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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >3 諸団体の活動よみ(新仮名遣い)
文献名3社会福祉法人信光会よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ1081 目次メモ
OBC B195402c8234
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本文  一九五二(昭和二七)年四月、大本教団の公益事業を推進する機関として、大本社会事業団がもうけられ、児童福祉事業の亀岡保育園、医療福祇事業の愛善診療所、育英奨学金給付などの福祉活動が総括されることになった。その後社会福祉事業の発展にともない、一九五五(昭和三〇)年以来社会福祉法人として、信光会(三代教主命名)の法人化手続きをすすめていたが、一九五七(昭和三二)年四月二五日には正式に設立の認可があった。
 そこで会長を出口光平とし、大本社会事業団でおこなっていた児童福祉・民生保護事業をこれにゆだね、信光会の名のもとに、理想的な社会福祉事業の実現をめざす運営がなされることになった。社会福祉法人信光会は、大本・亀岡市・施設側から選出された理事(五人)で、会の議決・執行機関である理事会を構成し、そのなかから代表理事(会長)が選出されている。一九六二(昭和三七)年現在、保育所「亀岡保育園」と精神薄弱者救護施設「松花苑」を所管し、老人ホーム「松寿苑」の経営を綾部市から委託されている。なお松寿苑については一九五〇(昭和三五)年ころより正式移管の手続が綾部市と信光会の間ですすめられている。なお、大本社会事業団は診療所の閉鎖、大本育英会の設立にともなって、一九六〇(昭和三五)年一月に廃止された。

〈亀岡保育園〉 一九五一(昭和二六)年五月に正式に開園をみた保育所「亀岡保育園」(七編四章三節)は、その後激増する地域社会の要望にしたがって、翌年九月より木造平屋一部二階建の本館九二・二五坪の建設に着手し、一九五三(昭和二八)年八月に完成、定員二八〇人の大規模な施設となった。ついで一九五五(昭和三〇)年二月には、第二期工事として小遊戯室四九・七五坪を完成したが、これらの増築にあたっては、大本婦人会から資金・備品寄付などの協力があった。こうして京都府下有数の保育園に成長し、翌年五月には、社会福祉事業奨励のため下賜金がおくられている。
 一九五八(昭和三三)年一月には、乳児保育の要請がおおくなるにしたがって、保育園に乳児保育室とあわせて給食設備の向上をはかるため、四七・五五坪の新施設を完成した。一九六二(昭和三七)年には、職員が園長以下一九人、二九五人(乳児一五人・幼児二八〇人)の乳幼児を収容している。
 このほか、母の会・友の会が組織され、それぞれ自主的に、会員自体の研修と、地域社会の児童福祉活動をつづけ、また保育園には指導員をおいて、地域子供会組織の育成に力をいれ、余暇善用教室をひらいて小学生の善導にも力をつくすなど、「母と子の綜合施設」を目標として、あたらしいこころみや研究・改良がすすめられている。
 なお、一九五三(昭和二八)年からは大本婦人会と協力して農繁託児所の運営にも力をいれ、保母養成講習会をたびたび開催して食糧増産運動への一助とした。とくに同年九月京都南山城の大水害には、大本婦人会・青年会と協力して高麗村にテント張りの保育所を開設し、一ヵ月無休で乳幼児延一六八〇人をあずかり、村の復興に協力している。

〈綾部松寿苑〉 一九五三(昭和二八)年綾部市によって、同市上野町に設立をみた養老院は、三代教主によって「松寿苑」と命名され、その経営は大本社会事業団に委託されて、苑長出口光平のもとに五月二六日開苑式をおこなった。同年五月に完成した建物は建坪一〇四坪・定員三〇人であったが、一九五五(昭和三〇)年六月には、建坪四五・二五坪の居室・事務室などの増築工事が完成して、定員は四〇人となった。その後一九五八(昭和三三)年五月には、居室・病室など五四・三一坪の第二次増築工事が完成して、収容人員も五〇人となり、養老施設としての設備を充実した。入苑者は、地域的には限定されないが、要保護生活者六〇才以上となっており、生活保護法の適用をうけている。

〈亀岡松花苑〉 一方、信光会では、成人の精神薄弱者救護施設の設置を計画した。日本の精薄児施設はかなりおおくなったとはいえ、精薄児が成人にたっしたあとの対策については皆無にちかい状況である。これら薄幸な人々に社会生活のありかたを訓練し、可能なかぎりの能力をひきだして育てあげ、社会に適応させて人生に意義をもたせることは近代社会のおおきな課題でもある。こうした観点にたって、信光会では、日本でも数すくない施設の計画が意欲的におこなわれたのである。
 一九五八(昭和三三)年のお年玉つき年賀はがき寄付金『二二万六五〇〇円の配分をうけ、総工費一〇九六万七五一二円で亀岡市河原林町に、一九五九(昭和三四)年二月に工事をはじめ、同年五月に完成した。三代教主から「松花苑」と命名され、同年の一〇月二七日に認可をえて、一一月一日から業務を開始した。当初は定員三〇人であったが、たちまち満員となったので、一九六一(昭和三六)年、ふたたびお年玉つき年賀はがき寄付金二〇〇〇万円の多額配分が決定されたのを機会に、増築工事に着手し、一九六二(昭和三七)年三月に、定員一〇〇人の第一期計画を完成するにいたった。
 施設は、鉄筋コンクリートまたはブロック造りの建物一八棟五八六・五三坪で、管理棟(七一・七五坪)・医療棟(二八・五〇坪)・サービス棟(六九・一四坪)・娯楽棟(四五・四一坪)・居室棟(六棟二三三・三一坪)・作業棟などが機能的に配置・連絡されている。収容者は一〇〇人にたっし、苑長以下二一人の職員がはたらいている。
 松花苑においては、生活・職業指導の職員を配置して、本人の能力と体力に適応した個別指導をおこない、清潔で健康な生活、情緒の安定した生活、安全な生活、学習指導の四項目を重点とした生活指導によって、劣等感や性格の歪の是正を目標としている。また職業指導では農業部(畑作・養鶏・シイタケ栽培・花栽培)、加工部(藁加工)、製造部(コンクリート・ブロック製造)、洗濯部(衣類の洗濯・仕上)・手芸部(簡単な裁縫・ミシン仕事)などの職種がおかれている。
 日本では、一九六〇(昭和三五)年四月に、やっと精神薄弱者福祉法が制定され、精薄者対策が前進しはじめたときだけに、松花苑の事業は社会的反響をよんだ。第二期計画として予定されているコロニーの建設にはさらにおおきな期待がよせられている。

〔写真〕
○亀岡保育園 正面は本館(下保育室)右は保育室 左は遊戯室 乳児保育室と調理室 手前は遊戯室(最初の建物)中央は屋外遊戯場 建物にはすべて色彩調節がほどこしてある 天恩郷 p1083
○養老施設松寿苑 綾部上野町 p1084
○亀岡松花苑 右から本館 食堂と浴場 医療棟 居室棟と娯楽棟(木蔭にある)作業棟 中央手前にプールや砂場もみえる 亀岡市河原林町 p1085
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