文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >1 みろくの世建設運動よみ(新仮名遣い)
文献名3巡回講座と食糧自給国民運動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九五四(昭和二九)年はみろくの世建設運動の第二年度として、新春早々から、大本巡回講座と食糧自給国民運動が全国各地で精力的に展開された。巡回講座は前年の地方移動道場をさらに拡大したもので、全国いっせいに本部から講師を派遣し、未信徒を対象に企画された。大阪中之島公会堂をはじめとして近畿・東海・北陸・関東・東北・北海道・中国・四国・九州の順で、一主会平均二ヵ所・一会場二日間とし、「日本と人口食糧問題」「人間の改造」「なぜ宗教は必要か」「芸術と生活」「新しい人生観」「世界危機の解決」などのテーマでおこなわれた。講座は、平易にわかりやすく、ひろく大衆によびかけることとし、さらにふかく大本の教えにふれさせるため、本部道場修行にまでみちびくよう綜合的企画のもとにすすめられた。
当時の国内情勢は、朝鮮戦争の休戦による特需の急減と輸出の不振、インフレの予期以上の進行と投資景気による輸入の増大によって、貿易・国際収支の赤字が急増し、吉田内閣はこの危機を、日米MSA協定(相互安全保障法による軍事的性格のつよい援助協定で、米国内の余剰農産物処理という目的が加味されていた)による経済援助の増額によって打開しようとしたが、ぼうだいな軍事援助があたえられただけで交渉は失敗におわり、経済的な困難に国民多数が直面していた。また輸入商品の戦後における特長として、米と小麦が金額面で上位にのしあがり、輸入総額の約二〇%をしめるにいたった。一方、国内産米の実収量は、豊作といわれた一九五二(昭和二七)年においても六六一五万石、反当収量は二石前後というひくさで、米の不足高は玄米にして年間二〇〇〇万石といわれていたほどである。しかも一九五三(昭和二八)年は大凶作で、実収量は五四九二万石にとどまった。
こうした状況のなかで、東北巡教のさい、冷害とたたかう農村の人々に接する機会のあった三代教主は、なかでも愛善みずほ会員の努力とすぐれた実績を実地に見聞し、教主からあらためて、「国土の開発」と「食糧増産」にたいする積極的な意図がしめされた。これを契機に、教団では、農業技術の改善と食生活の合理化によって食糧の自給自足をはかることは、日本の経済的自立、ひいては自主独立にもおおきく貢献するものとして、食糧自給国民運動に取組むことになる。だがこの運動は、単なる技術改善を目的としたものではなかった。根本的には農民の精神的覚醒を主眼とし、さらに、〝天の父ちちよ父よと人はよべど毋なる土をとく人ぞなき〟〝一さいの生産品は地上より更生もまた土よりはじめよ〟との二代教主の歌にもあきらかにされているように、「大地の御恩」「地球の尊厳」にめざめしめる宗教的啓蒙運動でもあった。全国各地の大本信徒は情熱的に、この食糧自給国民運動の推進にむかうのである。
教団と愛善みずほ会は緊密な連繋のもとに、一九五四(昭和二九)年一月から運動をおこし、前述の巡回講座と並行して一主会平均一ヵ所・一会場二日の農事大講習会を、熊本県人吉を皮切りとして、九州・四国・山陽・近畿・山陰・東海・関東・北陸・東北・北海道と順次におこない、みずほ会農業技術と機関誌「みづほ日本」の普及、大本信徒の愛善みずほ会への入会に精力的に活躍した。各会場には青年層が圧倒的におおく、地方の農政関係者など農業の指導的立場にある人々や、篤農家なども多数来聴した。一月から三ヵ月の間、これらの運動にあたっては、本部教修生青年が各開催地に先行し、地元青年と協力して『新しき世界』(新聞型パンフレット)の一部売りをおこない、また自動車・メガホン・マイクによる街頭宣伝、立看板・ポスター・ビラ・新聞折込み広告の利用、ときにはラジオ放送など、事前の宣伝活動が徹底しておこなわれた。こうして、大本巡回講座は全国三五主会で開催され、そのうち報告のあった二九主会では延八四日間に四七九八人が受講し、また農事講習会は全国三七主会で開催され、そのうち報告のあった三三主会では、延六六日間に一万二九五二人が熱心に受講するという成果をあげた。
本部講師を総動員し、白熱化した地方宣教に呼応して、本部では特別講座を一時中止して普通講座の充実・強化をはかり、二月から修行日数を七日(亀岡五日・綾部二日)にあらため、「第一日開祖伝・神について・信仰と体験、第二日聖師伝・霊界の実在・冠沓句の作り方、第三日昭和十年後の大本・人生の本義・座談会、第四日神示と世相・芸術と宗教・懇親会、第五日信仰と生活・天産自給の経済・信仰と健康、第六日祝詞釈義・聖地の意義・祭について、第七日神苑・天王平・熊野神社参拝」の日程とした。
宣教は日本本土のみならず離島へもおよぼされた。一九五三(昭和二八)年一二月二四日、奄美大島返還日米協定が調印され、七年ぶりに奄美大島は日本に復帰した。本部はさっそく文字清美特派宣伝使を派遣したが、文字は翌二五日の復帰第一便に乗船して鹿児島を出発し、翌年の五月まで四ヵ月間、奄美人島の各島をはじめ沖縄へも足をのばして支部・信徒をおとずれ、宣教に活躍した。その間、名瀬市御神山で第二次世界大戦戦没者慰霊祭(昭和28・12・28)、喜界島宮原山で祭典と物故宣伝使合同慰霊祭(昭和29・1・3)、沖縄島尻の嶋守塔で第二次世界大戦全戦没者慰霊祭(同年4・13)が厳粛にいとなまれたが、これらは復帰後はじめてのことであった。
壱岐では八月に、農事講習会がおこなわれ、約四〇〇人が聴講した。はじめてのこころみであったが、「こんな自分の身につく話、明日からでも実行できる話は始めてだ」「これほど良識的な運動はない。大本を見直した」として、大本が社会的に再評価されるきっかけともなった。
一九五四(昭和二九)年は、三月一日ビキニでのアメリカの水爆実験にもみられるように、世界の情勢は水爆の出現を軸として、軍拡の方向へとはげしくゆれ動いた。日本でも七月には、自衛隊法・防衛庁設置法が施行されて再軍備へのコースが強化され、これに反対する大衆運動がもりあがってきた。こうした内外の緊迫情勢に対応して、第二年目をむかえたみろくの世建設運動は、前年度来の運動を踏襲していっそう積極的に社会的な活動を展開した。これまでの運動の成果にたって、四月以賺もひきつづき大本巡回講座・修行者送り出し・食糧自給国民運動の諸活動がおこなわれ、水爆実験反対運動・世界連邦第二回アジア会議などが積極的に展開されて、社会におおきな反響をよんだ。
対社会的活動のなかでみのがすことかできないのは、文化講座や慰霊祭などが各地でおこなわれたことである。七月には綾部のみろく殿で、第一回大本文化講座が二日間にわたってひらかれた。「大本の主張」(大本総長出口伊佐男)・「王仁師の作品とその芸術」(陶芸家金重陶陽)・「健康と明るい生活」(医学博士高須令三)・「経済と宗教の統一」(北国新聞副主筆村井藤十郎)のテーマで、それぞれ専門の立場から話はすすめられ、大本の文化観にもとづくこれらの主張は、聴衆にふかい感銘をあたえた。七月一五日には、東京本苑で、安政二年の大震災以来、明治維新・関東大寰災・第二次世界大戦による犠牲者などすべての精霊を招魂して、東京都無縁物故者慰霊祭がしめやかに執行された。また同日、東京本苑に、弁財天(市杵島姫命)のご神体が鎮祭された。一一月には函館支部で、北海道をおそった台風一五号のため、かずおおくの犠牲者をだした洞爺丸の遭難者慰霊祭が、北海主会の手でおこなわれた。さらに同月二七日には、大本・人類愛善会の斡旋で鶏林八道(朝鮮半島)殉難者慰霊祭が東京丸の内工業クラブで盛大におこなわれた。これは、「日韓合邦前から、太平洋戦争の終戦にいたるまでの殉難犠牲者に対する真情こめた慰霊の祭典を執行し、人間的見地から反省の証を捧げ」(趣意書)「鶏林八道と日本との両民族の関係が、以前にもまして善意と友愛によって結ばれ、やがて東亜の繁栄と幸福にも寄与」(「祭文」)しようというもので、神社庁・仏教・キリスト教・新日本宗教団体連合会などの各宗各派が宗派をこえて協力した。当日、式場正面には朝鮮式の形式をもちいた祭壇がもうけられ、殉難者遺族・朝鮮側代表三〇余人、日本側一五〇人の参列のもとに、人類愛善会の黒川実が司会して、開式の辞・献香・献華・献茶・黙祷・法語・祭文と祭典はすすめられ、おわりに大本総長出口伊佐男が挨拶をのべた。
対外的な活動が活発になるにつれ、これに応じた本部諸体制の運営強化がはかられ、一〇月の大本大祭の前日、あらたに総務として出口貞四郎・大国以都雄・桜井重雄・土井靖都・出口虎雄・土井三郎・日向良広らがくわわり、宣教部長・青年会長を兼任して東奔西走する出口栄二にかわって出口貞四郎が副総長に推された。また四月には、本部の議決機関である審議会の議員と地方行政機関である主会長の職制を区分し、審議員は九ブロックからの一般選出区議員一一人・特別選出区議員七人、計一八人によるものとした。
一〇月二九日、開祖大祭後に開催された主会長会議において、みろくの世建設のために、全教団をあげて「信徒倍増」に全力をそそぎ、一日もはやく実質的な信徒一〇万を達成するため、あらためて修行者の倍増が指示された。そのため本部道場も、受講者の便宜などを考慮して時代に即応した体制がとられ、その受入に万全を期した。一〇月からは月一回の特別講座を復活し、一日短縮して三日制とし、一一月からは毎月第一・第三日曜日を中心に三日間の短期修行講座がもうけられた。普通講座は七日制を四日制(亀岡三日・綾部一日)に短縮して、一二月二三日から実施をみた。スライドもはやくから本部道場講座にとりいれられ、子供向のフィルムなども多数制作して、地方宣教に役だてられていった。
みろくの世建設運動の三ヵ年目にあたる一九五〇(昭和三〇)年度は、自己研鑚と社会愛善化の徹底がはかられ、神教宣布・食糧自給国民運動・海外宣教・宗教世界会議などが重点施策としてとりあげられた。また信徒一〇万の目標にむかって、四月までに一万人の信徒倍増目標がしめされ、修行者送り出しに拍車がかけられた。一月には特別講座の内容を改善して、「第一日御神書について・三大学則と教旨・懇談会、第二日厳瑞二霊と三代教主の神業・神の世界的経綸・宣教の諸問題、第三日大本信徒の生活・大本と芸術・祝詞釈義」とし、日曜講話を開催して、京阪神・三丹など近隣各地の受講者の便宜をはかった。地方では、本部宣伝使の総出動、駐在・本部特派宣伝使の増派、主会長・支部長の陣頭指揮、青年・婦人の動員など、あらゆる手をつくして宣教活動が展開された。また日本復帰第二年目をむかえた奄美大島へは、四月に出口栄二宣教部長が文字特派をともなって渡島した。名瀬市御神山・喜界島宮原山での祭典で、世界平和と大本神業の発展を祈願し、名瀬市文化会館では聴衆三〇〇人に、「大本開祖の予言と世界平和」のテーマで講演をおこなった。
このように宣教が白熱化し、東奔西走する総長・宣教部長はじめ本部宣伝使の留守をあずかって、副総長として活躍していた出口貞四郎(三千麿)は、その後病態が悪化し、昭和三〇年三月二二日帰幽した。教主は大本本部葬の礼と弔歌をおくった。
四月のみろく大祭には、本部機構の簡素化と統制強化、教学院の充実強化、大本教団ならびに関係諸機関の総合統一的運営などを目的とする本部機構の改革がおこなわれた。まず教学院には史実編纂部・編集部がおかれ、あらたに大本文教委員会など各種専門委員会がもうけられて充実がはかられた。天恩郷の事務機構面では、従来の庶務部・財務部・造営部の三部が総務部一つにまとめられ、文書部は本部・総本苑共通の機関として「室」にあらためられた。他方神苑造営委員会がもうけられ、綾部・亀岡の神苑造営は、委員会で総合的に企画して実施にうつされることになった。この改革にともなって、四月二〇日に、教学院長出口栄二、総務部長・文書室長伊藤栄蔵、宣教部長・編集部長桜井重雄、大道場長三谷清らが新任された。
またこの年は、一九二五(大正一四)年に宣伝使制が施かれてから満三〇年目にあたり、従来宣伝使の自治的機関であった大本宣伝使会の性格をあらため、あらたに本部機構としての大本宣伝使会がつくられ、四月二〇日、会長には出口伊佐男が就任した。このころには宣伝使の総数は四〇九六人(昭和30・10)にたっしており、神教宣布の活動はこれら聖職者の使命の自覚にもとづく活躍が推進力となって、信徒倍増の運動が強力に展開されたのである。
大本文教委員会は大本教学・大本文化の研鑚とともに、将来大本大学の設立を目標に調査研究をすすめることを目的とした。しかし当面の人材養成のため、従来の教修所の内容刷新をはかり、あらたな構想による大本教修所を五月より開設した。修行期間を三ヵ月間とし、教科内容には必須課目として大本歴史・大本教義・比較宗教学・宣教技術・祭式・芸術・社会科学・人文科学・実習、撰択科目として茶道・八雲琴・書道・謡曲・短歌・絵画・語学(エスペラント・英語)などが組まれた。講師は本部講師のほか、元文部省宗務課長篠原義雄・立命館大学教授林屋辰三郎・京都大学教授岸本英太郎・立命館大学講師(現京都大学助教授)上田正昭・四耕会主幹で陶芸家の宇野三吾らが協力した。
従来地方にたいしては、任地や期間によって本部から随時、駐在派遣宣伝使・特派宣伝使・派遣宣伝使として出向せていたが、一一月からは「特派宣伝使」として職制化し、あらためて奄美大島・沖縄の二地区をくわえて一一地区に派遣することとし、地方宣教体制が整備された。この年の一二月には、信徒数も七万九八六五人となっている。
〔写真〕
○大本巡回講座 上 大阪市中ノ島公会堂 下 福島主会 p1015
○食糧自給国民運動の展開 綾部みろく殿での農事大講演会 p1017
○復帰後はじめての第2次世界大戦全戦没者慰霊祭が大本の手でおこなわれた 沖縄島尻 p1018
○鶏林八道殉難者慰霊祭 東京 丸の内工業クラブ p1019
○ありし日の副総長出口三千麿 苑内を巡視 p1021