文献名1三鏡
文献名2月鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3神と倶にある人よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1929(昭和4)年05月号
八幡書店版181頁
愛善世界社版
著作集105頁
第五版76頁
第三版76頁
全集501頁
初版56頁
OBC kg295
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本文の文字数1520
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本文
人間は神を信じ、神と倶にありさへすれば、池辺の杜若や、山林の青葉が、自然に包まれて居る如く、長閑にして安全なものである。然し世の中は、変化があるので、人生は面白い。彼の美しい海棠の花だけを避けて、吹き捲る暴風雨はない。如何なる苦痛の深淵に沈むとも、心に正しき信仰さへあれば、即ち根本に信を置いて、惟神の定めに任せてさへ行けば、そこに変りの無い彩色があり音響がある。人生は如何なる難事に逢ふも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も総てが花を撲つ風雨と思へば良い。富貴も、栄達も、貧窮も、総てがゆつたりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である。何程焦慮つても、一日に人間の足では、百里は歩るけぬものだ。学問や黄金の力でも、如何に偉大な政治家や大軍人の力でも、昨日を今日にする事は出来ぬ。又今日を明日にする事も出来ぬ。唯一秒の時間でも、自由に動かす事は出来ぬ。一滴の露、眼に見えぬ程の小さい生物でも、それを黄金の力では造れない、学問の力でも駄目である。斯う考へて見ると、人間程小さい力の貧弱なものは無い。然し人間は一滴の露さへ自力で作る事は能きぬが、神を忘れ神に反いた時には、憂愁と苦悩とを以て、広い天地を覆ひ盡す様になる、その胸が幾個あつても、そのもの思ひを容れる事が出来ないやうになつて来る。吁、人間は一滴の露、一塊の土さへ作る能力もなき癖に、天地に充満して、身の置き処の無いほど、大きい苦労を作る事が出来る。人間は苦労を作るために、決して生れたのではない。人間は神の生宮神の御子、天地経綸の使用者として、神の御用の為に世に生れて来たものである。惟神の心になつて何も彼も悉く、天地の神に打ち任せさへすれば、自然天地の恵みが惟神的にして、自然の儘に行き渡るものである。然るに神に在らざる人間の根蔕は、兎もすれば揺らつき、動き出し自然の規定を、我から破つて、神を背にした道を踏むために、遂に神の恵みに離るるに至るのである。若し人間に、樹草の如く確固たる根があつて、総てを天地に委して優和しい大自然の懐に抱かれる余裕さへあれば、何時の世も、至幸至福で長閑で、悠々たる光陰を楽しく送る事が出来る様になつて居る世界である。牡丹も、杜若も、又は清い翠を見せる樹々も、大風に揉まれ、大雨に撲たれて、手足を挫かれる程の憂目は見る事はあつても、其根蔕に、些の揺ぎも見せぬ。此所は苦しいから、他の土地へ移らうとは考へない。大風は何処へいつても吹き、大雨は何処へ行つても降る。美しい太陽は、何国の涯にも輝く。今日の暴風雨を、凌ぐだけの勇気さへ持てば、明日の、長閑かな歓楽に会ふ事が出来ると覚悟して、天地に絶大の信を置く、その為に些しも動揺が無い。土地を替へても、処を変へても、会ふだけの苦難には会ひ、享けるだけの歓楽は享ける。麻縄で縛られて、身の自由を得ようと煩悶へるのは、応て自ら苦痛の淵に沈むものである。人間は一切を惟神に任せて居れば、実に世界は安養浄土であり天国である。
爛漫たる花の香に酔ふ春の光も、次第に薄らぎ、青葉の茂る夏となり、木葉の散り敷く秋の淋しさを迎へ、雪の降る冬となつて、万木万草枯死の状態になるは、天地惟神の大道である。香りの好い釵の花を嬉しう翳した天窓の上に、時雨が降り、愛の記念の指環を穿した白魚の手に落葉がする世の中だ。花の山が青葉の峰と忽ち代り、青葉の峰は木枯の谷となる。辛い経験は、人生にとつて免れ難き所である。然し乍ら、人間は決して斯んな悲惨なものではなく、永遠の生命と永遠の安楽とを与へられて世に生れ、大なる神業を以て、神の御用の為に出て来たものである事を覚らねばならぬ。それは只神を知る事に依つてのみ得らるる人生の特権である。