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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第1章 >1 事件の背景よみ(新仮名遣い)
文献名3事件のあらましよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ513 目次メモ
OBC B195401c3111
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本文  大正初年における大本の信者数は干人にみたない綾部の一地方教団にすぎなかった。しかし、第一次世界大戦後の変動期において、大本は異常なまでの成長をとげた。一九一七(大正六)年の一月に機関誌「神霊界」を発刊していらい、「大正維新」をスローガンとして、鎮魂帰神とはげしい予言・警告にもとづく強力な宣伝を展開した数年の間に、大本はめざましい躍進をとげ、その発展ぶりには目をみはるものがあった。綾部の本宮山に神殿を造営し、亀岡城址を購入して大道場を開設し、さらに日刊「大正日日新聞」を経営するなど、教団の諸施設をととのえながら、その教線を全国的に伸張させていったのである。それはまさに爆発的な成長ぶりであったといってよい。その点について、参照されるものに『大日本帝国議会誌』の第一二巻がある。それには第四四議会(衆議院)における安藤正純代議士の「文政並に大本教に関する質問」(大正一〇年三月二二日)が掲載されているが、彼はそこで、一九一九(大正八)年に二万五千人であった信者が一年間で三〇万人と号するにいたったといい、それは政府の取りしまりよろしきを得ざるためであると攻撃している。もとよりこの数字はそのままには信用しがたいが、「大本年表」にいう、一九一一(明治四四)年一月の大日本修斎会会員が、戸数八五、人数四〇〇人にすぎず、また一九一四(大正三)年の布教所数が三六ヵ所であったことに対比してみると、この時期における大本の発展がいかに爆発的であったかが容易に推測されよう。
 一九二一(大正一〇)年をむかえた皇道大本は、天理・金光両教団につぐ全国的教団として発展しつつあった。この年の二月三日、出口王仁三郎は非常な決意をもって、人事異動をおこなった。すなわち、王仁三郎は、その異動によって、大日本修斎会会長・亀岡大道場長・大正日日新聞社長という大本にとってもっとも重要な三組織の責任者の地位にみずから就任したのである。しかし、新興の教団である大本の前途はきびしく、あらたな人事による態勢がととのわない間に、大本は教団の興廃を決する巨大な壁に遭遇した。いわゆる第一次大本事件がそれである(この事件が第一次大本事件といわれるのは、一九三五─昭和一〇年─におこった第二次大本事件と区別されているからである。この編において事件と略称するのは第一次大本事件のことである)。
 一九二一(大正一〇)年二月一二日の未明、検事総長平沼騏一郎の指示をうけた京都府警察部長藤沼庄平は、予審判事・検事らとともに、武装警官二〇〇人を動員して大本をおそった。すなわち綾部・亀岡・京都・八木における二〇数ヵ所が、不敬罪および新聞紙法違反の容疑で家宅捜査され、筆先の全部と神体の一部が押収された。また、大阪梅田の大正日日新聞社に出務中の出口王仁三郎、および綾部に在宅していた浅野和三郎・吉田祐定の三幹部が検挙され、だだちに京都監獄未決監に収容された。そして三幹部は、不敬罪および新聞紙法違反の罪名で起訴されたのである。
 第一次大本事件は、表面上は中傷にもとづく当局の誤解によって、一九二一(大正一〇)年二月一二日突如として発生した事件のようにうけとられがちであるけれども、前章でみてきたように、おこるべくしておこった国家権力による狂暴な宗教弾圧であった。そして、事件の勃発は、教団内部はいうまでもなく、ひろく社会全般にもおおきな衝撃をあたえた。世界の立替え立直しをさけんで急速に成長しつつあった新興の教団の幹部が、突如として検挙されたという事実だけでも、じゅうぶんに世人の関心をひいたが、それのみではなく、敬神尊皇愛国を標榜する宗教団体の幹部が、こともあろうに、不敬罪という当時の日本人にとってもっとも不名誉な、かつまた、いまわしい罪名で起訴されたことの異常さが、教団内外の注目をうながさずにはおかないのである。
 五月一一日に、予審の決定がおこなわれたあと、六月一七日には王仁三郎は責付出獄し、一二六日ぶりに綾部に帰ってきた。だが弾圧の手がゆるめられたわけではない。すなわち六月二八日には、信者の歎願もむなしく、綾部天王平にある開祖出口なおの墓は、改修させられ、一〇月一一日には、本宮山神殿にたいし、一八七二(明治五)年の無願社寺創立禁制に関する大蔵省第百十八号達という、きわめてかびくさい法令を適用されて破壊された。そしてその少し前の一〇月三日には第一審判決があり、五年の刑が宣告された。一方、事件発生当日より、大阪地方裁判所検事正の名においてさしとめられていた記事の掲載禁止が、五月一〇日にいたって解除されると、全国の新聞はいっせいにこの事件をかきたてた。「謎の大本教」・「淫祠邪教」・「国家転覆の陰謀団」・「悪魔の如き王仁三郎」などというあくどい報道をおこない、大正時代の典型的な「邪教」としての印象をあたえた。
 しかし、教団はつぶれなかった。けれども、王仁三郎らが第一審の判決を言渡されてから、第二審の控訴院、さらには大審院へと審理が継続され、裁判が続行されてゆく約六年の期間、教団は沈滞を余儀なくされた。
 以上が第一次大本事件のあらましである。この事件はその後の大本の動向におおきな影響をあたえた。「皇道大本」という名称が、「大本」と改められ、王仁三郎と二代教主すみ子が隠退して、直日が三代教主に就任したこともその一つであったが、『霊界物語』の発表や王仁三郎の入蒙、あるいは人類愛善会の発会、さらにエスペラントの採用等々、その後の大本の進路を決定づけたさまざまのできごとは、事件との関連なしには正当な評価をくだすことができない。その意味で、第一次大本事件の究明はきわめて重要な問題を内包している。

〔写真〕
○瀑布 出口王仁三郎筆 p511
○未決監で教誨師に手わたした王仁三郎自筆の色紙 p513
○第一次大本事件を風刺した図 ワニ(王仁三郎のこと)をしらべる 雑誌 新天地 p515
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