文献名1大本七十年史 下巻
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文献名33 二代教主の面影よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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聖師昇天の後、道統を継承してまもない二代教主にたいして、「大地の母」とか「人類の母」という表現が、愛善苑の内部よりも、むしろ外部の人々からなされるようになった。これは愛善苑の発展におおきな期待をもって来訪した各界の人々が、直接二代教主に面接したとき、二代教主の風貌、態度、いつくしみのある言葉にふれて、いつともなく慈母のごとき感動と印象をあたえられたためである。二代教主はたしかにおおいなる慈母の魅力と風格にみちていた。それは「大地の母」という敬称にふさわしいものであり、いつともなく人から人へとつたわっていった。
二代教主の神業上からする神格は、神諭、『霊界物語』によってあきらかにされているように、大地の金神、金勝要の神の神性にあった。したがって晩年、その神格に相応された片鱗が、「大地の母」の相貌や態度となってあらわれたものといえよう。
当時同志社大学総長であった牧野虎次のつぎの二代教主をしのぶ一文は、その面影をよくつたえる。
私は聖師とのご縁は四十何年間にも及んで来たが、二代様に親しくお目にかかって面識を得たのは、大本事件解决後のことである。もっともお噂はかねてから聞き及び、近代稀に見る立派な婦人との評判は承知していた。事件解決後、新たに愛善苑がスタートすることになり、真溪先生のご紹介で、柄にもない同苑の顧問という名称を、私は同先生とともにお受けし、時々中矢田農園にお引きこもりの聖師邸を訪問し、ご夫妻の謦咳に接する機会を得るようになり、世上の噂を確めることができた。一切辺幅を飾らない所謂天衣無縫の聖師と、絶好の好一対と云わるる刀自の風貌は、聖師の内助者として、いかにも相応わしく拝見せられた。何等の屈託もなかりそうに見ゆる悠然たる態度に、かつては荒い波風や、世上のあらゆる艱難苦労を嘗めつくされた鍛錬、修養のあとかたを微塵も止められざるを見て、これこそ真に天成の女丈夫と、ひそかに敬服の念を抱いたことであった。いと深い信仰の賜であるに相違ないが、生れながらの性格が自から現われたことも見逃せない。つとに人類愛善と万教同根とを主唱せる聖師の達見は、戦後の世界平和問題にも、わが宗教界に先鞭をつけられた。加之、二代様の理智に富まるる上に、寛大なる抱擁力を有せらるる点は、多くの国際人をひきつけたのである。なかにも湯浅八郎夫妻や、ミス・シーベリ博士の如きは、二代様との友情もっとも親密なものがあった。私はしばしば二代様を中心に、これらの国際人達のグループに仲間入りし、円転闊達なご人格の流露に触れ得た楽しい思い出をもっているのである。湯浅、シーベリ両博士とも人類愛善会の顧問を快諾せられたのは、全く二代様の風格に引きつけられた結果に外ならぬと察せられる。その外に進駐軍民事部のマクファランド女史をはじめ、天恩郷を訪う外国人に対する二代様のはればれせる応待ぶりは、いかにも堂に入ったものであった。いうまでもなく二代様は聖師様に随って朝鮮、満州、台湾方面を巡遊せられたのみならず、エスペラント語を通じて広く欧米各国の同志に呼びかけている大本立教当初よりの国際的気分を、充分身につけておらるるのである。さればこそ風俗、習慣、言語等の相違を乗り越え、彼と我とは以心伝心、直ちに霊犀相通ずるものを見出された次第であろう。端なくも私は、ここに独立日本の国民外交は、どうしても精神界信仰の基調の上に立たねばならぬことを考えさせらるるのである。二代様の鷹揚な態度に接するごとに、私は若かりし時代にごひいきになった新島八重子刀自を連想せざるを得なかった。両夫人共通の特異点を挙ぐれば、先ず偉大なる体格に、優にやさしい物腰、加えて相手を惹きつける魅力、その上に不撓不屈の胆力等であろう。……しかし違った点は、何といっても二代様の人情の機微にふれられた尊い体験である。天稟もあったであろうが、幼少のころから他家に奉公に出たり、つぶさに人生の苦験をなめられたる修養の工夫の結果であろう。接するほどの相手のだれかれを問わず、誰をもそらさず、従って誰もが悦服せずにはおられないという人徳は二代様独特のもので、何人も到底その真似はできなかった。大本教開基の始めより波瀾重畳の多事多端な聖師の内助者として、目の廻るような忙がしい内に、八人の子女に対しては賢い母、二十人にあまる孫や曽孫に対しては良い祖母として始終せられた二代様こそ、真に典型的日本女性と崇むべきではないか。内外多くの教界人から慈母と慕わるる風格は、決して偶然に備わったものではない。多年に亘って刻苦砕励、夜を日についで粒々辛苦、人知れず良妻賢母の任務に精出された賜に相違ないのである。私は時々詩人ロングフェローの「人生の歌」の一節を想い出す。曰く。「偉人が達成した高い位置は 一足飛びに獲得されたものではない 仲間のものが眠っている夜の間に せっせとよじ登ったものに外ならぬ」。幾十万の信徒に、真の教母と仰がれ給うた二代様の人格は、夜の目も碌に合わす暇なく、家をととのえ、夫を助け、子女を育てるうちにも、黙して世の艱ぬる同胞をいたわり、広く世界の平和と、人類の幸福のために祈られたる結果に外ならぬと信じて疑わない(「神の国」昭和27・7)。
赤貧あらうがごとき家庭であったため、わずか五才で、子守奉公に出されてから、つぶさに辛酸をなめ、神懸り状態となった開祖の内助に血のにじむ思いをし、聖師と結婚してからは、聖師に反抗する幹部とのあいだにあって、苦難の教団を維持した。第一次大本事件のときは、一人、教団の重責をにない、第二次大本事件にはながい拘禁生活に耐えて、聖師昇天後は苑主として教団の基礎を築いた。その一生はまさしく波瀾万丈の生涯であって、その間に天成の霊性が育てられていった。その偉大なる業跡は、永遠に後人の範となるであろう。
人は苦境にあるとき、かえってその風格の片鱗がよくうかがえるものである。二代教主が第二次大本事件で京都の中京区刑務支所(現京都拘置所)に収容されていたときのことを、女看守中井ツルはつぎのようにつづっている。
大本のすみ子さんがはいって来られたのは昭和十一年だったと思います。二人の女の看守が隔日交替で勤務していたものです。すみ子さんは何かにつけ、まことに思いやりの深い方でした。当時は女でも思想犯が多く、看守を手こずらす者が多かったのですが、私どもはすみ子さんのために、部長から叱責されたというようなことは一度もありませんでした。私どもの身になってよく気を配って下さる方でした。あるとき丹毒を患われたことがありました。それが全快しないうちに、娘さんが面会に来られましたので、「どうなさる?……お会いしますか」とお尋ねしますと、「歩けるから会います」ということで面会されましたが、あの中には化粧品など一つもありません。そこで歯磨粉を顔にぬって丹毒のあとを隠して会っておられましたが、娘さんに心配させまいとなさるお心くばりにはホロッとさせられました。差入れ弁当を召しあがっておられたのですが、どういうわけか朝だけは官食を喰べておられました。当時でも官食といえば麦七分に米三分の真ッ黒いご飯でした。そんなまずい官食をどういうわけで喰べられるのかと尋ねますと、大勢の信者が困っているだろうから、差入れ弁当のお金を毎日始末して、出所したらそれを恵んでやるのだとおっしゃるのです。自由の世界におっても他人のためにそこまで思う人はなかなかありません。あの中におられながら、涙の出るほどの思いやりの深いお方でございました。夜具類もみな絹物が差し入れてありましたが、勿体ないとおっしゃって、木綿物に代えてもらっていました。着物類もその通りでした。お金を出せば洗濯はしてもらえるのですが、それも自分でしておられました。一週間に一度はお風呂にはいれるので、みなが済んでから、すみ子さんは大きなジュバンに石鹸をつけて、太っているので、しゃがんでモムのが苦しいのでしょう、竹の棒を杖にして足で踏んでいましたが、それがきれいにおちるので感心していたものでした。「私は子供を沢山育だてて、若い時分は苦労をしたか、その後は結構にさしてもらって、こんなことも長らくしたことがなかった。いま昔のことが思い出されてなつかしい」とおっしゃっておられましたが、苦労をなさった方は何かにつけ受けとり方がちがうものだと感じていました。……二審に控訴してからは雑房に移されましたが、三畳に五人くらいで、夏など防空演習で密閉するようなときは、太っておられただけに、随分とお苦しかったに違いありません。雑房の女囚はつぎつぎと入り代ります。それらの女因にお道のことなど、よくいい聞かしておられたようでした。和歌をよく作られるので紙と鉛筆を入れてあげました。「あずかっておいてくれ」とおっしゃって、歌を沢山お預りしていましたが、出所されてからお返し申しました。浄るりが大変お好きで、私の当番の夜分など、小さい声でよく語られたものです。もちろん、そんなことは部長には内緒でした。……女の身で、あの中の生活は随分と苦しかったに違いありませんが、ちょっともそれを表に現わさず、何時もなごやかな面白いお方でございました(「神の国」昭和27・6)。
獄中にあっても動じない二代教主のこまやかな情味と、悠揚せまらぬ態度がしのばれるのである。
二代教主の神業にたいする純真一途の信念から、信徒をおどろかした一例をあげておこう。世界連邦世界総会が一九五一(昭和二六)年ローマで開催されるその前年の一〇月一九日の夕拝後のことである。二代教主は「自分はローマの大会に行かねばならぬ。そして世界の岩戸を開く宇豆女の命の働きをしなければならぬ……世界立直しのご用に行くのだ」と、真剣にその決意のほどを参拝者一同に披瀝した。ついで一一月の秋の大祭のときにも信徒一同へ、「世界平和の運動には神様がご守護して下さっているのです。私は今度ローマへ行くことになっているのですが、霊界物語には……そうしたことがチャンと書いてあると或る人が話していました。ですから矢張り私がローマへ行かんならんことになっているのやなと思っているのです」(「愛善苑」昭和25・12)と世界平和への信念がかたられた。一同はその決意と雄図にたいし感激し、そのおおきな神業への信念は、二代教主をしのぶ語り草の一つとしていまに生きている。
ここで特筆すべきは、二代教主の生涯をつうじて自覚されていた機織りについての情熱である。一九〇一(明治三四)年、二代教主の一八才のときから昇天の六九才の日まで、くず糸をつむいで、機織りの神業がつづけられていた。それは世に鶴山織とよばれるものとなった。〝目をつかい心をつかい手をつかい足にひまなきはたのおり姫〟と機織りについて詠まれているが、それはそのまま二代教主の生涯をおりなしていた。その詳細については五編四章でのべたとおりであるが、二代教主が苦心してきずきあげた鶴山織工場は、第二次大本事件によって一物もあまさず売却・破毀されてしまった。しかし一九四二(昭和一七)年八月七日、二代教主が保釈出所されると、九月二一日には中矢田農園の一室に手織機一台をすえつけて、ふたたび織物がはじめられた。その後農園の二階にうつし、また竹田にもあらたに手織機がすえつけられた。亀岡の天恩郷が整備されると農園から照明館に織場がうつされ、また瑞祥館の居間ちかくにも手織機を一台おき、真夏のあついさなかでも終日糸くりをつづけ、信徒の面会もそこでされるというほどの熱のいれようであった。そのころ糸の入手がきわめてむずかしかったので、絹の屑糸はもちろんのこと、綿・麻や琴の糸までがつかわれていた。その後京町や紺屋町にあった京都の出機四台を買いいれ、統制解除とともに糸の入手も容易となり、京都などの信徒の協力によってしだいにさかんとなっていった。
一方綾部では、豊岡の鈴屋産業から手織機二台の献納をうけ、一九四七(昭和二二)年八月二二日「旧七月七日」から鶴山織工場が再開された。このとき、〝昭和一〇年の一二月七日が機の織りじまい四十八台今度は立直し〟とよまれ、「今日は七夕の日」だとして織りはじめられた。その後新町の倉庫の二階に機場がうつされ、昭和二六年四月から、彰徳殿横のもと事務所に機場が開設された。
これよりさき、昭和二五年八月に、鶴山織の染色に欠くことのできなかった鉱泉が再掘されていて、神苑およびその付近から採取したキビ・サヤゴ・シイの皮・クチナシ・赤大根などで染色されていた。製品は着尺もの・つづれ帯・袴地・服地・マフラー・ネクタイ・お守袋・み手代袋・その他であった。二代教主は「七夕さまの機織姫は稚姫君の命のことじゃ」といわれ、昭和二六年三月には、〝七十年あら波小波をのりきりて高まの原にいまは機織る〟と詠まれている。
聖師のあとをついでからも、天恩郷瑞祥館の一室には糸くり機や糸枠をところせましとおかれており、糸をつむがれる日々がつづいた。信者が面会につめかけても、糸を手ばなされなかった。亀岡から綾部へかえったときなども、駅からまっすぐ機場におもむいて、すぐ仕事にかかったりする場合がおおく、夜中におきて糸をくったりすることもまれではなかった。また、朝礼拝がすむと機場にはいって夕刻まで機にとりくみ、食事も機場でされるという熱心さであった。病気中も毎日「今日はどういう仕事をしたか」と側近に問われていた。第二次大本事件後の機織りについては、「もう屑糸の時代はおわった」ともいわれ、植物染やデザインについて、さらに創意工夫をほどこされていった。「大本は代々の教主が機織りをする」などと、将来も機織りは永続されなくてはならぬものとかたり、また将来は工場をつくって、機織りを本格化したいとの考えももらされていた。二代教主はまた。
私は機織り仕事がなによりも好きで、毎日朝早くからいろんな草木で糸を染めたり糸くりをして手機を織っておりますが、人の生きる道をよく教えてくれます。初めの一本の糸道がちがうと、それこそどれもこれももつれてきて総損いになりますし、道が通れば本当に楽しく歌をうたいながら糸がくれてゆきます。一度もつれた糸も、たんねんに糸口をさがしてゆけばまた道が通りますが、カンシャクを起して切ったり、もみくちゃにしてしまえば、立派な織物として世に出るものが押しこめられてむだになってしまいます。道を通してゆくことと、勘忍ということが本当に大切なことです。私の母(開祖)がつねづねハタの仕組ということを申しましたが、世の中一切の仕組をみましても同じように、ハタというものもタテとヨコからなりたっていて、ヨコ、タテが揃って、うまく調和ができないとよい錦を織ることができません。神様のお目からごらんになれば、世の中の人々はみな同じ可愛いわが子でありまして、和合して平和の世の中をつくってゆくことが神様のお心です。私のハタ織りは、世界のもつれを立派におりあげるひながたをやらしていただき、天地和合の世界平和のハタ織りをして魂を練らしてもらっています(「人類愛善新聞」昭和26・6・10)。
とのべ、機織りから学びとられた意味づけがなされている。人類の和合とあらゆる調和と世界平和のひながたにうち込まれた二代教主のうちに秘められた烈々たる信念は、とおとくもまた美しかった。
二代教主の歌には、〝気を強く広く大きくこまやかにあたたかみある人になりたき〟とあるが、この歌は、二代教主のそのままの人となりをつたえたものであるといってよい。
〝かんながらへたな字を書く天下一〟という書があるが、綾村坦園(日本書院理事・毎日書道展審査員)は「天衣無縫、これほど体あたりした書を他に見い出すことはできない。……何と無雑作な、無邪気なかな文字の遊びであろうか」とたたえ、書道家のおおくは、ゆうゆう迫らざる達人の書だと批評している。師についてならわれた字ではもちろんない。天成の人柄がそのまま流露したものなのである。
二代教主にはおおくのひめられた美徳がある。それは熱烈な一筋の信仰をタテ糸とし、火と水と土の恩をヨコ糸としておりなされていた。〝天はちち母はいづくにましますぞ母は大地のお土なりけり〟の歌にもみられるように、大地をけがし荒してはならぬという教えは、「大地の母」としての二代教主の生涯を一貫するものであった。
〔写真〕
○埋葬祭 4月10日 玉串を捧呈される三代教主 綾部 天王平 p936
○とこしえに神しずまりますご三体の奥都城 前列左から開祖 聖師 手前中央 二代教主 前方つきあたりは社務所 天王平 p937
○墓前では信徒によって50日祭まで通夜がつとめられた p937
○大地の母としたわれた二代さま 亀岡中矢田農園にて 昭和17年 p939
○二代教主の歌碑 亀岡月照山 綾部本宮山 p940
○実地の行いを強調された二代教主は未決のなかでもお供えをつづけられていた お給仕にっかわれた湯呑と自筆の箱書 p943
○みずから杵をとり材料をあつめて草木染の工夫に余念がなかった 綾部梅松苑 p945
○二代教主出口すみ子 p947