文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第3章 >2 教勢の発展よみ(新仮名遣い)
文献名3祭事よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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大本に入信したものは、まづ「神体」の授与を願い、各自の家にそれを奉斎した。また「肌守」をうけて日夜肌身から放さないようにした。さらに祖霊の祭祀を大本式にあらため、祖先の崇敬につとめた。そしてそのうえに各自の守護神を奉斎したのである。守護神の奉斎理由は「神霊界」誌に毎号掲載されているが、その一斑を示すと、つぎの通りである。
皇道大本に於ては、幽斎を奉修すると共に、其人の御本尊たる霊魂即ち守護神を鎮祭致しますが、是皇道の最要なる神術神業なのであります。吾人の本尊たる霊魂を神として奉斎し、且つ天祖の許容を受けて、生きながら神の列に加はり、以て今回の世界修斎の大神業に奉仕させて頂くのでありますが、……自分の守護神を尊敬奉斎して惟神の日本魂に立帰り、他人を力とせず、大神と守護神を第一に敬祭して以て凡ての事業に着手したならば、如何なる事も成就せない事はありませぬ。茲に始めて霊主体従の実が挙るのであります。
右のような理由によって、熱心な信者はその授与をすすんでうけるようになる。各自に守護神名がさげられたのは、大正の初期からであったが、正式に奉斎するようになったのは、一九一八(大正七)年六月からで、そのことは一九三五(昭和一〇)年の第二次大本事件が起きる直前までつづけられた。
残存している名簿によると、奉斎者の数は約一万人におよんでいる。
大正の初期以来、大祭は、節分と春・秋の二季におこなわれ、春季・秋季大祭の翌日、あるいは翌々日に祖霊社の祭典が執行された。そのほか臨時祭や、昇天後は教祖祭が大祭にひきつづいてとりおこなわれることになった。それらの行事の期間は、はじめは二日間であったが、一九一八(大正七)年春季大祭から役員信者大会がもよおされることとなり、春・秋とも三日間となっている。称は「春(秋)季祭典」・「春(秋)季大祭」、あるいは「祖霊社祭典」・「祖霊祭」・「祖霊大祭」と一定していないが、「春(秋)大祭」・「祖霊大祭」・「節分大祭」と名称がはっきりするのは、一九二一(大正一〇)年以降である。
信者が朝夕の礼拝に奏上する祝詞は、一九一二(明治四五)年七月一五日に発行された「善言美詞」が用いられ、一九二〇(大正九)年七月には一一版を重ねている。それによると「天津祝詞」・「神言」・「大本祝詞」・「感謝祈願詞」・「祖先拝詞」の五つが用いられているが、それらは王仁三郎の著述にもとづいたものである。朝拝のときには「天津祝詞」と「大本祝詞」を奏上し、タ拝のときには「天津祝詞」と「神言」を唱えるのが普通であり、「感謝祈願詞」は月並祭に用いられていた。
神名の奉唱については、「大本皇大御神守り給へ幸へ給へ」「惟神霊幸倍坐世」をそれぞれ二回唱え、また教祖の神霊にたいするときは、「惟神真道弥広大出口国直霊主命 守り給へ幸へ給へ」を、その他の神々にたいしては、それぞれの神名を唱えることとされていた。当時の「善言美詞」には、「教祖様の称へられし祈願の詞」がつぎのように示されている。
御三体の大神様。日の大神様。月の大神様。
艮の大金神……国常立の大神様。坤の大金神……豊雲野の大神様。
竜宮の乙姫様……日の出の神様。禁闕金の大神……大地の金神様。
弥仙山の木の花咲耶姫命様。中の御宮の彦火々出見命様。
大本塩釜御夫婦大神様。雨の神様。風の神様。岩の神様。荒の神様。地震の伸様。八百万の金神様。
取分け神風の伊勢に鎮まります天照皇大神宮様。豊受大神宮様。於加良洲大神宮様。を始め奉り、日本国中に鎮まります、世に出て御座る神様御一同様。昔から地に落ちて御守護遊ばし下さりました八百万の生き神様。総産土の大神様の御前に、日々の広き厚き御守護を有難う御礼申上ます。此度の三千世界の二度目の天之岩戸開きに付きましては、千騎一騎の御働きを願ひます。天下泰平国土安穏、世界の人民一日も早く改心致しまして、神国成就のために働きますやう、御守護を御願申上ます。大本皇大神守り給へ幸へ玉へ・惟神霊幸倍坐世
開祖は胸のあたりで、しずかに手を合わして、礼拝をされた。信者は膝の上に両手をおいたまま礼拝していたのであるが、一九二一(大正一〇)年からは開祖の姿にならって、両手をあわすことにあらためられている。大神はじめ教祖の神霊に礼拝するおりは四拍子し、祖霊礼拝のときは二拍手するのがきまりである。
祭式については、一九〇八(明治四一)年一一月に、はじめて祭式講習会がおこなわれて以来、地方へも祭式の普及がはかられてきた。一九二一(大正一〇)年以前に、祭式について発表されたものとしては一九一三(大正二)年一〇月発行された出口王仁三郎撰による「大本教日拝式」(A6判一四頁)と、「敷島新報」に連載(一九一六─大正五年)された青竜隊統監部述の「祭式概要」が現存している。それによれば、「茲に述べむとする所の祭式は法規上(神社祭式)の者を措き、歴史的慣例より来る祭式の見地より」のべるとして、「祭式の概念、上下左右及遠近の弁、祭式上の上下左右及遠近、正中及左右面左右側に於ける起居進退、結論」の五頂自にわけて詳述がなされている。当時は神社祭式を基準として、その都度必要な指示を与えていたようである。すなわち一九二〇(大正九)年の「大本時報」には、「毎月一の日(一日・二日・二一日)より五日間、午後一時より五六七殿に於て祭式講習を致す事に相成候に付有志の方は……祭務部に御申出相成度候。追て出席の方は笏及筆記帳御持参相成度候」と公示して、その普及がはかられているし、また質問に答える形式で、「一、大神様の祠は、守護神や祖霊より一段高くすればよし。二、朝夕のお給仕は、家庭と職業の都合により、簡潔宜しきに適すべし。蓋し清潔と敬虔とを主眼とすれば過無し。三、別拵への塵払ひを作り、神壇の払ひに専用すべし。四、月並祭、霊祭等の供物ば、豊富なるを可とすれども、身分不相応は害あり。其供へ方順序等は、祭式講習の人に聞くか、或は氏神の神職に問ふべし。大した相違は無からむ。祝詞は素人にては作り難し。五。(略)六、祖霊前に時々の膳羞を上ぐることは孝子順孫の至情なるべし。七、祖霊年祭の順序等は祭式講習の士に問はれたし。簡単に述べ難し」と具体的にのべられている。
祖霊の祭祀については、本部祖霊社に復祭し、信者各自の家にも鎮祭されていた。本部祖霊社は一九二〇(大正九)年一〇月一〇日に、上野一六一番地から金竜殿にうつされ、その跡は新祭殿と称して、信者の葬祭場にあて、そこで新霊を五十日間まつり、五十日目には祖霊社に合祀された。
天王平に信者の奥津城がつくられたのは開祖の兄清兵衛が、一九〇四(明治三七)年六月五日帰幽したときがはじめてで、一九一八(大正七)年には開祖の奥都城が築かれた。毎年八月一五日には、祖霊社係が、各信者の奥津城の墓前祭をおこなっていたが、一九二二(大正一一)年からは、合同慰霊祭をおこなうことにして、墓前祭は中止となった。
祓戸行事としては、一九一五(大正四)年頃には、大麻・切麻・散米・塩水の四行事がおこなわれていたが、切麻・散米の行事は間もなく廃止されている。こうして開祖昇天以来のきびしい教風のなかで、本部をはじめ地方においても、祭祀は真剣におこなわれた。
〔写真〕
○「御神体」下附 p451
○守護神鎮祭の証と名簿 p452
○のりと 善言美詞 p453
○新祭殿 もと祖霊社 p455
○出口家奥津城 左から出口清吉 出口家 出口政五郎 p455