文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第5章 >2 二代苑主の昇天よみ(新仮名遣い)
文献名3埋葬よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-10-01 16:57:41
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よそめには王朝時代の絵巻物のごとくみられた葬列が、午後五時天王平に到着し、ただちに埋葬祭がおこなわれた。春の日は暮れやすく、霊柩が埋葬されおわった六時すぎにはとっぶりと暮れて、かがり火だけかあかあかと、あたらしい奥都城を照らしていた。
二代教主の奥都城は、開祖・聖師の奥都城の中央後方に築かれた。昇天されたその日の夕、出口栄二らによって位置がはかられ、翌四月一日地鎮祭をすますと、みろく殿建設に奉仕していた奉仕者全員を動員して築造にとりかかった。外まわりの石は宝塚からとりよせられたものである。霊柩とともに埋めた銘石は、たて八五センチ(二・八尺)、よこ二四センチ(八寸)の御影石に、表には「大本二代教主出口すみ子之柩」、裏には「昭和二十七年三月三十一日旧三月六日昇天 御齢七十才 出口直日謹書」と彫られたものである。
奥都城の位置については、後日、出口伊佐男総長からつぎのような発表があった。
「三人世の元」ということが明治三十年の頃からのお筆先にしばしば示されておりますが、一体その三人はどなたであるかということが、今日まで明確になっておりませんでしたが、それは開祖様、聖師様、二代様のお三方であるということが実にはっきりして来まして、その様子は奥都城に現われていると思うのであります。「世の元」とは勿論大本の基の意でありまして、厳瑞の奥都城を主体となし、奥の要にあたるところに二代様がお鎮りになり、お三方をもって一体としての奥都城となったのであります。このお三人により大本は磐石の如き動かぬ基礎が定まったのであります(「愛善苑」昭和27・7)。
昇天の日からともしつづけられた神火は、遷柩とともに亀岡から綾部にうつされ、天王平の炬火にうつし、埋葬後は梅松苑の要荘にもちかえられ神前にそなえ、葬祭の終了を報告したうえ、あらかじめととのえおかれたカマドに火をうつし、道統を継承された三代教主の調饌にもちいた。これは「火つぎの神事」として開祖から聖師、聖師から二代教主と伝承された神事である。
彰徳殿において帰家祭をおえられた三代教主は、二代教主が病いをやしなわれた思い出もふかい彰徳殿裹の部屋で、神事の膳につかれ、出口直美・出口栄二・出口伊佐男が陪席し、出口直子・お遊が同席して食膳の儀式は終った。なお調饌には愛知県定光寺の桜井秀之丞・同照夫、給仕・世話役には高木孝子・米川清吉が奉仕した。天王平では埋葬の日から五十日祭まで、綾部の信徒・青年たちが七班にわかれ、天恩郷の青年も参加して通夜し、二代教主のいさおをしのんだ。
〔写真〕
○埋葬祭 4月10日 玉串を捧呈される三代教主 綾部 天王平 p936
○とこしえに神しずまりますご三体の奥都城 前列左から開祖 聖師 手前中央 二代教主 前方つきあたりは社務所 天王平 p937
○墓前では信徒によって50日祭まで通夜がつとめられた p937