文献名1大本七十年史 下巻
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文献名33 人間 出口王仁三郎よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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瑞霊真如聖師に神がかりをみた神の因縁や神格、その使命については、大本教団のうけとめる大本神諭、裏の神諭および『霊界物語』等によって、つまびらかにされている。したがってここでは、主として人間出口王仁三郎としての人柄が、どうみられていたかを記述することにしよう。
大本開祖の人柄(二編二章)については、信徒・未信徒をとわず、開祖に接した人はいちように、神々しい清純さとうつくしい心の大柄にうたれたとかたっていたが、出口王仁三郎にたいしては、じつに千差万別な各人各様の見かたがなされていた。神諭には聖師のことを、「大化物」とか「人民では手にあわん赤ん坊」とか書かれているが、まさにその言葉かぴったりとあてはまる。ときには大聖者のごとく、ときには大俗物のごとく、その起居動作はきわめて自由無礙で、俗人ではたやすくとらえることができなかった。
少年時代から地獄耳と評されていたように、聖師の記憶力は万人に卓絶したものがあった。したがってその超人間的な記憶力を信徒は、霊的神的という言葉で理解しようとした。少年時代から聖師とつながりのあった郷土の近くにすむ大石老人は、「賢いことは無類で、しかもやさしい人でした。けれど道理に反したことについては実に強い人で、自分の意志を曲げなかった人です」とかたっている。また聖師と友人関係であった人は「おもしろい楽天家だった」と口をそろえてその人柄をなつかしむ。大本の歴史のなかで幾度となくおそってきた、いかなる迫害にも屈せず、苦難にもおし流されず、それらの逆境のなかでさえいつも楽天的であり、積極的であり、かならずその難関は平然と突破された。しかもそれを好機としてよりよき発展の活路をひらかれてきたのである。その生涯には、勇気と忍耐とすぐれた英知がうかがわれる。あるときは堂々とした大人であり、あるときは、赤ん坊のような無邪気にみちあふれていた。おおらかで、小事にこだわらぬ反面、紙一枚もむだにせず、小さなところまで気のつく几帳面な一面があった。
また聖師は、面接する人の心を直感的に読みとることのできる人であったが、しかも貴賤老若いずれの人にたいしても、差別なく、まことの愛情をもって接触した。
聖師の高熊山修業後は、神霊との接触が不断におこなわれていて、その態度や動作に、赤裸々な人間味のあふれるおもしろい面がみえるかと思えば、やがてそれが神霊的な現象につながってゆく。神人合一という言葉があるが、その霊的な神と、人間王仁三郎とのけじめがつかず、混然一体とおりなされていた感があった。
聖師にはおおくの逸話がのこされている。聖師のゆたかな愛情や、あるいは善意の叱咤によって、感奮甦生したものや、生涯の危機をすくわれたものは数しれない。つねに人間以外の諸動物・植物にいたるまで、いつもあたたかい心づかいをはらわれていた。さまざまの聖師をめぐるエピソードも、聖師の片鱗をうかがうものにすぎない。聖師の行為には、何人にも知らされないうちに救いの配慮がなされており、おおくの人々はその魅力にひかれ、信仰へみちびかれていった。二代苑主による思いでのなかに、綾部で最初に聖師にあったときは、茫洋として阿呆のごとき人であったと最初の印象がかたられているが、聖師には時としてそうした時代もあった。しかしそれも大本ふうにいえば、霊的関係から由来するものであった。実際には非常にするどい感覚と才知のそなわった人であって、一から十まで知悉していながら、それをおもてに出さなかったのである。
聖師は自然を愛し、芸術にしたしんだ。書画等については特別の師について習われたものではない。しかしそこにはすでにそなわっだものがあって神技と感嘆された。生まれながらの芸術的素質がそなわり、それが奔流となってふきでたのである。人間ばなれのした傑出した人物がそこにあった。
しかしながら社会からは極端な言葉で批判された人であった。ときには偽善者のごとく、また悪人のごとく、あらゆる悪言暴語を投げつけられ、たえず毀誉褒貶の渦中にあった。だがこれらは、その力をねたみかつおそれた人々や、大本の発展をこころよく思わぬ人々による無責任な中傷であって、悪言暴語を投げかけた人でも、聖師の人柄にふれると、その魅力に魅せられてか、たちまち前言をひるがえした人々もすくなくない。聖師には生まれながらにして人をひきつける何物かがそなわっていた。聖師はまことに天衣無縫の宗教者であり、芸術家であり、思想家であった。それはすべての人々が共通にいだいていた、人間出口王仁三郎観であった。
聖師の生涯を通じていえることは、神と道のための使命につよく生きた人であって、常時霊的交流のある人であった。そればかりではない。信念につよく、それをそのまま行動にうつす実行力にみちあふれた神人であった。
「中外日報」の社主真溪涙骨は、辛辣な批判家で知られた人であったが、聖師を「天衣無縫の超人」として、つぎのような評価をしている。
私は、苑主出口王仁三郎翁とは二年も年上だが、新聞をやってからでも五十一年にもなる。その間に、直接間接に随分多くの人間を知ってきたが、未だ曽て翁のごとき、羽目のはずれた脱落超凡の超人的野人に触れたことがない。パアーとした大風に灰をまいたような、どこといってとらえどころのない、大賢か、大愚か、豪傑か、凡俗か、かつて得体の判らぬ怪物に触れたことがない。口を開けば、かいぎゃくとユーモアの濫発で、エロ、グロの明暗両相、どこがこの人の本質だが、真面目だか、サッパリ見当がつかない。それでいて汲めども尽きぬ愛情に、世の一切を包み、底知れぬ魅力に万人の心をつかんで離さない。まったく超人的の異彩を放っている。想う、今日の世、小智小才の寸尺の短かい群族のウヨウヨしている地上に、こんな図抜けた大野人が一個ポツンと存在するのは驚くべき奇蹟ともみられる。今日の世間、とくに宗教界には、かかる一個の不得要領の大人物を要求しているのだ。俗に浸って俗に・溺れず、聖に入って聖に囚われず、無我にして大我であり、無慾にして大慾であり、毀誉は空吹く風、褒貶は脚下を流れる水、尻っぽを捉うれば頭はココだと高く笑い、ムズと長髪をつかめば臍はドッコイここだと下腹からからかって出る。地に影を踏まんとすれば天上に声あり、天馬空を征くかと思えば奥さんの前にチョコナンと縮じこまってござる。面白いとも愉快とも、一たび高風に接するものは批評を超え、月旦を空し、ただ舌を巻いて感嘆するだろう。混沌たる今日の世になくてはならぬオアシスだ。けだし新興宗教の礎石的人格だろう。
また、「翁は、語るに流暢でなく、服装も質素で、丹波亀岡の普通の親爺に異る処はなく、……だが、天童の如き微笑みを湛えた容相は、天使か、さもなくば慈愛に満つる親か─血液の中にまで愛情が流れ入るのをどうすることも出来ない」との世評は、人間王仁三郎の一斑にふれている。
なお作家矢田挿雲は、聖師初対面の印象を信書でつぎのように記している。「大本教が一般世間に今日ほどポピュラーに成らぬ頃、王仁三郎氏の名を聞き、間もなく親友岩田鳴球より再三、その異常人なるを説かれ、爾来三十年異常人の有りやうにつき、かにかくと想像をめぐらし胸中の塑像に土を加へたり削つたりして昨日に及びしものに御座候。而かして何の幸ぞ、遂に我胸中の塑像とその現身とを対照比較するの機会は恵まれ候、翁に対する畏友岩田君の言、我を欺かずの一言を以て足り候。あの不自由な足どりを忘れて、珍客と芸術的感興を共にせんが為めあの重き写真帖二冊を携へ出でられし真率無邪気な心身の動き、あのやうにせずに居られざりし人間味のどこにコケ威しありや……小生は昨日の数時間にして一気に三十年来の塑像に點睛せるを覚え申候。その書の、その画の清高にして小生をして恍惚たらしめしは何の不思議もなき事に候」(昭和20・11・20)。矢田はその後長編小説「出口王仁三郎伝」を執筆し、一九五〇(昭和二五)年一月より一一二回にわたり、大本の機関誌に毎月連載した。
さらに、キリスト教の牧師で、同志社大学の総長であった牧野虎次は聖師をつぎのようにみている。
こと新らしく言うまでもないが、翁の人物は、輪廓があまりにも大きく、尋常の規矩では、到底測り知ることが能わない。天真爛漫、ものに拘泥せぬ点から云えば、大きい子供さながらであった。宗教的天分豊かに、人心の機微に触るる処を見れば、学ばざる学者、捉われざる宗教家であった。趣味博く、行くとして佳ならざるはなき側からは、荒削りの芸術家でもあった。経綸縦横、島国を狭しとして、大陸に渡り、天馬空を駛る概を示すかと思えば、思慮綿密で水も洩らさぬ用意で、エスペラント語を奨励したり、世界紅卍字会と提携したりした。若い老人と云わんか、平凡な英雄と称せんか、将だ又だ巷の聖者とも評せんか、容易に端倪すべからざる一大存在であった。一言にして云えば、翁は偉大なる未成品であった。潜心秘め修めた天地大本の教義も、事に会うては、恰も忘れたるものの如く、十年忍苦の大試錬も、顧みて呵々一笑に附し去って了った。禅家の所謂「竹密にして流水の通ずるを妨げず、山高くして豈に碍げん白雲の飛ぶを」。行雲流水、成るがままにまかせ、平然として省みず。一面からは、無神経かと疑わるる計り、無頓着であるが、他面からは、時の趨勢を察して愛善苑を創め、国際宗教運動を奨める等、斯界先覚者の面目躍如たるを見遁すことが能わないのである。……翁のごときはまことに宗教を行ぜるものと称すべし。
〔写真〕
○人間 出口王仁三郎 p821
○日々好日…… p822
○経綸縦横…… p823
○瑞霊真如 出口王仁三郎聖師 p824