文献名1三鏡
文献名2水鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3苦集滅道よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1928(昭和3)年06月号
八幡書店版166頁
愛善世界社版25頁
著作集
第五版157頁
第三版157頁
全集419頁
初版149頁
OBC kg131
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本文の文字数1465
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本文
苦は苦しみである。人生に苦といふものがあればこそ楽の味はひが判るのである。人間が飢んとする時、凍えんとする時、或は重い病にかかる時、可愛いい妻子に別るる時、汗を絞つて働く時、峻坂を登る時なぞは、必ずこの苦と云ふものを味はふものである。此苦があつてこそ、楽しいとか、嬉しいとか、面白いとか云ふ結果を生み出して来るのである。人生に苦といふものが無いとすれば、無生機物も同様で、天地経綸の神業に奉仕する事は絶対に不可能である。人生は苦しい中に楽しみがあり、楽しい中に苦しみがあつて永遠に進歩発達するもので、寒暑と戦ひ、困難と戦ひ、悪と戦ひ、さうして是等の苦しみに打ち勝つた時の愉快は、実に人生の花となり、実となるものである。高い山に登るのは苦しいが、其頂上に登りつめて四方を見晴す時の愉快な気分は、山登りの苦しみを贖ふて尚余りある楽しみである。
集、宇宙一切は総て細胞の集合体である。日月星辰あり、地には山川草木あり、禽獣虫魚あり、森羅万象悉く細胞の集合体ならざるは無いのである。家庭を作るも、国家を樹つるのも、同志が集まつて団体をつくるのも、これ皆集である。家を一つ建てるにも柱や桁や礎や壁や、屋根其外種々の物を集めなくては家が出来ない。人間の体一つを見ても四肢五体、五臓六腑、神経、動静脈、筋肉、血管、毛髪、爪なぞ、種々雑多の分子が集まらなければ人体は構成されない。天国の団体を作るにも、智慧証覚の相似せるものが相寄り相集まつて、かたちづくるものである。これ皆集である。要するに、前にのべた苦は人生の本義を示し、集は宇宙一切の組織を示したものである。
滅は、形あるものは必ず滅するものである。又如何なる心の罪と雖も天地惟神の大道によつて朝日に氷のとけるが如く滅するものである。たとへば百姓が種々の虫に作物を荒されて困る時、種々の工夫をこらして、其害虫を全滅せんとして居るが、到底これは人力では滅す事は出来ない。唯其一部分を滅し得るだけである。害虫は植物の根や幹や、梢又は草の根に産卵して種属の繁殖をはかつて居るが、併し乍ら冬の厳寒ある為に其大部分は滅ぼされて終ふ。これは天地惟神の摂理であつて滅の作用である。仏教に寂滅為楽と云ふ語があるが、人間がこの天地から死滅して仕舞へば、何の苦痛も感じない極楽の境地に入ると説くものがあるが、これは実に浅薄極まる議論である。寂滅為楽と云ふ意義は、総ての罪悪が消滅し、害毒が滅尽したならば、極楽浄土に現代が化すると云ふ意味である。総て人間そのものは無始無終の神の分身である以上、どこ迄も死滅するものではない。五尺の躯格は滅ぼすにしても、人間の本体其ものは永遠無窮に滅尽しないのである。併し乍ら、悪逆とか、無道とか、曲神とかいふものはきつと神の力と信仰力によつて滅し得るものである。これ等をさして滅といふのである。
道は道と云ひ、言葉と云ひ、神とも云ふ。宇宙に遍満充実する神の力をさして、みちみつと云ふのである。要するに苦集滅の意義を総括したものが道となるのである。道は霊的にも体的にも踏まねば、到底天国に達し、彼岸に渡る事が出来ない。故に空中にも道があり、地上にも道があり、海の面にも道がある。道は充ち満つる意味であり、霊力体の三大元質を統一したる意味であつて、これが所謂瑞霊の働きである。仏典にはミロク下生して、苦集滅道を説き、道法礼節を開示す、と出て居るが、苦集滅道と云ふも、道法礼節を開示すると云ふも、意味は同じことである。要するに苦集滅道は体であり、道法礼節は用とも云ふべきものである。