文献名1その他
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3蒙古人とエスペラントよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要『真如の光』大正14年(1925年)11月5日号3~18頁に掲載された、王仁三郎の講演録。
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データ最終更新日2024-04-26 05:16:51
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蒙古人とエスペラント
日本エスペラント第十三回大会宣伝講演会に於ける出口瑞月師の講演(速記)
私は脱線の親玉と謂はれて居ります、大本の出口王仁三郎で御座います。就きましては司会者から何か話して呉れといふ事を、二三日前に頼まれましたが、別に深いエスペラントに関する考へも持つて居りませぬので、脱線した話ではありまするけれども、渺々として天に連なる処の蒙古の原野へ脱線しまして、エスペラント語の必要を感じた事をお話しし度いと思ふのであります。明治……大正……もう脱線して居ります(笑声)……大正十二年の七月に初めてエスペラントといふものを覚えたんです。同志社の方が私の方へ来られまして、一週間許りエスペラントを教へて貰ひましたが、何うしても六かしいので、之は一つ総てのものを早く覚えるには張紙するが良いと思ひまして雪隠の戸から総ての什器箪笥まで皆エス語を書いて張る。之を覚えなんだら雪隠へ這入る事は出来ない。子供は家のお父さんは執達吏のやうな事をすると非常にボヤキましたが、到々小さい子供まで其処等の道具位は覚えるやうになりました。それから執達吏の札もそろそろ取のけましたが、家丈けは之で良いが、他の人にも分りよいやうに覚え易いやうにし度いと、かう思ひましたから、三十一文字で『エス和作歌辞典』といふものを拵へて見たんです。自分は無茶苦茶に書きましたが自分はエス語の話しは出来ない。蒙古入りをエス語で話しするといふ様な事を書いてありましたが、分らぬ方もありますやらうし、私もエス語は本当に分らない。(笑声喝采)それで幸ひに日本語で演説さして戴きます。
実は私が蒙古へ脱線した理由は、年々日本の人口は七十万宛も殖へる。さうして米は七八十万石足らぬやうになり、それに将来に於て鉄類であらうが、皮革類であらうが一切供給が足りないといふ事が分つて居ります。それで此の日本の十八倍もあるやうな色々の鉱物、植物、其の外に無限の財源のある蒙古を拓いてさうして蒙古と親善関係を結ばう。さうしたならば日本が其処等中で排日を受けたりして居りますが、失業難も或は総てのものも救はれるであらう。かういふやうな考へを起しましたもので、それから法学士の松村氏と相談しまして、夫なら愈決行しやうといふ事になつたのであります。処が幸に盧占魁といふのがあります。之は今から十一年前に七万の兵を率いて大庫倫を占領した事のある馬賊の張本であります。其が張作霖と提携しまして…表面私は宗教宣伝といふ事に張作霖には云つて置いたのであります。それから兵器や糧食を送つたりしてドンドン奥へ這入ります。其の連れて居る兵といふものは、全部支那語と蒙古語であります。自分は何も分らない。盧占魁を子分に連れて行つたが盧占魁の云ふ事も分らない。手真似や足真似でやつて行きましたが大変間違ふ事も沢山ある。それから公爺府といふ処へ行くと自分の乗つて居る馬は日本語を使つてヒンヒンやつて居る(笑声)さうすると牛も矢張りモウモウと鳴いて居る。こいつも日本語を使つて居る。さうすると向ふへ行くと鶏、こいつもコケコツコー、猫もニヤンニヤン、犬もワンワン。よく考へて見ると日本語で無うて世界共通語である。(拍手)禽や獣でさへも共通語を知つ
れて行つたから馬賊の方は安全である。処が捕まへられたのは普通の人の一番安全地帯で捕虜になつたのであります。植芝といふ柔道六段の豪傑を強力に連れて行つたのであります。それから名田といふ理髪師を連れて行つたが名田は有栖川宮様に従いて世界中へ漫遊して来たから蒙古語も皆知つて居ると云ふ。私は其れを調べずに安心して行つた(笑声)。処が支那へ行けば支那の理髪用の機械でも知らない。蒙古語は少しも分らない。其れから英語では英語の理髪用の道具しか知らない。後悔したが仕方がない。
それから蒙古人は獰猛な人種であるといふ事を知つて居る。秦の始皇帝が万里の長城を築いて防いだ位だから獰猛な奴に違ひない。先づ植芝が『力を見せて置かねばならない…』といふので、蒙古人の手首を掴んだ処が青くなつて了ふ。それから四五日した処が、向ふでは柔道といふ事を知らないし、こちらの方は一倍力を入れたものだから蒙古人は之は蒙古を占領に来たのだと思つた。松村氏は其の時洮南まで来て居る。小さい家を借つて(蒙古では一番良いのですが)白と私と植芝と名田が泊つて居ると蒙古語で騒がしう言ふて居る。よう考へて見ると蒙古語で日本の人間鏖殺しにして了へ、と言ふて居る。夫から『白よ、今ああいふ事を言ふて居るが何うだ』と聞く。『実は誤解して居るのだ、此の人があんな事をしたから怒つて居るのだ。蒙古を奪りに来た、蒙古人を亡ぼしに来たと思つて居るのだ』と答へる。私はエス語で白にかういふ訳だからさういふものではない。之は柔術であるから決して悪意ではない。さういふ事を話しましたから白は蒙古語で皆に話したのであります。此の白に教へといたお蔭で危難を免れたのであります。それから翌日から蒙古人は非常に好意を以て門番に来て呉れたりしました。
さうすると二三日すると松村氏が二十人程兵を連れてやつて来た。又十日程すると盧占魁が奉天府の軍人と共に武器と兵を持つてやつて来た。それで先づ安心しましてドンドンと索倫山……索倫山といふのはチヨロマン人種といひまして人食ひ人種が居つたのであります。之は黒竜江省と露西亜と外蒙の三角形になつた処であります。今は黒竜江省の管轄になつて居ります。……其処へ旗を立ててドンドンやつて来た。其処に相当の建物があります。黒竜江省の知事とか郡長とか云ふやうなものにそれを借つて大本営を拵へた。さうすると蒙古の喇嘛や蒙古人が沢山出て来まして……それが行くまでに盧占魁が一つの政策で
『私は蒙古に生れた人である。さうして或る一番尊い汗家の息子である。それが六才の時に母親が連れて亡命した。さうして今五十四才になつて故国を救ひに来たものである。それから松村氏は母親が日本へ行つて又二度目の夫を持つて出来た子だ』
かういふ具合に宣伝して了つたんであります。何処へ行つても私は蒙古の人じやと云つて居る。それから蒙古の人やと思はれて居るから蒙古語を覚えねばならぬと思つて蒙古語の辞典を作つて歌にして皆覚えて了つた。それから愈さういふ具合になつて来て蒙古人がやつて来た。蒙古は露西亜と支那から圧迫されて居るので、成吉思汗の昔に復し度いから盟主になつて呉れと云ふ。蒙古人じやといふて居るのだからそんな時には、仕方がない、嫌とも謂はれない。それに任して私が汗で松村氏が副汗になつた。それから元帥旗を立ててドンドン行つた。丁度十万の兵は御座いますが自分の連れて居る兵は三千人しか居らない。其十万の兵に合する可く進んだ。さうしてドンドン奥へ進んで行きますと、六月の九日の日からそろそろ戦端が始まつた。王府や何かへ行つて見ると誰も居ない。空になつて居る。ナイ酒といふ牛乳の酒を飲んだり一服して旅立つ。
行軍し乍ら山と山の間に行くとポンポンやる。蒙古人は砂の中へ鉄砲を入れて自分は隠れてやる。狙撃だから一つ撃つたら皆当る。こちらの方はモーゼル銃を持つて居る。ポンポンやつても皆当らない。それから盧占魁の兵が来る。松村氏は私の後からやつて来る。弾丸はビユービユーやつて来る。戦争といふものは面白いものだが併し何時死ぬか分らない。(笑声)弾が中途に止まつて苦しんで死ぬよりも一層の事、潔く死んでやらうと思つて真裸体になつて行つた。さうやつて車に乗つて行つたが一向当らない。さうして毎日戦争して二十日の日までやつて来た。それから白音太拉といふ処まで来た。処が実は八百長がしてある。馬賊討伐といふ名の下に三個旅団が大砲や鉄砲を持つて来て両方から八百長の戦争をして、其の鉄砲や大砲を置いといて帰る事にした。我々は其れを持て行くといふ事になつて居つた、処が本当になつてポンポンやる。さうして居ると向ふから軍使が来た。さうして「武装解除せよ」といふ。味方の大部は後の方に居る。味方は五百人しか居らないから仕方がない。何うしてもそんな筈はない。何うも形勢がおかしい。兎も角白音太拉の旅長に談判して来やうといふので、盧占魁と十七八人連れて他の味方はパインタラから五十清里後に置いといて行つた。左すると道に何千といふ兵がやつて来て盧占魁を連れて行つて了つた。さうすると何ぼ経つても出て来ない。武装解除等と云つてもするもんか、と思つてやつて行つた。日本人の井上兼吉と私と一緒に行つた。夜中走つて夜が明けやうといふ時になるとパインタラが其処に見えて居る。其処へ六十名程の兵がやつて来て、
『今盧占魁を討伐する。貴方は日本人だからお逃げなさい。茂林廟に行けば日本人が居る』
と云ふ。私は、あんな事云ひやがつて支那人は良い加減な事を云ふのじやらう。井上、行かう。と門の処へ行くと二十名程の兵が鉄砲を向けて居る。『何で向けるのか』と私は日本語でやつたから分らない。井上が通訳した。『通るのなら五十銭出せ』と云ふ。五十銭なら安い事だから五十銭出して通つた。それから談判して、『我々の味方を取り巻いて怪我さすのは何の事じや』といふと、『まあまあお疲れでせうから一服して呉れ』といふ。夜中馬を飛ばして疲れて居るものですから、支那の布団を着て寝て了つた。夜明けから四時まで寝て了つた。一寸起きて呉れ、と云ふから起きると井上が縛られて居る。他に支那人も二名縛られて居る。『何で縛つたんですか』といふと『之は武器を持つて居るから。貴方も武器を持つて居りますから縛ります』『そんな筈はないじやないか、併し縛るのなら縛られても良い』といふ、すると手水を使ふ湯を汲んで来たり、顔を洗つたり手を洗つたり非常に親切にして呉れた。さあ縛つて呉れ、といふ処へ盧占魁がやつて来て
『此人は只信仰の為にこちらへ来て居るのであるから、此の人は戦争の為にやつて来たのじやない』
と云つた。『それは済まないことです今晩はゆつくり泊つて呉れ』といふ。日本の物が食べ度くて仕方がない。それで『日本人の宿屋があるか』といふと、『以前はあつたが今はない』といふ。支那の一等旅館で鴻賓館といふのがある。其処へ案内して呉れた。其処へ松村氏が兵隊何千人と知れぬ程の人に送られてやつて来た。そして盧占魁の兵も逃げそこねた者が皆やつて来た。鴻賓館に待つて居ると日本人も支那人もやつて来た。其処で寝て居ると夜半過頭の長い毛を引つ張つてゴンゴンやる。ヒヨツト見ると日本人の手を縛つて居る最中。さうして一人縛るのに七八人もピストルを向けて居るのじやから仕方がない。
何だかガヤガヤ云つて居るが、そんな事は何の事じや分らない。『日本人鏖殺しじや』と云ふて居るのです。と井上が通訳する。処が私は一寸も分らないから極安心なもの。『日本人は一等国の国民である。治外法権じやから俺を殺すやうな事はあるもんか』と極安心して居ると、私共は縛られてパインタラの長い町を『宣伝歌を歌つてやれ』と云ふて歌を歌い乍らひかれて行くとポンポン音がして居る、自分の使ふとつた将校等が赤い徽章を胸につけたやうになつて倒れて居る。機関銃でポンポンポン皆倒れる。松村氏と私と外に日本人四人、せんぐりせんぐり順が回つて来る。之は仕方がない『皆之から天国へ行くのじや、それだから俺に従いて来い、霊魂が離れない様にしろ』と云ひ、それから私は辞世を詠むと、云つて
『身はたとへ蒙古の野辺にさらすとも やまと男児の品はおとさじ』
と詠んだが未だ弾はとんで来ない。七回迄辞世を詠んだが遂に弾丸は来ない。つまり七回生きたり死んだりしました。(笑声)処が最後にポンポンとやつた奴が逆様に……何ういふもんか機関銃が不発で射手がひつくりかへつた。一人撃つのに二円五十銭で請負うて居る奴だから『今夜は験が悪いから明日にしやう。明日は虐殺じや』といふ。処がこつちには分らないから安心なもの。井上がさう云ふが、自分に直接に耳に這入らないから、ええ加減な通訳して居るのだと思つて居た。
晩になつて来ると少しおかしくなつて来た。手は縛り足には鎖をはめそれから荒縄で六人動けぬやうに窓を通して外の立木に括つて了つた。こいつは可笑しいと思つて居ると、鄭家屯の領事館から土屋書記生が愴惶としてやつて来て、愈日本人に違ひないといふ事が知れた。向ふは日本語を使ふても支那語を使ふても蒙古の服を着て居るから蒙古人と認めて撃つたといふ事にする積りであつた。処が領事館から来られたお蔭で助かつた。廿四時間内に引渡す可きだがグズグズして十日間パインタラに居た。それから私の名刺には汗の名称が刷つてあつた為に大分ぐずぐずして鄭家屯の役所で調べられた。処が其処で日本語を分る人があつたが、エス語の名詞位は知つて居る者が一人ゐたのでそれと話しをした、処が何とも知れないやうな味方のやうな気がした。覚えよいものであり又蒙古人が直に日本語よりも早く覚える事を見れば何処まで此の言葉を持つて行つても歓迎されるに違ひない。それで一日も早くエス語の天地にして了ひ度いものであるといふ信念が益々固くなりました。それから今度は奉天へ送られて又奉天で二週間程居りました。其処で日本人が丁度十人牢へ入れられた。私に連れられたものが(逃げた者も三人か四人ありましたが)其時に調べられた結果は三年間の退清命令が出て居る。胸に大きな紙で、三年間退清命令の旨を書かれて、写真をとられて済んだ、私は此の三日前にあの事件の為に脱線した為に責付取消しといふのが来て、二十日に立たうとするのに十七日にチヤンとやつて来た。すると領事が出口さんこんなものが来たと云ふ。帰んで一服しやうと思つたが監獄で一服や(笑声)それから牢へ入れられました。十一月の一日に又保釈となりました。それから蒙古語を研究して居りますが、……蒙古は何だかまあ一遍行き度いと思ひますから。……エス語は未だ何うしても子供よりも下手でありまするが今研究中なんであります。
何だか妙な処へ話しが脱線して了ひましたから之で御免蒙つて置きます(拍手大喝采)。
十月十七日(京都市山口仏教会館に於て 文責在記者)