の万寿山にいった」とか、「外国へ行ったが、ミロクさまのお降りだといって足や手にすいついてきて困った」とか、もらされていた。なお全国の信徒が祈る声がきこえるとか、救いをもとめているとか、種々様々な霊的現象がひんぱんであったが、そのたびごとに肉体の疲労がすすんでいった。
一九四七(昭和二二)年八月二七日(旧七月一二日)は、聖師のかぞえ年七七才(満七六)、喜寿の誕生日である。ところがさきにもふれたように、聖師は「七十七」とか喜寿という言葉をきらい、「わしは三十三じゃ」といいはって喜寿としての慶祝はゆるされなかった。そこで「瑞生祭」とよぶことにし、盛大に瑞生祭が月の輪台でおこなわれた。四〇〇〇人におよぶ参拝者は、祭典後二列となって瑞祥館の庭をへだてた道をすすみ、瑞祥館縁側の安楽椅子にもたれる聖師に、ややはなれて面会できるようにはかられた。白髪がとみに増したと思われる聖師の容姿に、久しぶりに面接した信徒は、感激をあらたにした。
秋のおわりから初冬にかけて、医師たちは、容態は順調で急に異変がおこることはないとみたてていた。しかし聖師からは側近のものに、「お世話になった」といつにないあいさつがなされ、主治医にたいしては、ことにていちょうなあいさつがあった。一二月八日には新生記念祭が執行された。その朝、聖師の容態が急変したが、やがてもちなおした。しかし、このころから瑞祥館には憂色がただよいはじめ、出口家の者や、愛善苑の幹部が交代で瑞祥館につめることになった。
一九四八(昭和二三)年一月になって、医師たちも交代で瑞祥館につめ、なんとなく重苦しい空気がふかくなった。そのころ愛善苑の宣教活動はいよいよ活発となって、委員長は地方の要請で出張がちとなり、その他の講師たちもほとんどではらっていた。一方、出口貞四郎委員は病床にあって重態がつたえられ、東尾委員もまた健康がすぐれず臥床しがちであった。一月一七日午後九時半ころ、出口光平に「宇知麿は」とよばれ、「愛善苑はどうや…」との聖師からたずねがあったので、光平から最近の動きか報告された。「みな心そろえて一生懸命にやらして頂いています」との返答をきいて、うなずかれたという。これが愛善苑についての最後の報告となった。その夜半の二時ころ、郷里の穴太からとどけられたボタ餅を少量摂取され、側近の者が拝読していた『霊界物語・天祥地瑞』の塵を片手にとられ、しみじみと見つめられていたが、「もう休む」といつの間にか眠りにつかれた。それが最後の言葉となった。
一月一八日の朝八時ころ、イビキが異常なので医師が診察した結果、再度の脳出血と診断され、それからは昏睡の状態がつづいた。委員長は静岡県下を巡回講演中であった。ただちに急電を発したが、終戦後の混乱した通信網は当時まだ回復していなかったので連絡がとれず、夜になって、特別の好意による鉄道電話で、やっと連絡することができた。他方、全国の各審議員・支部・連絡事務所には聖師危篤の電報を発し、在住信徒は道場に緊急集合して、熱烈な祈願がおこなわれた。その日の夕刻から夜間にかけては、近辺の、丹波・京阪神地域の信徒がぞくぞくと天恩郷につめかけ、月の輪台や道場の神前にぬかづいて、夜通しで必死の祈願がなされた。
明けて一九日(旧一二月九日)、天恩郷は薄雪にいろどられ、きびしい寒気は大地をこおらしていた。すみ子夫人・直日夫人・出口家・側近者たちに徹夜で見まもられていた聖師は、水のひくがごとくしずかに、午前七時五五分、ついに肉体の生涯をおわった。おおいなる聖師の聖霊は昇天されたのである。聖雄とたたえられ、巨人・怪物と社会から評され、あらゆる迫害と厄難を苦とせず、救世の神業を一身ににない、大救世主、人類の光明、大導師とあおがれた聖師の七六才と六ヵ月(かぞえ年七八才)の生涯はおわった。
すみ子夫人はみなりをととのえて、枕頭に両手をつき、「先生、まことに永いあいだご苦労さまでした。お礼を申上げます。これからわたしはあなたのあとを継いで、立派にやらしていただきます。どうぞ、ご安心下さいませ」と、しずかにわかれのあいさつをつげられ、筆に水をふくませて聖師の唇がぬらされた。つぎに出口家・側近者・幹部のほうにむきなおり、「長い間ご苦労をかけました」とていねいにあいさつされた。一同はこみあげる涙をおさえていたが、たえかねて声をはなってなくものもあった。
ただちに道場に集合している信徒に、聖師昇天の旨が大国によって発表された。場内はたちまち、おえつの声とかわった。信徒のうちには「救世主が昇天するはずかない、嘘だ」とつめより、「まだ神業は終っていない、一時的な霊的現象だ。昇天を発表することは軽卒だ、冒涜だ」と、くってかかるものもあり、悲痛な感情の興奮はおさまらなかった。
瑞祥館では委員長の帰来を待ち、愛善苑の委員会・部長会がひらかれ、聖師昇天の急電は全国へもれなく発信された。つめかけた信徒は聖師にお別れをさせてほしいと迫ったので、病室を整理し、一〇時すぎから面会となった。生けるがごとき聖師の容姿に接した信徒は、合掌したまま、こみあげる感情をおさえることができなかった。
同日午後、喪主すみ子夫人、祭主出口伊佐男委員長、葬祭執行委員長東尾吉三郎、副委員長出口栄二・大国以都雄と発表があり、事務長土居重夫以下、本部はあげて愛善苑葬としての緊急準備態勢に移行した。
〔写真〕
○新構想による神苑築造を指図される聖師夫妻 綾部 月山富士 p793
○亀岡から綾部へ霊柩にしたがいかなしみの列はつづく 雪の丹波高原をゆく 朝日グラフ p795
○このときが信徒には最後の面会となった 昭和22年の瑞生祭当日 亀岡天恩郷 瑞祥館 p796
○出口聖師筆 p797
○噫!聖師昇天さる 昭和23年1月19日 p798