文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第5章 >2 二代苑主の昇天よみ(新仮名遣い)
文献名3昇天よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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その後の経過は比較的順調であった。〝思ふことさわやまあれど神さまにいつさいまかせて鳥とあそべり〟と小鳥の声に耳をかたむけたり、「庭先きに花を植えてほしい」と花をめでたり、「直日がご用してくれるから、これからは一切を神様にまかして養生させていただく」とも周囲にかたられていた。経過を案じて家族のものは別室にひかえていたが、「顔を見せぬにもほどがある」とつげられ、直日夫人と出口伊佐男がうかがった。その時「私はもうご用が替ったので、今までの仕事は直日さんにしてもらって、私は神様一筋のご用をさしてもらう」とはなされた。翌日からは出口家のものがかわりあって、側にうかがうこととなった。そのころ「わしはこれから天国の小鳥と遊びながら機を織るのや」ともらされていた。苑主は病床にしずかに横臥していることがもどかしかったもようであった。生涯を、くず糸をむすび、機を織ることに精魂をこめられたその意欲は、病床でも一貫していた。〝みだれたる世界の糸をほどきつつ平和の機をわれは織りゆく〟とよまれているが、病床にあっても看護のものに、糸のことや機のことをかたられることがしばしばであった。
三月二八日は綾部において春の大祭が執行され、つづいてみろく殿の上棟祭がとりおこなわれた。苑主は、「今ごろは餅をまいているだろうなア」とはるかに思いをはせ、ちいさな声で棟上げの音頭をうたいだされていた。また天恩郷に建設中の宣霊社の槌音をきかれては、「なにか奉仕者におやつをあげてほしい」と心をくばられもした。直日夫人は、〝煩ひ多き母上なりき病床に誰彼のことに気をつかひつつ〟と苑主をしのばれているが、苑主の心づかいは病床にあってもやむときがなかった。
三〇日は朝から「もうどこも病気はなくなった。ただ食欲が進まぬだけや」と看護のものにはなしかけられ、気分も軽そうであった。そして夕食には百合根をいれた茶わんむしを注文された。その夜八時ころよりよくねむられ、一一時にちょっと目をさまされたが、またすぐ眠りにつかれた。翌三一日午前六時半、朝拝の太鼓の音に目ざめられ、「今日もたいそう気分がよいから、皆によろしくいっておくれ、私はもっとやすみたい」とのことだったので、看護のものはつぎの間にひかえ、七時ごろ部屋をうかがったときもかわったもようはなかった。二度目にうかがったときはニコッと笑顔を見せられた。七時四〇分ごろ軽い咳を二度され、そのあとまもなく寝息がきこえなくなった。ひかえていた今西がそっとうかがうと、苑主のようすがただならぬのにおどろき、出口家の人や医師に急をつげた。直日夫人その他一同がかけつけたときは、すでに何のこたえもなく、すこしのくるしみもない安らかな状態で、風なきに梢を辞する花のごとく、しずかに六九才と二ヵ月の生涯をおえられ、昇天された。一同は意外な急逝におどろき、おおきな悲しみにつつまれた。時に一九五二(昭和二七)年三月三一日午前八時二五分である。
苑主が昇天される一〇日ばかり前のこと、「今から十日ほど先になれば、瑞祥館の御神前の間で、ものはいわぬけれど皆に会う」と側近にはなされ、三月二九日には「八百八光のほととぎす 声はすれどもすがたはみへぬ 金勝要の神は かげからまもりてをる」と詠まれている。これが辞世の句となった。
〔写真〕
○あゝ二代さま 広島県 厳島神社回廊にて 昭和25年10月2日 p926