文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第4章 >5 農事と芸術よみ(新仮名遣い)
文献名3楽天社の発足宣言とその活動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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大本の教義と信仰生活のなかで、芸術の尊重は、おおきな特徴をなすものである。大本の芸術重視の立場は、出口聖師によってはやくから具体化されていたが、戦後とくにその価値が高く世間より評価されつつある。その嚆矢は一九四九(昭和二四)年八月、「日本美術工芸」誌に掲載された加藤義一郎による、聖師手造りの楽焼茶盌讃美の一文にみいだすことができる。
加藤は日本美術工芸社の主幹であり、工芸美術の評論家として斯界に重きをなす人である。昭和二四年の二月、岡山県伊部町の陶匠金重陶陽を訪問し、はじめて出口聖師の楽焼に接した。そのときの感激は、「日本美術工芸」(「ちやわん抄七」昭和24・8)に「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題して、つぎのようにのべられている。
その日の日記には「陶陽氏不在、令弟七郎氏と語る。王仁師手造『天国廿八』『御遊』の二盌を見せられて驚く。その色彩とリッチさ、茶盌の姿、芸と人格、天才」、こんな簡単な記載が残っている。その後、その旅行の短い報告として「耀盌顕現」を三月号(「日本美術工芸誌」)に書いた。しかし態と茶盌の本質は秘めて置いた。……それも数ヵ月を隔てた今となっては、「これこそ明日の茶盌」とまで私をして書かしめたことも忘れられているに違いない。その日から三月、きょうの日を待ち、その間絶えず瞼にその姿を想い浮べてはそれを書くのを楽しみにしていた。今(五月一日)私はその「天国廿八」を眼の前の机上に安置してペンを執る楽しみにしびれている。……これをリッチ、リッチネスという以外他に適当な言葉を見出せない。辞書を繰ると、リッチネスには高貴、豊麗、富貴、潤沢、滋味、濃艶、それから冴え、強烈までの意義があると書かれているが、かかるすべての要素を備えている茶盌であるから、簡潔にこれを形容するには「リッチ」だという外には言葉があろうとは思われない。………明日の茶盌、耀盌と私か讃える所以である。かく讃えて猶尽し得ない恨を心深く抱き惧れる私である。
従来、聖師手造りの楽焼類は信徒のあいだにあっては、聖師の手造りなるがゆえにありかたいものであり、聖なるものであるという、もっぱら信仰的な立場からあおがれていたが、その芸術的価値が、その道の専門家からこのように最高級の讃辞をもって紹介されたことは、全信徒にとっておおいなるよろこびであった。そして同時に「芸術」そのものの価値と信仰とのつながりについて、大本信徒のおおくがあらためてふかく考える機会ともなった。
これまで本部芸術課に所属する一運動体として活動をつづけてきた楽天社は、識者の愛善苑にたいする芸術運動の評価のたかまりに対応して、全国的な結社組織をもって本格的な芸術運動を展開することとなり、一九四九(昭和二四)年八月六日には、愛善苑の芸術運動に関する宣言をおこなった。同人代表の出口虎雄は、楽天社の構想について「愛善苑」(昭和24・9)につぎのように記述している。
楽天社の発足は、同時に聖師が「神業の片棒になう明光社」と宣言して興された明光運動の再興であります。しかし明光運動が短歌、俳句、冠句等の文芸だけの分野であったのに対し、楽天社は聖師の開拓されたその基礎の上に立って、文芸はもちろん、造形美術、工芸、音楽、演能、演劇、茶道、体道等芸術全般にわたり、神より来たる大光明をうけて一大芸術運動を展開してゆくのであります。この芸術運動はいわゆる世上行なわれている芸術の啓蒙運動ではなく、美の源泉である神と合体する、自我の霊性を聖善の美と契合せんとして進みゆく向上的努力の中から産み出さんとする芸術であり…かくて地上の美と平和の建設に大きな推進力たり得るのであります。
一〇月二九日、愛善苑は前述のように大本愛善苑となり、機構改革にともなって、楽天社も大本楽天社と改称された。そして独立の運動体として芸術運動を展開することとなった。同年一二月八日、亀岡天恩郷において「大本楽天社発足声明記念祭典」を挙行し、ついで規約を発表した。大本楽天社は「出口王仁三郎聖師の意図に基き、地上和楽実現のため芸術の門より真善美の文化世界を建設する」をもって目的とし、この目的に賛同する者を社友とよび、同人組織とした。そして同人代表に出口虎雄が就任した。本社には研究・事務の二部をもうけ、研究部に文芸・茶道・演劇・謡曲の各部門と音楽研究所(声楽部・八雲琴部)・造型美術研究所をもうけ、地方には本社の指定する分社と、地区・職域に支社がおかれた。そして一九五〇(昭和二五)年一月には、綜合芸術雑誌として機関誌「木の花」(A5判・月刊)を発行し、積極的な運動を展開しはじめた。
〈耀盌顕現〉 一九四九(昭和二四)年八月二三日より二八日まで、日本美術工芸社・阪急百貨店文化部共催で、王仁師手造楽焼茶盌特別鑑賞会がひらかれ、聖師の楽焼五〇点と書画数点が展示された。一般人のほかに、とくにこの方面に高い識見をもつ人々が多数来場したが、美術評論家の外山卯三郎は「これは大天才の仕事だ。茶道の革命のみでなく芸術界の革命である」と感想をもらし、弁護士で美術蒐集家の岩井尊文は「実に驚歎した。あの大本事件も、この作品を示せばたちまち解決したでしょうに。書画、陶芸といわず、一貫して精神そのもののゆとり、高潔、崇高な品性がにじみ出ています」と語った。和田斐太画伯は「このような芸術は有史以来のものでしょう」とおどろき、実業家の小林一三は「梅一輪」の一盌に「草萌」の銘をつけて賞讃し、詩人和泉丈吉は「これは天地創造の原理です。太陽の光そのものであり、海の青そのものの生命を感じます」と歎じた。和泉はこれを動機として入信したほどである。
これを手はじめに、各地で聖師手造楽焼茶盌の鑑賞会がひらかれた。京都では同年九月二二日より二七日まで、岡崎公園の市立美術館別館でひらかれ、楽焼七〇余点が出陳されたが、他に聖師晩年の筆になる鉢伏山風景三点が景観をそえた。このとき亀岡より会場に出張していた瑞月窯では、二代苑主手型の絵付、直日夫人の草花模様などの絵付けがなされた。これにさきだち、九月一八日には都新聞主催の特別鑑賞座談会が東山七条の妙法院でひらかれ、同紙の文化欄に、そのときの各界人の批評が連載された。
東京では同年一〇月八日、上野の国立東京博物館応挙館において、日本陶磁協会十月集会として鑑賞会がもよおされ、作盌二〇余点が展示された。大河内正敏博士・肥後和男博士・小山富士夫ほか五〇余人が鑑賞し、つづいて加藤義一郎の講演、夜は日比谷の東京会館別館で記念晩餐会があり、出席の人々から讃辞の言葉がのべられた。
一〇月一〇目から一四日まで芝新橋七丁目の東京美術倶楽部で、聖師作盌特別鑑賞会が日本陶磁協会後援でひらかれ、ここでもまたおおくの具眼の士をおどろかせた。会期中、二代苑主・直日夫人も来場され、苑主は茶盌に手型の絵付けをされた。その後、金沢・山形・札幌・能本など全国各地で同様の展示会・鑑賞会がひらかれて、聖師の作品には絶讃がよせられた。各地の反響は、左の人々の批評の言葉にもうかがうことができる。
肥後和男「出口氏の最後に到着した心境、心に画いた天国の端的な現われがこの茶盌であり、それはやわらかで明るくて、きれいで素直である。それを出発点として新しい芸術の道が開けてゆく。さらに現在ないし将来の日本人の生活にはっきりした目標を与え得ると感じた」。金剛巌(金剛流能宗家)「能の方からいうと、わびさびの根源は世阿弥のいう幽玄から発したものですが、出口さんの作盌はこの幽玄の花を表現された至高の芸術であろう……」。宇野三吾(陶芸家・四耕会代表)「出口さんの茶盌は、茶盌自身が茶道をもっている。出口さんには立派な茶道観があったと思う。従来の茶碗の平面的な感覚を破って、立体的なボリュームの表現に成功されている。ヘラ目、突点などの考慮に、ゴッホのマチエルを連想させるものがあり非常によい。出口氏は土そのものの性質をよく知っていられ、精神がその上に自然にのりきって出来上ったものである。……作品から天真な作者の魂の層が感じられる。明日ではなく今日の茶盌である」。上口愚朗(作陶・美術研究家)「陶芸界、ことに楽十四代の伝統に原子爆弾を投じたようなものである。出口氏の作盌は作ったものでなく生れたものである。美しい純真な姿、混り気のない生れ赤子の姿、この裸の作品が茶の衣をつけて年代がたった時、初めて真実のわびさびが出現するであろう。作盌には出口師の力が秘められてある。爆発しそうな強い力である。その力が露骨に表に現わされず、内に深く秘められ、表面軟かく作られたところに頭が下る」。蓑古田(東大地質学教授)「この作盌に用いられている土は地質学上では作陶には無理なので、六〇〇度以上の熱で分解する非常にもろいものである。この土でよくこの形を作られたことに驚いている。出口氏の作盌を天真、無心の作とか、単なる童心の作と人はいうが、自分はこれは神仙の作であると拝見した。それは神がかり的なものでなく、茶盌の一切を知りつくした人が、その捉われを脱し、清らかな高い心境で作られたものである」。歌人の吉井勇はその感激を、〝今の世にありがたき美を見するゆえおもしろきかな茶わん天国〟〝この盌を手にしてわれは遊ばまし茶道の外の大き世界に〟〝そのむかし君が数千の秀歌見しこと思い出でてわん見るものか〟と詠んでいる。
〈歌まつり〉 昭和一〇年、聖師によって復興された歌まつりは、大本事件によって中断されたままとなっていた。それが一五年ぶりで復活されたのは、大本楽天社大阪分社主催のもとに、一九五〇(昭和二五)年三月二六日に、大阪住吉神社の住吉学園でとりおこなわれた歌まつりからである。このときはまだ地方的な行事であったが、二代苑主・直日夫人の列席をえて、出口虎雄が斎主をつとめた。苑主は、〝有難や今日難波津の歌まつり瑞の霊のほほえみますらん〟のほか四首を、直日夫人は、〝世界平和のさきがけとなれ住吉の宮居にひらくけふのみまつり〟の一首を献詠した。つづいて五月五日には、金沢分社主催の歌まつりが、金沢能楽堂でもよおされ、直日夫人をはじめ、出口虎雄、出口栄二ら亀岡・綾部よりも多数が参列し、嵯峨保二が斎主として奉仕した。
本部における再興第一回の大本歌祭は、昭和二五年八月二五日(旧七月一二日)瑞生大祭当日、十二夜の月の光のもと天恩郷銀杏台下東側の透明殿跡(現万祥殿)に斎壇をもうけて、おこなわれた。歌まつりには、二代苑主・直日夫人ほか信徒約三〇〇〇人が参列した。〝なつみつつみちゆく吾をさやかにもみちびきたまへこよいてるつき〟との直日夫人作の献詠歌が斎主によって奏上され、おわって出口麻子・聖子・元子の三舞姫が大和み歌の舞を舞い、上山南洋ほか二人により弓太鼓・八雲琴に和して、ひなぶり調の献詠歌朗詠がおこなわれた。総献詠歌数は六千数百首におよび、天位は伊藤栄蔵の、〝かなしくもはろけき道か世界平和されども吾は祈りてやまじ〟であった。これ以来瑞生大祭の重要な行事として、年々歌まつりがおこなわれて今日におよんでいる。
その後、一九五一(昭和二六)年四月二八日にはふたたび金沢で、六月二六日には京都でと、地方での歌まつりがあいついだ。
〈窯場の開設〉 天恩郷西端の地をえらんで、一九五〇(昭和二五)年一月一二日に地鎮祭がおこなわれた瑞月窯(楽焼窯)は、二月三日夜丑寅の時刻に初窯の火入れがなされた。これは大本楽天社「花明山工房」とよぶことになった。この工房びらきは八月二四日におこなわれ、二代苑主・直日夫人はじめ大本楽天社の同人のほか、加藤義一郎・金重陶陽などゆかりの人々が参列した。
その年の秋、京都の清水焼に桃山時代からまつわる由緒ある名窯「柏山窯」(ノボリ窯)が、その所有者宇野三吾より大本へ寄贈されることになった。そこで本部では、これを移築して工房の規模を拡充することとし、一九五一(昭和二六)年の春から宇野三吾や金重陶陽の指導で工事がはじめられ、同年八月一三日に完成式をあげた。完成式には、二代苑主によってよまれた、〝瑞霊の日々だのしみし楽焼のかまどつくりて火はもえてをり〟〝瑞霊のあとがまついで直日こが朝から晩まで土ひねりをり〟〝霊界に瑞霊もかまどをばつくりてたのしみたまふ日もあらむ〟の歌三首が朗詠され、祭典にひきつづいて、浄火が窯に点じられた。一七日には「花明山窯芸道場」と名称をあらため、「出口王仁三郎聖師のご意図たる真の宗教即芸術即生活のご理想実現の一方途」として窯芸道場を開設した旨を発表した。ノボリ窯は四段に区切られていて、道場でつくられる茶碗・鉢・水差・皿・湯呑など一五〇〇~二〇〇〇個あまりを一度に焼きだす能力をもっているが、その作品を「花明山焼」と名づけ、陶芸作品の頒布をはじめた。なお一一月二日には初窯をいわって窯芸祭がにぎやかにおこなわれた。
〈その他〉 はやくから本部奉仕の青年たちによって、祭典の折りなどには神劇の上演がなされていたが、大本楽天社の演劇活動として、一九四九(昭和二四)年春に劇団「木の花座」が結成され、四月二九日宣霊大祭に、亀岡天恩郷で第一回の公演がおこなわれた。その後本部の大祭や亀岡劇場、大阪梅の宮公会堂などで前後七回の公演をし、「健康な演劇を地方の隅々に送りこむべく」、昭和二五年には初の地方巡回公演がおこなわれた。四月二五日、出口虎雄・田武謙三・鈴木勇・中野武弘・中原町子、および応援の長田健・神戸ただえの一行は、熊本公会堂で初公演し、一五〇〇人の観衆があった。つづいて熊本市池の上小学校・阿蘇・絵図・天草・菊池・熊本公会堂・下益城郡の豊川などで公演した。『霊界物語』の脚色のほか、木下順二・谷崎潤一郎・大村順一などの文芸作品にも意欲的にとりくみ、本部においてもしばしば一座の熱演がみられた。その後出口和明ら東京在住青年信徒によって、昭和二六年一一月三日、東京に白梅座として復活した。翌年一月二〇日、都下の西多摩郡吉野公民会館で第一回公演をおこない、注目された。
その他、合唱団の指導もおこない、出口聖師作歌の愛善歌の普及につとめ、「昭和の七福神」「出口聖師のおいたち」「天恩郷全景」などの映画フィルムや「耀盌(天然色)」の幻灯フィルムを作製して視聴覚宣教にも力をそそいだ。
大本楽天社は一九五〇(昭和二五)年一月の機関誌「木の花」の発刊についで、四月二〇日には第一回の全国社友大会を開催して、社友の拡大につとめた。その結果八月には支社二八〇、社友五六七〇人を達成し、八月二五日の瑞生大祭には全国支社冠句大会を復活した。一九五一(昭和二六)年には、三月に一二日間、八月には七日間にわたって綜合的な芸術研修会が開催されている。こうした運動の展開にともなって、年末には全国に四三七の支社を設置するにいたった。
またこの年から、直日夫人の意をうけ、一〇年計画で亀岡天恩郷に、植物園の造成がはじめられている。
直日夫人はかねてから茶道・書道・謡曲・仕舞・短歌などに精進し、信徒にたいしてもつねづね熱心に指導・助言されていた。そのことが、大本楽天社活動にたましいを入れることになった。大本楽天社の発展にともなって、それら各部門の活動も組織化され、綾部・亀岡はもとより地方信徒のあいだにも、信仰と密着した芸術へ精進する気風がたかまったのである。また聖師の時代に普及していた冠沓句もさかんになった。
このように、内には大本楽天社の活動によって芸術にたいする信徒の関心はたかまり、外には聖師をはじめとする歴代教主の芸術作品の展観を通じて、大本の本質と真価がふかく知られるようになっていったのである。昭和二七年二月二日、教団機構の改革にともなって、大本楽天社は本部機構の一部門となり、同人組織は廃止され、本社に研究課(造型美術・演劇映画・伝統芸術・音楽・文芸・生活科学・体育・美学の八部)・業務課・編集課をおき、三月には指導員養成の特別研究講座を開催した。そして教団の発展的新段階に即応して、「教団信徒の内面的充実と神業進展」のために、教団と一体となってすすむことが強調された。
こうして、教団を中心とした人類愛善会・愛善みずほ会・大本楽天社・社会福祉事業などの諸活動が、雪霜をしのいでにおう白梅にもにて、いまや一せいに花ひらいたかの観がある。これは二代苑主の確信にみち情熱にあふれた指導とともに、戦後の極度にくるしかった環境にもめげず、神業一途に生きぬいた信徒の団結と努力のたまものでもある。
一九五二(昭和二七)年は、時あたかも開教六十年にあたっていた。この年をいわって、二月四日には、まず節分大祭がおりからの吹雪をついて盛大に執行され、ついで三月二八日には、みろく大祭が三〇〇〇人もの参拝者をえておこなわれた。この日、地上七〇尺の雄大な鉄筋の高棟には十曜の神旗がひるがえり、みろく殿の上棟式もあわせておこなわれ、三石六斗の祝餅がまかれた。翌二九日には、恒例の祖霊大祭・奥都城参拝をおえて一同は亀岡へ移動し、宣霊社の完成奉告祭・遷座祭に参列した。宣霊社はこれまで東光館大道場にもうけられていたが、開教六十年を記念して月照山のかたえに新築されたものである。合祀されている宣伝使の霊魂は、三月二八日現在で二一三一柱にもおよび、遷座祭につづいて宣霊大祭が執行された。前年の秋以来二代苑主は健康がすぐれず静養に専念されていたが、節分大祭以降の祭典・諸行事は、苑主補の出口直日夫人によって代行された。梅花運動はたゆみなく推進され、神苑では、みろく殿造営のつち音がたかくこだまし、信徒は開教六十年をむかえて神業奉仕へのちかいをあらたにした。
〔写真〕
○耀盌顕現に世人は刮目した p895
○大本楽天社機関紙 月刊 p897
○〝天国のさまをゑがきて楽焼をのこして去りし君ぞ尊き〟耀盌 天国廿八の高台 径1寸5、6分 二代すみ子詠 p898
○耀盌天国廿八「七十五才 王仁造」 口径三寸五-六分 高さ二寸八分 p899
○復活された歌まつり 上 大阪の住吉学園 下 第1回大本歌祭 亀岡天恩郷 現万祥殿の台地 p901
○花明山窯芸道場の扁額 二代苑主筆 p902
○絵付けにいそしまれる直日夫人 花明山窯芸道場 亀岡天恩郷 p903
○餅まきをされる苑主補出口直日 みろく殿上棟式 p904
○みろく殿の完成と信徒倍増に総力を結集した 餅まきにつどう信徒 p905