文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第2章 >1 出口聖師夫妻の巡教よみ(新仮名遣い)
文献名3紀州路の旅よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ752
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聖師夫妻は出口委員長・森慶三郎・松浦くに子の随行で、昭和二一年七月一六日早朝、中矢田農園を出発して紀州路の巡教の旅にのぼった。自動車で大阪にゆき、尻無川の川崎橋南詰から、新造したばかりの山見所有の捕鯨船大黒丸(四一トン)に乗船し、多数の信徒に見送られて午前六時半に出帆した。戦時中に船という船はすべて徴用されたあとだけに、船の用意には大谷平一郎(瑞淵)によって非常な苦心がはらわれたのである。この日は快晴であったが、紀淡海峡をてて、日ノ岬をすぎるころより波はしだいにたかくなった。大潮ノ岬をめぐる海岸の眺望はことによく、聖師は興のつきぬ面もちであった。海路つつがなく、夕刻勝浦に到着した。
一七日の朝に勝浦を出発し、自動車で新宮市三輪崎についた。数十人の信徒たちに出迎えられた夫妻はかごで山路をのぼり、三高農園の大谷平一郎が準備した山荘に入った。聖師は色紙に染筆し、委員長は林間テントで約五〇人の信徒に講話をした。翌日は各新聞の記者が来訪した。染筆は毎日つづき、一九日には聖師は、三高農園の一帯を快山峡、この山荘を梅松館と命名した。信徒約八〇人が委員長の愛善講話をきいたのち、聖師夫妻に面会した。二〇日にも約一二〇人が受講したのち聖師夫妻に面会している。テントを張った高台は、聖師によって大観望と命名された。
二一日、聖師は二枚屏風二双に綾部および鉢伏山の風景を揮毫した。同日夜は新宮で、大阪朝日・大阪毎日・大阪時事・新紀州新聞・和歌山新聞・熊野タイムスなどの新聞記者団有志の主催により委員長をかこむ座談会が開催され、市長・市会議員・警察署長・国民学校長・青年会長をはじめ有志約三〇人が参加した。二二日、夜には三重県木本の栃尾九兵衛宅で委員長をかこむ座談会がもよおされ、地方事務所長・警察署長・各学校長ら二〇余人の参加があった。このあいだ委員長は、聖師夫妻の代理として、二一日に熊野速玉神社、二二日に熊野本宮神社、二三日には那智神社に参拝した。
聖師は二四日には、市会議員・各駅長ら有志約二〇人に面会し、午後四時よりおこなわれた紀州地方信徒物故者の慰霊祭に参列した。二五日、聖師夫妻は早朝に快山峡を出発し、海南駅に下車、中野上村の山本恒次郎宅についた。聖師はここでも揮毫をなし、委員長は夜ふけまで参会者と座談した。二六日朝、聖師に高血圧の症状がみえたが、山本宅を出発し、大阪の難波で下車して、重栖宅に入った。信徒たちに面会したのち、自動車で午後七時すぎ亀岡に帰着した。
聖師は七月一五日、紀州へ出発の前日、高血圧のため休養していたので、出発はむりであろうと夫人はじめ側近の者が旅行の延期をすすめたが、「紀州に行かねば、ご用のすまぬことがある」といって、予定どおり出発されたものであった。聖師の紀州巡教にはつぎのようないきさつがある。
一九三五(昭和一〇)年一二月八日の第二次大本事件の突発した翌朝のことである。大谷瑞淵は聖師を紀州熊野へむかえた夢をみた。「ふしぎなことだ、神示であろうか」と考えてその準備をすることを決意し、ひそかに快山峡を手にいれた。そして調度品を大阪で買いあつめ、舟で勝浦にはこび、宇久井村に借家をして、そっとかくしておいた。このことが、未決勾留中の聖師によって感知されていたという。一九三八(昭和一三)年には、貞四郎と新衛が保釈出所し、未決の聖師に面会にいったとき、聖師から「お前たち、紀州に行って来い。わしは霊でいつも行っている」ときかされ、両人は官憲の目をしのんで大谷宅をおとずれたのであった。またすみ子夫人によって、「公判廷に出る前に、熊野の神さまの夢を見ると、いつも事件が有利にすすんだ」と語られてもいたが、紀州の巡教には熊野三社へのお礼まいりの意味がこめられていたと推察される。聖師夫妻はこの快山峡滞在中に出口委員長にたいし大本の過去や将来について語り、夫妻はこれを記念して、かねて出口日出麿・直日夫妻によって染筆され大谷宅におくられていた屏風にさらに染筆して、記念撮影がなされている。
事件解決後、ただちに出雲と紀州に旅がなされたことには、霊的意義がこめられていたと考えられる。しかし聖師にとっては、その生涯におけるこれが最後の巡教となった。
〔写真〕
○信徒物故者慰霊祭が地方でもつぎつぎにとりおこなわれていった 紀州地方信徒物故者慰霊祭 p753
○紀州路の旅は聖師の生涯で最後の巡教となった 快山峡 梅松館 p754