文献名1霊界物語 第37巻 舎身活躍 子の巻
文献名2第1篇 安閑喜楽よみ(新仮名遣い)あんかんきらく
文献名3第1章 富士山〔1013〕よみ(新仮名遣い)ふじさん
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグヱルセルム(エルズルム)
データ凡例
データ最終更新日2022-10-15 15:37:13
あらすじわが富士山は古来数多の歌人によってその崇高雄大にして日本国土に冠絶し、日本一の名高山と称され、天神地祇・八百万の神の集まりたまう聖場となり、特に木花咲耶姫命の御神霊と崇敬されている。現在の富士山は、高千穂の峰がわずかに残っているだけである。十万年以前の富士山は昔天教山といった。そのころは西は現代の滋賀県・福井県まで、北は富山県・新潟県、東は栃木・茨城・千葉、南は神奈川・静岡・愛知・三重の諸県より、百四五十里もすそ野がひいていた。大地震のために南方が陥落し、今は太平洋の一部となっている。富士山のすそ野があった地域が高天原と称され、その土地に住んでいた神人が高天原人種または天孫民族ととなえられた。周囲ほとんど一千三百里の富士地帯は青木ケ原と総称し、世界最大の高地であった。五穀や果実に恵まれ、真に世界の楽土ととなえられて生存競争もなく、神の選民として天与の恩恵を楽しみつつあった。現代の富士山の頂上の高さあたりが、古代の富士山地帯の三合目あたりにあたっている。天孫民族は古代の富士山の四合目以上の地帯に安住していた。ほかの国々から見れば、雲を隔ててそのうえに住居していたのである。皇孫瓊瓊杵尊が葦原の中津国に天下りたまひき、という古言は、古代の富士山の富士地帯より低地の国々へ降ってこられたことをいうのである。現代のヒマラヤも古代の富士山の二分の一にも及ばなかった。仏者の須弥仙山も天教山をさしていた。現代の清水湾および遠州灘の一部は、富士山の八合目に展開してた大湖水であって、筑紫の湖と称えられていた。また同じ富士山地帯の信州諏訪の湖は、須佐の湖といった。筑紫の湖には金竜が数多棲息して大神に仕え、世界の気候が順調になるよう守護していたのである。そして素盞嗚尊の神霊がこれを保護し給い、富士地帯の二合目あたりに位置を占めていた。太古の大地震によって中心点ほど陥没し、周囲は比較的陥没の度が少なかった。現代の山城・丹波などは地球の傾斜の影響で少しく上昇したほどであった。丹波は元田場と書き、天照大御神が青人草が食べて活きるべき稲種を作り給うたところである。ゆえに、五穀を守る豊受姫神は丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に伊勢の国山田に御遷宮になられたのである。また小アジアのアーメニヤおよびコーカス山、エルサレム、メソポタミヤおよびペルシャ、インドの一部は、古代は富士山地帯のごとく雲上に突出していた。富士山の陥没とともにこれらの地も今の高度に陥落したのである。エルサレムは現今の位置ではなく、アーメニヤの南方に当たるエルセルムであった。現今のペルシャ湾が死海であった。この物語は古代の地理によって口述しているから、今日とは非常に位置や名称が変わっていることをあらかじめ承知してもらいたい。『舎身活躍』の最初に当たって富士山を述べたのは、瑞月が入道の最初、富士の天使松岡神に霊魂を導かれて太古の状況を見せてもらった因縁による。『舎身活躍』は瑞月が明治三十一年の五月、再び高熊山に神勅を奉じて二週間の修行を試み、霊眼に映じさせていただいたことや、過去・現在・未来、現・幽・神の三界を探検して神々の御活動を目撃した大略を口述する考えである。
主な人物
舞台
口述日1922(大正11)年10月08日(旧08月18日)
口述場所
筆録者松村真澄
校正日
校正場所
初版発行日1924(大正13)年3月3日
愛善世界社版9頁
八幡書店版第7輯 33頁
修補版
校定版9頁
普及版3頁
初版
ページ備考
OBC rm3701
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