文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第2章 >1 昭和一〇年一二月八日よみ(新仮名遣い)
文献名3出口聖師と幹部らの検挙よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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松江の島根別院へも同時に急襲がなされた。八日午前二時、松江署所轄の全警官と、大社・安来両署の警官総勢およそ二八〇人が、非常召集された。そのうち八五人の警官隊は、警察部長官舎前で「これから大本教襲撃のため行動を開始する。本部(大本)では相生流という特殊武道で訓練を積んで居る。それに剣、銃、爆弾等の装備も相当充実して居る模様である。如何なる事態に発展するか知らぬが、諸君の生命は只今頂戴する。各自充分覚悟して貰ひ度い」との訓示をうけ、水盃が交わされたという。先陣として柔道・剣道二段以上の猛者一五人がえらばれて決死隊となり、決死隊をふくむ第一中隊長には坂根松江署長、その他の第二中隊長には吉川警務課長を命じた。いよいよ午前四時、工藤島根県特高課長指揮のもとに別院は包囲された。物々しくロープがはりめぐらされ、これにそって約五メートルに警官が立ち、まったく人の出入をゆるさぬ非常警戒のなかで、三六亭に就寝中の出口聖師を検挙した。聖師は衣服をあらため、二代教主出口すみ子が火をつけてさし出した煙草をすったのち、「急に用事ができて京都に帰ったと信者に伝へてくれ、信者に心配をさせるな」(「大阪毎日新聞」昭和10・12・8)とすみ子に伝言された。聖師は自動車で松江署に送られ、小憩ののち、午前五時すぎ揖屋駅(松江駅より東へ二つ目の駅、八束郡東出雲町)発の二等車で、内務省の永野事務官と数人の警官に護送されて、午後一時二五分京都二条駅についた。信者の三雲暉江・南部文子が聞きつたえてひそかに出迎えたが言葉をかわすこともできなかった。聖師は中立売署の新築された独房に留置された。
王仁三郎(以下保釈出所まで戸籍名による)を護送したあと警官隊は島根別院ほか五ヵ所を捜索し、一四三点の証拠品を押収した。そのため島根別院の五周年大祭は中止されるかにみえたが、一五〇〇人をこえる参拝者があり、警察監視のもと、二代教主すみ子を中心に午前一〇時より大祭、午後一時より歌祭り、夜七時より神聖歌劇をとどこおりなくおこなった。その情景を地元の「松陽新報」(昭和10・12・10)はつぎのように報道している。「万一を慮った松江署では、正・私服警官が別院内外に亘り水も漏らさぬ警備陣を張った。この物々しい警備陣に何物かを感じた信徒は、教主の身辺に何か危機でもあったのではないかとの声が拡まった。そして間もなく之を号外等によって知った信徒は愕然としたが……信仰の力は確かに強いものである。動揺騒動でも起しはしないかと一時は憂慮せられたが頗る平穏そのもの……信徒に言はせると『……之によって心境の変化を来すなど以ての外である。信仰といふものはその道に入つてこそ始めて分るといふもの、かへつて今度のことによつてますます大本教本来の道に向つて結束し邁進する』と、如何にその団結力の大いなることが窺はれる」。しかし、そのときの信者の心境については、八雲琴に奉仕した田中沢二(緒琴)が「あのときの気持ぐらい悲痛なものはなかった。私は事件後五、六年は琴を手にすることができなかった」と述懐しているのにもうかがうことができる。
検挙のあった直後、別院にすみ子を訪問した新聞記者は、「さすがは二代教主だけあつて、之によつて顔色も変えず堂々たる貫録を示してゐた」(「松陽新報」昭和10・12・9)と伝えている。すみ子は歌祭りをおえてその夕方松江を出発し、九日未明、綾部駅につくと、「大阪朝日新聞」の記者が待ちうけていた。そのときの会見で記者につぎのように語られている。「何んにも悪いことしてゐやへんので、ちつとも怖いことは御座ゐません。手向ふものもなければ、その必要もないといふもんです。死刑にするぞといはれても、ちつとも怖いとは思ひません。松江でも魂消るやうな大手入れがあつたにもかかはらず、千五百人からの信者はビクともせずに大祭を滞りなくすませ、あとの歌まつりまで順調にやってきました。誰ひとり騒がず水を打つたやうな静けさには、感謝の涙が出るほどでした。聖師さんも平気の平左で、何ごともないやうに松江を発つて送られてゆきました」(「大阪朝日新聞」昭和10・12・10)。
すみ子はそのまま直日とともに桜井同吉宅に禁足を命じられ、一九日には上野の月光閣に移された。ここには六人ばかりの監視がつけられた。
島根では、王仁三郎のほかは八日に大深浩三(大国以都雄)・森慶三郎(良仁)の二人が検挙され、翌九日に京都へ護送された。それにしても、大本弾圧にたいする当局の意気ごみと、松江における王仁三郎の検挙をいかに重大視していたかは、唐沢警保局長が工藤特高課長にあてて、大検挙直後の一二月一〇日に送ったつぎの書簡でも推測することができる。「悪逆空前の大本に対する大検挙に当り 貴台特高課長としての初陣として御参加御協力ありたるは さぞかし御本望のことなりしならんと 貴台の為にはるかに慶祝申上居り候 此の悪虐を撃たずんば天下何ものか之にまさる悪あらむ 国権の威を示すは此の時と存じ 決心いたし居候」。
一方東京では、東京地検の戸沢検事ら五検事と予審判事が約八〇人の警官を動員し、警視庁特高課千速係長指褌のもと、午前四時半、四谷区愛住町の昭和神聖会総本部や、杉並区方南町の紫雲郷別院など六ヵ所を急襲して、出口伊佐男(宇知麿)・土井靖都(大靖)・御田村龍古・広瀬義邦・木村貞次(瑞枝)・米倉嘉兵衛・深町孝之亮(霊陽)・高川宅次ら八人の幹部を検挙した。そして翌九日京都へ護送した。ここでも昭和神聖会総本部・紫雲郷別院など六ヵ所の家宅捜索をおこなった。この時の状況について伊佐男はつぎのように書いている。「にわかに騒がしき物音で目ざめると同時に、階上(昭和神聖会総本部)のわが寝室に検事や警察官数人か入り込んできた。早速家宅捜索が始まり、午前七時ごろ四谷警察署に連行され、留置場に入れられた。そこは六畳じきぐらいの広さで、十人以上も入れられている雑房である。したがって横になって休むだけの場所もなく、坐したまま一夜を過した。翌九日正午ごろ留置場から出され、警官に囲まれて自動車で東京駅に出れば、すでにそこには当時東京在住の幹部数人が、同じく警官に送られてきており、新聞記者や写真班がつめかけている。……私の座席の前には人類愛善新聞の江口記者がそ知らぬ様子で一般乗客をよそおい着席し、大本事件をデカデカと大きくあつかっている新聞を高くひろげているので、遠目に新聞の大見出しほどは見ることが出来る。ここで初めて聖師も松江で検挙を受けられたこと、大本に対する徹底的弾圧のこことなど知ることができた。それにしても何故にかくも大がかりの検挙をしたものか、その事件の内容については見当がつかなかった」
こうして第一次の検挙・捜索は一段落をみた。京都市内の中立売・五条・堀川・西陣・川端・七条・松原・下鴨の八警察署に各地から護送留置された幹部や信者は、翌九日までに四四人にのぼり、強制捜索をうけた場所は一〇九ヵ所に達した。
昭和一一年末までの検挙総数九八七人(内務省警保局『昭和11年中ニ於ケル社会運動ノ状況』)とあるところからすれば、その後も引きつづいて、一時的検束をうけたり取調べをうけたりした者は、全国で三〇〇〇人をこすものと考えられる。
この大がかりな当局の弾圧は、昭和一一年一二月の京都府議会でも問題となった。薄田警察部長は江羅議長によって、「検挙に三万余円の金を費消したのが実に不審に堪へぬ。大本教信者は警察より召喚状を発すれば素直に出頭する者許りである。警察の治安係が一名だつて信者の為に暴力を加へられた例があるか。然るに何ぞや、鉄兜に身を固めた警官隊が隊伍を整へ、物々しい扮装で大挙押し寄せるとはまさに狂気の沙汰である。民衆から見れば警察は気が狂つたかとしか受けとれない。相手は無抵抗である。如何に考へても庁費の濫費としか考へられない。かくの如き警察の狂態を我々は嘗つて見たことがない」(「中外日報」昭和11・12・12)と追及されたほどである。
その検挙や捜索ぶりをみても、第二次大本事件がまれにみる弾圧であり、いかに狂気にみちたものであったかがあきらかである。
しかし弾圧はこれでおわったわけではない。この段階においてはまだ受難の第一頁がひらかれたにすぎない。
〔写真〕
○8日未明警官約300人が島根別院を包囲し出口聖師を検挙した ①三六亭②対岳亭④歌碑④松風荘④開明殿⑤安生館 p389
○聖師は二条駅から中立売署へおくられた ひとめみようとおしよせた群衆 p390
○異様な静寂と緊張…厳戒裡に大祭 歌祭 神聖歌劇がおこなわれた 中央は二代教主 松江 p391
○8日早暁 東京では幹部8人が検挙され京都へおくられた 左から出口伊佐男 刑事 広瀬義邦 東京駅 p393