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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第1章 >4 「神霊界」の発刊よみ(新仮名遣い)
文献名3海軍関係・知識層等の参綾よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-07-24 00:49:02
ページ359 目次メモ
OBC B195401c2143
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本文  第一次世界大戦によって、世界および日本の情勢がおおきく変動してきているとき、立替え立直しの「神諭」を発表したことと、あわせて鎮魂帰神や浅野の言説などは、危機意識をもった知識層に波紋をなげかけていった。まず海軍関係からの入信者が前述のように表面化してきたが、さらにひろく知識層にもひびきわたり、皇道大本を研究しようとして参綾する知識人もだんだんとおおくなった。
 一九一七(大正六)年一月一五日、金竜池畔の社務所は竣工したが、未完工ながら神武館では開場式を挙行し、剣道・弓術の型をおこない、二月四日には武術大会を開催し、そのあと王仁三郎と浅野が大本講演をした。参集した町内有力者にも、大本にたいする理解の端緒がえられた。
 二月四日には、青竜隊旗上式が金竜殿で挙行され、本隊長には出口直日、顧問に梅田信之・牧寛次郎の両人が推挙された。「神霊界」の一月号の年賀広告によれば、直日は直霊軍の総統、白虎隊棟梁は吉田一、幼年軍棟梁は梅田信之、娘子軍棟梁は谷前清子となっている。なお、年賀広告の一隅に「大社教本宮教会所一同」とあるのをみれば、当時まだ大社教とのつながりは存続していたようである。前年の暮以来、海軍大佐桑島省三・同大佐四元賢助・同機関中佐松尾雅三・進藤同少佐・松本海軍少佐・立花同少佐・糸満機関大尉そのほかの尉官級の海軍軍人が多数参綾していたが、一九一七(大正六)年に入っても桧貝海軍機関大佐・篠崎海軍大佐・大沼海軍機関大佐らがつぎつぎに参綾し、皇道大本の研究や、鎮魂帰神の実修に熱心であった。なお飯森正芳※は飯森の母が帰幽したために、二月二〇日郷里石川県輪島に引揚げた。

※飯森は大本入信前キリスト教の洗礼をうけ、トルストイに心酔していた。大正九年か一〇年ころ東京にでて、大杉栄・堺利彦その他の無政府主義者・社会主義者とも交わり、約三年間上海にのがれ、帰国後「赤化中佐」として騒がれたこともあったが、晩年は不遇で一九五三(昭和二八)年に帰幽した。

 三月一六日には、海軍少将浅野正恭が参綾し、一七日には海軍大尉篠原国彦が、五月四日には富井機関少佐が、ついで六月九日には海軍大佐山本英輔が参綾して鎮魂を実修した。同一四日、海軍少将秋山真之がふたたび参綾して三日間の修業をしている。
 海軍関係以外としては、秋山少将の紹介で二月一九日に豊本景介が参綾し、四月七日には東京より医学博士岸一太が、同一六日には子爵岩下家一がそれぞれ参綾し、四月二三日には鶴殿男爵夫人大宮守子、五月八日には小森雄介、五月一七日に子爵水野直と参綾がつづいている。一二月四日には大阪から森慶三郎(良仁)、嵯峨から小笠原義之の兄弟などが参綾し、同月一五日には留岡幸助、一八日には海軍中佐矢野祐太郎、二三日には松江の琴星社社長岡田豊満之丞らが参綾した。
 知識人や海軍関係者のあいつぐ来訪によって、王仁三郎の日常が多忙をきわめたことはいうまでもない。そればかりではない。神諭の発表に関する用務、神前の用務、建設関係の指図、雑誌の校正、さらに宣教と、昼夜をわかたず不断の努力がなされねばならなかった。事実、「神霊界」の一〇月号にはそのことについて、王仁三郎は次のように記している。
 「間断なき土木工事の設計及び監督、神武館及び大本体育場の管理に、守護神の審神、来訪者の応援、神前の御用、雑誌の校正、農事の監督、祖霊殿における幽界の御用、教理の宣布等に昼夜の区別なく、寝食を忘るる次第」と、まさしく神業に多忙であった。そうしたあいまをぬって、霊地の参拝が実施されているのである。つぎに記すのはその一端である。
 王仁三郎は浅野・大宮守子らの一行一一人で、四月二四日の朝に綾部を出発し、大和の上市に泊り、二五日には柏木に泊り、二六日吉野川ぞいにのぼって吉野山の八幡の社にいたり、神前に礼拝した後、一行のうち四人が帰神状態に入った。神事をおえて一行は二七日に綾部に帰着した。王仁三郎はじめ男子は、当時においては長髪の者がおおかったので、旅行中異様な一行として、都鄙いずこでも衆目をひいた。
 四月二八日には開祖・王仁三郎・役員・信者数百人が、福知山の八幡宮および一宮神社に参拝し、五月二五日には、王仁三郎は百余人とともに神島に参拝した。帰路肝川に立ちより「土米」を多量にもちかえる。八月二五日にも、王仁三郎の一行七人は、風浪のなかを神島に参拝している。なお、一月二二日にも湯浅斎次郎らが神島にわたり、遷宮式をおこなっている。
 この年の四月二八日には、東石の宮の工事が竣成し、五月五日には鎮座祭が執行された。これで神苑の東と西に石のの宮ができたわけである。その春に着工した金竜海の西池および西の岩戸は九月下旬竣成した。金竜海の大八洲神社は、九月二三日に地鎮祭をおこない、一一月二九日に竣工、王仁三郎斎主のもとに鎮座祭がおどそかに執行された。前田勘吉の首唱による「義勇飛行団」の創立事務所が金竜海池畔におかれたのは七月一日のことである。その一〇数人の創立委員のなかには、王仁三郎の名もあった。
 これよりさき六月一二日、採鉱家金谷謹松が肝川に出向していたが、一一月一日には内藤正照(大阪)・車末吉(肝川)はじめ、綾部・福知山・大阪などから数人が出動して、肝川の金鉱試掘などもおこなわれている。
 一二月二一日「神霊界」誌の姉妹紙として「綾部新聞」を創刊した。タブロイド版で月三回発行し、対外宣教を目的としている。なお、大正六年中の土地の買収は一九五〇坪(二二筆)、家屋購入一棟であった。

〔写真〕
○海軍軍人の参綾 p359
○青竜隊の旗揚式 p360
○王仁三郎は誌代領収書までかいていた p361
○東石の宮 大八洲神社 p362
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