文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第3章 >2 第一審の公判(京都地方裁判所)よみ(新仮名遣い)
文献名3弁護人の弁論よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-06-13 21:31:47
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論告についで、一九三九(昭和一四)年一 一月一〇日(第八二回)の公判から、一二月二〇日(第一〇四回)の公判までの二三回にわたって、弁護人たちの弁論がおこなわれた。
まず弁論の方針としては、五月二六日の公判で証人申請のさい、清瀬一郎弁護人が全弁護人を代表して述べた主旨にもとづき、その論点をつぎの七つにしぼることになった。
第一は適用法である。昭和三年三月三日のみろく大祭をもし結社とみれば、これに適用さるべき法律は大正一四年の法律である。予審判事は治安維持法を適用すべしというが、現行の治安維持法は昭和三年六月二九日に改正されたものである。起訴の根底に非常な間違いがありはしないか。
第二は教義の問題で、大本の教義は国体変革を目的とするものではない。なお、昭和三年三月三日以前も以後も教義は一貫しており、異なるものではない。
第三はみろく大祭─この大祭は宗教行事であって、大本を公認宗教として内外に発表する機会でもあった。
第四は検挙の由来─海軍中将浅野正恭が「大本教の叛逆思想」を書き、斎藤実や岡田啓介を動かした。調査を命じられた警保局では「大本を検挙する理由」(『大本事件の真相』)という種本をつくった。警察官はこれにあてはまるよう供述をしいた。ここまでつきとめることによって事件の真相が判明する。
第五は一厘組(弁論の便宜のための仮称)の存在─「一厘組」ともいわれる一部の者の信仰は、大本の中心思想ではない。
第六は不法の圧迫─警察より予審にいたる供述は、不法の圧迫にもとづいたものがおおい。人権蹂躪の事実がある。それが本件のように顕著重大なものは他にすくない。
第七は各人特殊の事情があるということである。
これを要約すれば本来、大本事件は当局の誤解に端を発した政治的弾圧である。元来大本は純然たる宗教であって治安維持法に規定されるいわゆる「国体変革」の思想はなく、したがって秘密結社組織の事実はない。信者の一部に変わった思想をもったものがわずかながらあるのを、全般に押しつけたことはまったく誤謬である。ゆえに治安維持法の適用も不敬罪の適用も根本的にあやまっている。以上のことを立証し、弁論することにしたのである。また「神といって、政治上の元首の上にもう一つ上のものをみとめるのはどの宗教でも共通のこと」であり、「霊界のことを現実界のことと混同」すべきでない旨を強調した(「清瀬談話」)。
なお弁護人の分担としては、小山(昇)・三木・富沢・高橋・根上・小山(美)・竹山の信者弁護人は「大本の教義」の解明に主力をそそぎ、その他の弁護人は大本の結社組織問題を中心に、不法の取調べや弾圧の事実をあげて弁論することにした。なお王仁三郎はじめ出口家の者については弁護人全員が担当し、その他の被告人については各弁護人がそれぞれ弁論を分担した。しかし、事件の当初から終始一貫して被告人たちを鞭撻激励し、公判準備のために奔走していた田代弁護士は、ついに病をえて死亡し、公判廷における弁論に立つことができなかった。
弁論の第一日(一一月一〇日)および第二日(一一月一一日)は小山昇弁護人が立ち、大本信者の立場から大本教義を説いて、「大本は忠君愛国の団体」であると主張した。ついで三木善建は、予審終結決定のいわゆる教義要旨と大本文献全般を通観したうえの大本教義が、根本的にくいちがう点を指摘して、三日間にわたる論述をおこなった。富沢効は神がかりの実在を説き、さらに大本における不敬被疑事実を否定した。高橋喜又は大本の祭神について詳述し、もと裁判長としての体験のうえから弁論した。小山美登四は皇道大本は宗教であることを主張し、竹山三朗は筆先や霊界物語は神示であることを論述した。
清瀬一郎は一一月二四日・二五日の両日にわたり、本件の全般について述べ、誤解の原因をあきらかにし、結社に関する法律問題につき弁論をした。そして大本検挙は当局の誤認による暴挙であると力説し、全員の無罪を主張した。
つづいて林逸郎は前後七日間におよんで、法律論から説きおこし、神代史・神道・仏教を概観して、皇道論のうえから大本の主張や運動の正当性を論じ、さらに革新運動と大本の関係についてのべた。なお予審の不法な取調べ、偽証の告発問題にまでおよび、大本に国体変革を目的とする結社のないことを力説した。一弁護士の連続七日間にわたる弁論は、裁判史上斯記録であろうと「京都日日新聞」(昭和14・12・2)は報じている。
高山義三はキリスト教徒の立場から、宗教は形而上の問題であるのに形而下のものとしてあつかい、その点で本件はあやまりをおかしていると主張し、足立進三郎・川崎斎一郎・今井嘉幸・前田亀千代・赤塚源二郎・竹川兼栄・鍋島徳太郎らも、それぞれの立場から弁論した。
根上信は主として静岡県の五被告人を担当し、中野与之助にたいする証拠の一つとされている「十二段返しの歌」には、「いまのてんしにせものなり」という文字がかくされているが、これは石田卓次の証言のように安藤唯夫の作であることを、事例をあげて主張した。また静岡の信者が第二次大本事件の直前に、王仁三郎に出した文書のなかの「登極の日近し」は、言霊学に「地気登極」とある言葉を引用したものであって、被告人として不敬の意味ではなかったと弁論した。なお名和剛は高木鉄男について、また太田黒・岩田・毛利・納富の四弁護人は山県猛彦について、それぞれその無罪を主張した。
各弁護人は未曽有の大事件として、時局の制約をうけながら、その枠内で可能な弁論に全力をつくし、連日にわたる大弁論をおわった。被告人たちは、警察や予審での取調べとちがって、公判で信仰にもとづく自由な陳述ができたことと、被告に有利な弁論が展開されたこと、さらに王仁三郎や二代すみたちと法廷で同席し、顔をあわせることのできたよろこびから、法廷にはあかるいふんいきがただよっていた。そしていまはただ判決を待つばかりとなった。この年の一二月二八日、高木・井上は保釈となったので、未決勾留をひきつづき強制されたのは、王仁三郎・すみ・伊佐男の三人となった。
〔写真〕
○苦難のなかで光をはなつその笑顔は信者に不屈の信念をあたえた 出廷する二代教主 p531