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文献名1神霊界
文献名2大正7年5月1日号(第61号)よみ(新仮名遣い)
文献名3国教樹立に就て(三)よみ(新仮名遣い)
著者天爵道人
概要王仁文庫収録の『国教樹立論』では(7)~(15) 神霊界では(14)~(27)
備考
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掲載号 ページ25 目次メモ
OBC M192919180501c08
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本文の文字数10360
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本文 神霊界」 1918/05/01 国教樹立に就て(三) 61号 2巻
  十四
 世界の趨勢が歩一歩と統一を欲求し、大教義の発現を切望し、大救世主の出現を冀待する事の切なる有様は、識者の之を洞察するに難しとしない所である。世界は修羅地獄のどん底までも堕落し行くのである。而して修羅地獄のどん底に到った時に、大救世の日の御旗は其上に輝くべきである。大本教に竢たなければ、世界は平和な楽境とはならない。大本教は、世界を救う所の唯一の根源であり、且使命である。
 大本教の発揚さるる源は、『古事記』奥義の発揮である。『古事記』の真意義の発動である。『古事記』秘奥の解せられざりしは、時機が之を許さなかった為めである。天津金木、日本言霊法の発展、開祖の『神諭』に由て、『古事記』の真解されたは、全く時機相応の所以である。
 『古事記』には、哲学的方面の解釈と、倫理的方面、宗教的方面の解釈がある。本題目としては比較宗教学の立場からして、既成宗教に対して些細の比較討議を為すべきであるが、紙面の狭隘なるが為に、比較の討議を可成的避けて、『古事記』の真義を略述するの傍ら、諸種の方面に些少の比較を試むるに止めねばならぬ次第である。其比較討議の如きは、各自専門の方面に於て、読者が個々になされんことを切望するの止むなき次第を御賢察が願いたい。大本教は我皇室と一体不離の教義なるが故に、御皇運の無彊なるが如く、斯道は一系綿々として、堅磐に常磐に栄え行くのである。古今を一貫し、内外を隔てぬ天上地上の権威である。大本教は、『古事記』主典の哲学的研鑚に歩を起し、漸次本塁に突進するのである。吾人をして、出発の当初に臨みて、先ず「教育勅語」の一節を拝読せしめよ。「斯道は実に我皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に遵守すべき所、之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず、朕爾臣民と供に拳拳服応して、咸其の徳を一にせんことを庶幾う」。
 畏きかも、尊きかも。
  十五
 宇宙の実在は神である。無量無辺の現象は即ち神の意思の発作である。現象は即ち実在である。故に無量無辺、時と場所との差別なく、一切の現象は即ち神の意志の表現である。発作である。而して神は唯一の実在である。現象の本源に、二も無く三も無いのは当然である。『古事記』に、
「独神成坐而、隠身也」
とあるのは、専ら如上の意義を顕わしたものである。「独神」は実在の唯一無二なるを示し、「隠身也」とは現象の本源根底神なることを示された語である。
 以上の神に関する解説は、仏教でも、基督教でも、乃至現代の哲学でも、粗ぼ同じような事を謂うのであって、日本特有の説と見ることは出来ない。乍併『古事記』の「独神隠身」は、
「天地が初発つ時に、高天原に成る神名は、天の御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独神に成り坐して隠身たもうなり」
 とあって、独神の上に並独神となるのである。高御産巣日神は神漏岐系の祖神にして、天御中主神の精神系である。而して神産巣日神は神漏美系の祖神にして、天御中主神の物質系である。精神と物質とは天御中主神の両面である。此三柱は並独神成坐すので、唯一の実在にますなる天御中主神の御内証が、忽ち分れて精神、物質の二系統を為すことを示された事に、深く注目せなければならぬ点である。されど此点も、日本特有の説と見ることは出来ないのである。乃ち真言密教は胎蔵、金剛の二大界を説いて居る。『法華経』は釈迦、多宝の並座を説いて居る。実在に二大系統の含蔵されることは、優れた宗教の哲学的方面の常に説く所である。けれども更に一歩を進めて、「何故に実在に二大系統が生れたのか。一体実在の本質というものは何であるか」というような所まで尋及して行く時は、所謂「果分不可説」という宗教哲学の熟語となって、曰く「不可称」、曰く「不可思議」、曰く「廃詮談止、言亡慮絶」という事になって了うのである。独り真言密教のみは「果分可説」と説破し、「阿字本不生」「阿字大日」という根本説を提供するのである。神がコトバであるという説は、埃及の神話にもあり、『新約全書・約翰伝』首章にも、
「太初にコトバあり。コトバは神と借にあり。コトバは即ち神なり。このコトバは太初に神と偕に在き。万物これに由て造らる。造られたる者に、一として之に由らで造られしは無し。之に生あり。此生は人の光なり。光は暗に照り、暗は之を暁らざりき」
という事も謂って居る。
  十六
 コトバの真意義は頗る高遠である。茲に詳細の説明を要するけれど、余り長くなるから省略して、阿字の立脚よりする神の本体論を追及して行くことに致そう。神はコトバである。コトバは神の意思である。日本に於ては、神の御名に何々の命(尊)とあるのは、「御言」の義である。コトバは霊であるという見地からして、日本には言霊という語が古から存在して居るのである。『万葉集』に、
「神代より云伝げけらく。そらみつやまとのくには、すめ神のいつくしき国、言霊のさきはふ国と語りつぎ、伊比つがひけり。今の世の人もことごと、眼の前に、云々」
 という歌があり、「言霊の助くる国」、「言霊の活き居る国」等の語も伝えられて居るのである。吾々が古典を正解したのも、専らこの言霊の力に因って其蘊奥を窺い得た次第である。現今の哲学は、「現象即実在」と説き、ベルグソンは「実在は流転す」なぞ謂って居るけれども、流転には発動の目的が無い、発作に必然の根本律が無い。実在は徒に流転に終るものであろうか。科学者は宇宙の創造説として、星霧説を唱導して居る。星霧が何等の源因に基いて、回転を始めたものであろう。偶然の回転が秩序ある宇宙の現象を何して形成したのだろう。哲学者も科学者も、宇宙の根本律に対しては、嘴を容るる資格は無いのである。神の意思はコトバ(言霊)の法則に基き、語法に由て発動し給う所以の秘奥の義は、彼等の毫も知る所でないのである。『約翰伝』首章も、「神はコトバである」とまで謂ったが、其コトバが何う発作して、万有が現出したかを解くことは出来なかった。真言密教はコトバの発作を詳細に解説したけれども、彼には大なる欠点が存在して居て、全く空虚な議論に畢ってしまった。只日本国の皇典のみ、天上天下に独尊な解説を与え、活きた事実を永遠に伝うる権威となったのである。実に日本の言霊ほど霊妙なものは、他に対比すべきを見出さ無いのである。
  十七
『古事記』の本文をもう一度掲げる。
「天地初発之時、於高天原成神名、天御中主神訓高下天云阿麻、下效之。」
 古来の説明では、「天御中主神が高天原という霊地へ降臨遊ばされ」たとか、「鎮坐ました」とか解くのだが、大なる誤である。「高天原」とは天の事でも無い、土地の名でも無い。「成神名」とある「成る」という事も、「降臨」とか「鎮坐」とかいう事でも無い。「成ります」は正に「鳴りますしの語である。伊邪那岐神の黄泉行の段に、「八雷神成居る」とあるは、矢張「鳴り居る」の義である。天御中主神が「タカアマハラ」と鳴り出ました意義である。神は「コトバ」である。「タカアマハラ」と天御中主神が、「天地初発之語」として鳴りましたのである。高天原を、古訓に「タカマノハラ」(タカマガハラ)と訓んで居るのは、これは誤りである。「高の下の天を訓んで阿麻という」と、註に立派に掲げてあるではないか。正しく「タカアマハラ」と訓むべきである。「タカアマハラ」は、天御中主神の根本発動である。宇宙の始元は、この「タカアマハラ」の六声に基くのである。
 「タカアマハラ」六声の言霊は、何事を意味して居るであろうか。専門的の解説を避けて通俗に之を解釈すれば、「タカアマハラ」の内部には四つの重大なる意義が含まれて居るのである。即ち共の四つとは、
「タカア」「タアマ」「カアマ」「ハラ」、これである。
「タカア」とは光明八紘に照り輝くという義である。「光明遍照」という語が当るのである。
「テッカリ」「テカテカ」等同語原の語である。
「タアマ」とは「円満具足」の義である。又た摂取不捨」とか、「至愛至護」とかいうような意義の語である。「カアマ」とは、「信賞必罰」という義、「金剛不動」という義等を含む語である。
  十八
 仏教の発源地として、其当時、世界思想の華麗を極めた天竺の末路は何たる悲惨であろう。儒教を始め幾多の大思想を発源して、知識徳教の中華と誇った支那の現代は、何たる有様であろう。若し夫れ、西洋各国から基督教を控除したならば、彼等の国柄は野獣の群と択む所は無くなるだろう。今やその徴候がほの見ゆるではないか。
 然るに肇国以来幾千年間、其の間に外来の強烈なる華麗なる幾多異様の思想を迎え容れ、変遷に変遷を重ね来ながらも、其根本思想、立国の精神、国体の大本が、厳乎として毫も犯さるる処なく、厳然として存在する大日本帝国の真道が、如何に尊きものであるか。彼等と相比して霄壌月鼈も啻ならぬ有様である。
 天照大御神は万有統理の大君神として高天原の主体と為り給える事は、前に説く所である。『日本書紀』には、
「既にして伊邪諾尊、伊邪冊尊、共に議りて日わく、『吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主たる者を生まざらんや』。是に、共に日の神を生み大日め[レイ]貴と号す。此の子光華明彩、六合の内に照り徹る。故、二神喜びて日わく、『吾息多ありと雖も、未だ若此霊異の児有らず。久しく此の国に留むべからず。自ずから当に早く天に送り、授くるに天上の事を以てすべし』」
 とある。「カアマ」を標榜して高天原統治に当り給うが故に、「此子光華明彩」の語はあるのである。天照大御神の御名もあらせらるるのである。皇孫に地上統理の大権を授け給うにも、先ず鏡を執り給いて、
「即ち勅して曰く、『吾が児、此の宝鏡を視ること、当に猶吾を視るごとくなる。與に床を同じくし、殿を共にし、以て斎鏡と為すべし』」
 の御詔詞もあったのである。須佐之男命の無礼を怒り給いて、天岩戸に隠れます際は、「天地闇黒となりて万妖悉く発す」とあるは、「タカマ」の経綸が傷ぶれて、光華の発動が停止し、反て闇黒の方面が跳梁する次第を示させ給うのである。
 天照大御神は光華の神である。
 天照大御神は至愛の神である。
 天照大御神は真理の神である。
 天照大御神は、真智の神である。
 即ち、「たかあまはら」統理の御主体に在しますのである。祈年祭の祝詞に曰く、
「辞別きて、伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく。皇神の見霽るかします四方の国は、天の壁立つ極み、国の退き立つ限り、青雲の靄く極み、白雲の堕り坐向伏す限り、青海の原は棹柁干さず、舟の艫の至り留まる極み、大海原に舟満ちつづけて、陸より往く道は、荷の緒縛い堅めて、磐根木根履みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道間なく立つづけて、狭き国は広く、峻しき国は平らけく、遠き国は八十綱打ち掛けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉らば、云々」
  十九
 とあるのは、即ち至愛至慈の「タアマ」界の御神徳であらせらるるのである。この御神徳は専ら諾冊いろはの二尊より受けさせ給うたことは勿論である。『古事記』に曰く、
「此の時伊邪那岐命、大に歓喜まして、『吾は子を生み生みて生みの終わりに、三はしらの貴子を得たり』と詔りたまいて、即ち其の御頸珠の玉の緒、母由良に取りゆらかして、天照大御神に賜いて詔りたまわく、『汝が命は高天原を知らせ』と事依さし玉う。故、其の御頸珠の名を御倉板挙の神と謂う、云々」
 と。今茲に御倉板挙神と申すは、父神の御頸の珠の御名である。「タナ」は天文の義、又は暦数の義を指すのである。「タナハタ」は天体運行の機織の義である。「タナバタヒメ」てう女神之御名は、天文暦数を掌る女神の意義である。「ミクラ」とは三座の義である。「ミクラタナ」は即ち三座の天文暦数の義である。恒天暦、太陽暦、太陰暦の三大暦儀こそ、全くこれが「みくらたな神」である。広池千九郎氏が『伊勢神宮誌』を著述した中に、「みくらたな神」を「棚上奉祀の創め」として居るのは、彼の無学を証明して居るのである。現代の古典学者、神学者の無学なる事は、実に憐むべき程である。彼等は「伊勢神宮」を著述する資格のある者ではない。
  二十
 宇宙乾坤の間に存在して居る一切の天体は、「ミクラタナ」の玉の緒に一貫された、一聯の御頸珠である。天に輝く星宿は、皆悉く御くび珠の御緒に貫かるる顆々の美玉である。万有は一として此御緒に貫かれないものはない。此御緒を脱しては、其存在を保つことは出来得ないのである。無量の美玉は脈々綿々として一聯の条索に貫かれて、連鎖の美麗なる大頸飾を為して居るのである。この大頸飾が、いかに四維上下八紘に広がって居るかを想像し玉え。而して其大聯珠が、いかに美麗なる荘厳状態を呈するかを想像し玉え。尚お且つ其の聯珠緒の複雑無量なることに驚き、聯珠線の金剛力なる事に驚き、更に更に複雑無量の美玉が一聯の統理に総攬されて、撥々として活動して居る事に大に驚きの眼を見披き玉え。天上天下斯の如きの絶大絶美の現象があろうか。この一聯絶美の玉の御名は、天照大御神に伝わりまして、常に御頸に懸けさせ給う「五百津御須統珠」と申すが、これなのである。万有一聯の本義、万姓一元の根源を示させ給う五百津御須麻流の珠は、皇孫を地上統理の任に就かしめ給える時にも、必然に御授けありし大神宝であったのである。
 形態の上から謂えば玉の相である。発作の活動から謂えば「タカア」である、鏡である。其活動の内容に行わるるは真理である、「カアマ」である。「タカアマハラ」の統治は、この三大権に帰するのである。
 地球上面の人類を始め一切の万物は、大日本国天皇の神祖より賜う所の五百津御須麻流の珠の中に連鎖されて、先天的に統理されて居る次第である。天下何物か、皇孫統治の埓を逸することが出来得ようぞ。金剛力の御頸の珠の緒が一貫総攬して居る事に気のつかないものは、実に可憐なものである、無知なものである。或意味に於ては、不知恩のものである、罪悪の部類に入るべきものである。
  二十一
 万有万類は皆悉く五百津御須麻流の珠の緒の発動に基いて、発現して居ないものは無いのである。生命を「玉の緒」というは、生命魂線の脈絡を意味する語より出でたものである。『古事記』に、天照大御神と速須佐之男命との、「天之真名井の宇気比」と申すは、万有、万類、万神の御出生を営み玉う大神事である。
「奴那登母母由良に、天の真名井に振り滌ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成る神、云々」
 とある。「奴那登母母由良」は「玉音隆朗」の義である。玉音隆朗の響に由って、万神万有は発生するのである。古典の精しい説明を省略して、兎も角も、万有の統攬が「五百津御須麻流」に在る事は、何人も否定することは出来得なかろう。基督教でもこの意味の事は謂わんでない。仏教でもこの意味の事は謂わんでない。けれども其の天国統治の神律が、地上統治に移写されて、天上地上の一致の経綸を為す為めに、大日本国の皇位なるものがあるという一点に到ると、仏耶の二教は即ち共明を失って、空論を固着する為めに、此の真実を受け容るるの資格を失って了うのである。実に致方のない次第である。
  二十二
 祭(マツリ)(マツル)という語は、「真釣り」「真釣る」の義である。「真釣る」とは、度衡の両端か、あいに重量を懸けて平衡さする意義である。天上の儀と地上の儀とを相一致せしむるの作法が「マツル」(祭祀)である、「マツリゴト」(政道)である。祭祀政道の大義は、これ以外に決してあるべきでは無い。『古語拾遺』に曰く、
「宜しく太玉命、諸部神を率いて其職を供奉し、天上の儀の如くすべし、云々」
 とあり。天上の儀を地上に「真釣る」のが祭祀である、政道である。現代は祭祀も政道も全くその根本を失って、一片の形式に流れ、権謀を以て政道の本義とさえ思うように至ったことは、何たる大なる誤であろう。「願を冠と為した」というも同様である。故に、世界は日に険悪に赴いて、人類の苦痛は益々甚だしきを加え行く有様である。これは偏に祭祀政道が根本を失って、天上の儀が地上に殆ど跡を絶つに至ったより起った現象である。斯様な根本主義に着目せずして、世界平和だとか、政治の革新、社会改良といった所で何等の效果あるべきぞ。全く以て徒労に畢るべきは、火を睹るよりも明らかである。惟神(カミナガラ)の道というのは、天上地上の祭祀政道の、正しく行わるる有様をいうのである。神の示させ給うまにまに行い往くのが、惟神の道である。惟神の道は祭祀政道の根本義である。現代の如き形式的祭祀、権謀術数的政道は、決して惟神の道でない。天下は、尚お愈々益々乱れ往きて、殆ど底止する所を知らないまでにも成り行く斗りである。
  二十三
 大本教の唱道は、之を一日も忽にすべからざる場合に立ち到ったのである。溺る者は草の葉にも縋るとかや。况や主師親の三大力徳を具備する所の実に帰らしむるに於ておや。
「五百津御須麻流之珠」は、万有を一貫して之を愛護撫育し給う神宝なる事は、前章説く所の如である。天照大御神の御頸珠の御緒に貫れないものは無いのである。この御珠の尊厳なることを縷述すれば、悠に大部の著述を為すに足る程である。天地は「五百津御須麻流」の玉音隆朗たる大音楽である。大御神楽界である。仏教に一念三千の如意宝珠」というのがある。「一念三千」とは『摩訶止観』第五に云う、
「夫一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば、百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此三千、一念の心にあり。若心なくんば已みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す。乃至、所以に称して不可思議境となす。意此にあり。」等と云々、とあるのは、「五百津御須麻流」の御境界を伝えたものである。之を具体的に現わしたものが、本尊万陀羅である。
 日蓮の大万陀羅を解くや、
「其本尊の為体、本師の裟婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏、多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。文殊、弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化、他方の大小の諸の菩薩は、万民の大地に処して、雲閣月卿を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処す。迹仏、迹土を表わすが故也。云々」と。
「妙法蓮華経」は、梵語に「サダルマ、フンダリキヤ、ソタラン」という。これは「タカアマハラのコトバ」という語の転訛である。釈迦、多宝の二仏併座は、我が高天原の、
神漏岐命(神漏岐系)神漏美命(神漏美系)
を伝えたものであって、「宝塔品」の三変土田とは、大八洲の国産みの本義を伝えたものである、神漏岐系は精神系統であって、神漏美系は物質系統である。岐は霊の義、美は身の義である。
 真言宗には金剛界、胎蔵界の二大万陀羅を建てるのだが、これ亦神漏岐、神漏美二系の系譜であり、御神慮を伝えたものである。弘法大師の唱導した本地垂迹の説は、主客本末を誤ったものであって、空海の無知は去ることながら、和光同塵の然らしむる所として、大日本国教は宥容するのである。
  二十四
 真言宗の「曷磨義」は、当に「カアマ」の義である。曷磨金剛杵は草薙剣の本義を訛伝したものである。真言の種の杵は、大日本神典に示す所の矛である、剣である。真言宗は大日本国の高天原から出でた教義の末である。大乗非仏説は学者の論議の八釜しい問題であるが、非仏説の勝利に帰すべきであろう。好しや仏説なりと見た所で、その「仏」の解釈が印度出来の釈迦牟尼という意義にはなるまい。木村鷹太郎氏の『日本太古史』は、釈迦牟尼を忍穂耳尊を伝えますと考証して居るが、『法華経』の釈迦牟尼の如きは、虚空会上に於ける神変不可思議の説相である。こは明に大八洲の伝説法を伝えたもので、高天原教の説示である。『法華経』も『大日経』も、皆悉く其の本源は高天原教に出でたことは明白である。其の証拠には、何れの経を見ても、或は「タカア」の義を説くに非らざれば「タアマ」の義を説くもの、然らずば「カアマ」の義、「ハラ」の義を説く以外に、決して他に出ずること無きに見ても知らるるのである。「ハラ」は「フラ」、「フラクラワア」、「フア」、「クワ(華)」、「ケ」である。また「ハナ」である。因果一体、即疾頓生を説く波羅密である。「花」の王は十六菊である。印度に移して蓮華がある。蓮華は大日本の鏡の相である、玉の相である。「五百津御須麻流」の摂取不捨の金剛力は、『法華経』には蓮華の即身成仏である。阿弥陀の四十八願も、要するに「御統玉」の御神徳を伝えたに外ならぬ。本居翁の狂歌に、
 三尊の弥陀は二番叟じや三番叟じや 頼む衆生を外へはやらじ
というのがある。三番叟の舞は、「タータータラリ」の万有出世の義相を舞うのである。高天原の修理固成を本義とする岐美二神の行事を移した物である。十万億仏土に阿弥陀を求むるのは愚の至りである。真宗本願の義は、速に高天原の本来に立ち還りて、其領土領民とを、悉く大日本国教に奉還すべきである。真言、法華の教義は、頗る根本的であって、深遠であるけれども、其の伝統継承に事実的の立証がない。天上、地上の「真釣りしの義が、千古万古に伝えらるる事実の権威が無い。
 理は等しゆうすと雖ども、事は自から本末の差がある、正傍の厳格なる差別がある。
  二十五
神漏岐、神漏美の無始本来の当時より、一系綿々たる君臣、上下の差別がある。宇内の君権は、決して何者の野望をも決して許さないのである。高天原の教権は唯我一人の相承である。大日本皇帝以外に、何ものも教権の権威を保つべきものは無いのである。
 基督は神の子であるという事は、一切の衆生は悉く神の子であるという義であろう。基督一人のみ神の子であるという義ではなかろう。「今此三界皆我有、其中衆生悉皆吾子」という釈迦の言は、一切衆生が神に出でたることを謂うたものであろう。一切衆生は神より出で、一切衆生は神の子である。この義は仏耶両教の等しく認むる所である。神は一面に平等の愛である。同時にまた他面には差別の威力である。差別は本末を分かち、正邪を分ち、治者と被治者とを分ち、「カアマ」尊厳の信賞必罰である。「カアマ」尊厳の発動は、金剛の威力であって、何物も毫末微塵其威力を犯すことは出来ない。「カアマ」金剛座は血脈伝統の儀相である。万有、万姓、万類は悉く血脈の伝統を得て皆夫夫に発生し、生育し、活動するのである。微塵の末と雖も、伝統系脈のないものは無い。况や万物の霊長たる人間の上に於ておや。高天原は血脈伝統の大系統界である。複雑無限の発作発動も、一つとして伝統継述の意義を脱するものはない。之を平等観の上より見れば、一味平等の神事である。仏教や耶蘇の中には、悪平等観に陥る場合がある。平等は差別を俟て意義を有するのである。而して其の差別は血脈本来の根本から、天爾に発生する所の約束である、分限である、神約である。この神誓神約を犯すことが、根本の罪悪である。
  二十六
 基督は曰く、「我は神の独子である」と。仏教は曰く、「我に直示の伝統あり」と。其の謂う所は、高天原血脈の総攬者を以て任じ、其の継承の正系なることを以て誇るけれども、彼は純友である。此は将門である。彼等が正系嫡伝を立証するに、何等の具象的事実的の事柄を以て為す考えであろうか。十万億土に極楽の消息ありや。大日は素、法身にして、法華本門の本縁は、印度に非らずして却て日本国なり。基督の教義は未だ血脈承継に就いて些細の研鑚にだも至らず、万陀羅の所立なく、本尊の為体に於て茫漠たるのみ。哲学者は実在の発作に大系統あるを知らず。現象の錯誤を見て、根本の系脈を知らず。未だ以て本義を論ずるに足らぬものである。宇内伝統の事実的立証を示すに足らない教義は、皆悉く正嫡の名を保つことは出来ない。各宗各派の祖師等が、伝承継述の上に苦心を重ねたことは、決して門外漢の知る所ではないのである。理証は何程もこれを為すの術があろう。けれども事証は決して容易の業でない。系譜を捏造して、天下を横領せんとした古の英雄等の苦心は、何程であったろう。一時を幻惑して子孫に栄華を誇らしめ得たとても、それが決して永遠に継続するものでは無い。天運の神律に通じて乱れないのである。正は正に復し、邪は邪に亡ぶ。未だ嘗て天壌無窮に、其の邪を貫徹し往くものを見ることが出来ない。
  二十七
茲に「天壌無窮」に、「万世一系」に、天上地上の「真釣り」の本義を行わせ給うべき、天爾本然の血脈承継の国があるとしたならば、一切の万生は、皆悉く天来の大儀相の、目の当り拝せらるる心地して、大能の神力の偶然でない事を、深く深く讃嘆せなければならぬ次第ではないか。若や該の国が、本来の承継を伝えたりや否やを疑うならば、皇位の伝承に、「タカア」「タカマ」「カアマ」の伝ありや詮鑿せよ。而して其の承継伝統の事実が、国史の上に如何に発展し来れるかを更に調べよ。
 諸の宗教哲学が、若し理証に止って、事証の承継を「徒事なり」と謂わば、彼等は速に討伐すべきである。若し彼等が、「事証の伝統我に在り」と誇らば、「カアマ」の剣を以て之を質せ。血脈伝統の意義の無限の尊厳なること、而して従来の信教が伝統の正系に触れざる事を自覚するものは、速に其誤を許して、忠実なる国民の中に之を入れよ。
神霊界」 1918/05/01 国教樹立に就て(三)
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