文献名1霊界物語 第39巻 舎身活躍 寅の巻
文献名2前付よみ(新仮名遣い)
文献名3総説よみ(新仮名遣い)そうせつ
著者出口王仁三郎
概要
備考
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データ凡例
データ最終更新日----
あらすじ神素盞嗚尊が八岐大蛇を言向け和し、肥の川上において手撫槌、足撫槌の娘・稲田姫命の危難を救い給うた神代の物語を続行するにあたり、コーカス山を中心として、まず五天竺の活動から後述することにしました。山には古来、善神も鎮まっていたが、邪神もまた盛んに潜伏していた。太古の八王八頭は山を根拠として地方地方を鎮め守っていた。これは山岳の邪神の本拠に対して、居所を定めていたのである。出雲は伯耆の大山を指すので、これは神素盞嗚尊が自ら登山して邪神を滅亡させ、村雲の宝剣を天照大神に奉って忠誠の大精神を発揮した物語である。素盞嗚とはスバルタンの意である。スは進展、バルは拡張、また神権発動という意味であり、タンは尊、また頭領の意味である。天照大御神はアテーナの女神、またアポーロの女神ということになる。葦原はアジアの意味であり、アッシリアとなりアジアになったのである。太古のアジアは現今の小アジアであったが、時世の変遷とともに広大なアジアとなったのである。五天竺は周囲九万余里、三方を大海、北は雪山を背にして北は広く南は狭く、形は半月のようになっている。その地は七千余国に区分され、暑熱は激しく地は泉湿多い。天竺の名称はたくさんあり、現在は正音により印度と言っている。神代には月と唱えられていたことは、第一巻に示すとおりである。印度の人民には四種の差別がある。第一の刹帝利は代々王となる家柄である。第二の婆羅門は学問を家業とする。第三の毘舎は商人である。第四の首陀は農業を営む。第一巻には、婆羅門には三階級あることを述べたが、それは太古の神代のことである。今から三千年前の印度の人民は、このように四階級に分かれていたのである。
主な人物
舞台
口述日1922(大正11)年10月21日(旧09月2日)
口述場所
筆録者北村隆光
校正日
校正場所
初版発行日1924(大正13)年5月5日
愛善世界社版3頁
八幡書店版第7輯 279頁
修補版
校定版3頁
普及版1頁
初版
ページ備考
OBC rm390002
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本文
神素盞嗚尊が八岐大蛇を言向け和し、遂に肥の川上に於て、手撫槌、足撫槌の娘稲田姫命の危難を救ひたまひし神代の物語を続行するに就て、高加索山を中心として先づ五天竺の活動より口述する事と致しました。
オロチと言ふ意義は山の事である。凡て風雲は山より発生するものにして、オロチは颪である。山には古来善神も鎮まり玉ひ、又邪神も盛んに潜伏して居た。故に太古の所謂八王八頭は山を根拠として其地方々々を鎮め守られて居たのも、要するに山岳に邪神棲息して天下を攪乱せしを以て、邪神の本拠に向つて居所を定められたのである。又肥の川上といふ言義は日の側陽陰といふことで、朝日の直刺す夕日の日照らす、山の意義であつて、出雲とは雲の発生する高山の意義で今日の伯耆の大山を指したものである。最後に神素盞嗚尊が自ら登山して邪神を滅亡せしめたまひて大蛇より村雲の宝剣を奪ひ、之を天照大神に献り赤誠忠良の大精神を発揮し玉ひし物語であります。素盞嗚とはスバルタンの意であつて、スは進展、バルは拡張とか神権発動とかの意であり、タンは尊とか君とか頭領とかの意味である。又天照大御神は、アテーナの女神又はアポーロの女神と謂ふことになる。アポーロは天原の意味にもなり、葦原は亜細亜の意味であり、葦原はアツシリヤとなりアジアとなつたのである。太古の亜細亜は現今の小亜細亜であつたが時世の変遷と共に、広大なる亜細亜となつたのである。
却説五天竺は境周九万余里、三垂は大海、北は雪山を背にし北広く南狭く、形半月の如く野を劃して区分すること七千余国、四時殊に暑熱激しく地は泉湿多く、北は乃ち山阜軫を隠し丘陵斥鹵なり。東は即ち川野沃潤にして田園山壟膏腴なり。南方は草木繁茂し西方は土地磽确なりと伝へられて居る。
之に依つて天竺の大概の様子は窺知されることと思ふ。
天竺の名称は随分沢山あつて異議糾紛し、容易に一定せなかつた。太古は身毒と云ひ或は賢豆と曰ひ現代にては正音に従つて印度と云つて居る。印度国は地に随つて国と称へ殊に方俗を異にし遥に総名を挙げて其の最も美なりとする名を呼んで之を印度と謂ふのである。印度を唐にては月と謂つた。神代の名称も亦月と称へられたのは第一巻に示す通りである。月に多数の名号ありて印度と称するは其の一称である。阿毘曇心論の音義にも、
天竺を或は身毒と云ひ、或は賢豆と言ふは皆訛なり。正しくは印度と言ふ。印度は月と曰ふ。月に千名有り。斯れ一称なり。一説に曰ふ、賢豆の本名は因陀羅婆陀那此を主処と曰ふなり。天帝護る所なるを以ての故に之を号する耳云々。
又印度の人民には四種の差別がある。まづ、
第一を刹帝利と云ふ。是は代々王となるべき家柄で即ち五天竺七千余国の国々の王となつて居るのである。
第二を婆羅門といふ。是を翻訳すれば浄行と云ふことで即ち浄き行と書く詞で、国柄相当に有り来つた学問をして代々家を伝へるものである。
第三を毘舎といふ、これは商人である。
第四を首陀と云ふ。是は農業を営むもので所謂百姓である。霊界物語第一巻に婆羅門には三階級ある事を口述しておきましたが、それは太古の神代の事であり、印度四姓の第二位のバラモンの部族内に出来た階級である。釈迦の出現した時代にも、地方に由つて行はれて居たのである。
以上言つたのは、総括して印度全体の制度を説いたので、今より三千年以前には印度の人民は前述の如く、刹帝利、婆羅門、毘舎、首陀の四階級と成つて居たのであります。一寸茲に混線せない様に重ねて述べておきました。
大正十一年十月二十日 王仁識