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文献名1霊界物語 第69巻 山河草木 申の巻
文献名2第1篇 清風涼雨よみ(新仮名遣い)せいふうりょうう
文献名3第1章 大評定〔1746〕よみ(新仮名遣い)だいひょうじょう
著者出口王仁三郎
概要
備考
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あらすじ三五教の宣伝使国依別命が、神素盞嗚大神の末女、末子姫を娶ってより治めていた珍の国(アルゼンチン)が舞台となります。天下泰平、四民和楽の治世も、次第に常世の国よりウラル教の思想が入り来たり、国内には他にもさまざまな悪思想がはびこり始めていました。物語は、国司・国依別の補佐を長年勤めて来た松若彦が、部下の伊佐彦・岩治別に辞任の意を漏らすところから始まります。松若彦は自分の老齢と、現代の情勢の厳しさを考え、退任して部下のいずれかに後を任せようとします。伊佐彦:これまでのやり方を守り、あくまで松若彦を中心にして国を治めるべき。岩治別:年老いた松若彦は早く退陣し、新しい考えをもった自分が国司の補佐となり、元の太平を取り戻す覚悟。伊佐彦、岩治別は互いに意見が合わず、言い争っている。そこへ、国司国依別の長子、国照別がやってきます。若君は、浴衣の上に帯をグルグル巻きにして、鼻歌を歌いながら登場。国照別:3人とも中途半端な骨董品だから、自分が親父に勧告して、皆職を解き、平民となって気楽に余生を送らせたいと思っているのだ。。。と3人を煙に巻いて退散します。松若彦は若君のこの有様を見て逆に発奮し、隠退の言を撤回します。そして改革派の岩治別の任を解いてしまいます。それだけでなく、松若彦・伊佐彦は岩治別を捉えて獄に投じようと画策します。しかし岩治別は国照別の手引きにより、城を脱出していずこかへ姿をくらまします。
主な人物 舞台高砂城 口述日1924(大正13)年01月22日(旧12月17日) 口述場所伊予 山口氏邸 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1927(昭和2)年10月26日 愛善世界社版29頁 八幡書店版第12輯 281頁 修補版 校定版31頁 普及版 初版 ページ備考
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本文  太平大西両洋に跨り、常世の波をせきとめて、割つた屠牛の片脚の如うにブラ下つてゐる南米大陸は、春夏はあつても秋冬の気候を知らぬ理想的の天国である。太洋より絶えず吹き来る清風は、塩分を含んで土地を益々豊饒ならしめ、人頭大の果実は随所に豊熟し、吾人が坐して尚余りある如き数多の花は四方に咲きみだれ、数万種の薬草は至る所の山野に芳香を放つて繁茂し、アマゾン河におち込む数千の支流には数十万種の魚族が棲息し、山には金銀銅鉄石炭等の鉱物を豊富に包蔵し、特に石炭の産額は全世界に其比を見ざる所である。乍併現今は未だ充分に採掘の方法が備はつてゐないので、可惜宝庫を地に委してゐる次第である。
 アンデス山脈は高く雲表に聳え、海抜一万四五千尺より三万尺の高地がある。そして山の頂きには狭くて十里、広きは数十里に亘る高原が展開してゐる。樹木の数も我国より見れば仲々多い。又ブラジル国を流るるアマゾン河の川幅は、日本全国を縦に河中に放り込んでも、まだ余る様な世界一の大河である。特にペルウ、ブラジル、アルゼンチン等の原野には、日本の柿の木の如うな綿の木が所々に天然に繁茂し、青、黄、赤、紫、白等自然の色を保つた綿が年中梢にブラ下つてゐる。又竹の如きも日本内地のすすき株の様にかたまつて生え、太さは横に切つて、棺桶や手桶が造れる位である。蕗の如きは一枚の葉の下に十人位集まつて雨を凌ぐことが出来るやうなのがある。牛馬羊豚などは際限もなき原野に飼放しにされてゐるが、それでも持主はめいめい定まつてゐる。味の良き苺やバナナ、無花果などは少し低地になると厭になる程沢山に出来てゐる。そして猿に鹿、野猪などは白昼公然と人家近くよつて来て平気で遊んでゐる。鷹のやうな蝶や蝙蝠、又蜂のやうな蟆子、雀のやうな蜂、拳のやうな蠅が風のまにまに群をなしてやつて来ることもある。すべてが大陸的で日本人の目から見れば実に肝を冷すやうなこと計りである。乍併瑞月は伊予の国道後温泉のホテルの三階に横臥したまま目に映じたことを述べたに過ぎないから、或は間違つてゐるかも知れない。南米の事情に詳しき人が此物語を読んだならば、始めて其虚実が分るであらう。只霊眼に映じた儘を述べたに過ぎない。
 三五教の宣伝使国依別命が、神素盞嗚大神、言依別命の命に依り、瑞の御霊の大神が八人乙女の末女末子姫に娶ひて、アルゼンチンの珍の都の国司となりしより、天下泰平国土成就して四民和楽し、珍の天国を永久に築き上げ、国民は国司の仁徳を慕ふて、天来の主師親と仰ぎ仕へまつることとなつてゐた。然るに常世の国よりウラル教の思想何時とはなく、交通の発達と共に輸入し来り、日を追ひ月を重ねて、漸く国内には妖蔽の兆を呈して来た。到る所に清家無用論や、乗馬階級撤廃論が勃発し、互に党を作り派を争ひ、さしもに平和なりしアルゼンチンは、漸く乱麻の如き世態を醸成するに至つたのである。国依別は漸く年老ひ、城内の歩行にも杖を用ゐるに至り頭に霜を戴き、前頭部は殆んど電燈の如くに光り出した。末子姫も漸く年老ひ、中婆さまとなつて了つた。国依別末子姫二人の中に国照別、春乃姫といふ一男一女があつた。国照別は父国依別の洒脱にして豪放な気分を受け、幼少より仁侠を以て処世の方針としてゐた。そして清家生活を非常に忌み嫌ひ、隙間があれば、城内をぬけ出し簡易なる平民生活をなさむと考へてゐたのである。
 国司を補佐して忠実につとめてゐた松若彦、捨子姫も漸く年老ひ、松依別、常盤姫の二子をあげてゐた。そして松若彦の部下に伊佐彦、岩治別の左右の重職があつて、松若彦の政務を補佐しつつあつた。
 神素盞嗚の大神が  皇大神の経綸を
 遂行せむと斎苑館  後に眺めてはるばると
 天の岩樟船に乗り  アルゼンチンの珍の国
 珍の都に天降りまし  八人乙女の末子姫
 国の司と定めつつ  国依別の神司
 夫と定めて合衾の  式を挙げさせ勇み立ち
 再びフサの産土の  厳の館に帰りしゆ
 三十三年の星霜を  経にける今日の都路は
 薨も高く立並び  数十倍の人の家
 建てひろがりて南米に  並ぶ者無き大都会
 交通機関は完成し  数多の役所は立並び
 大商店は櫛比して  昔のおもかげ何処へやら
 うつて変りし繁栄に  驚かざるはなかりけり
 国依別と末子姫  二人の中に生れたる
 国照別や春乃姫  容色衆にぬきんでて
 珍の都の月花と  南米諸国に鳴りわたり
 若き男女の情緒をば  そそりて血をばわかせたる
 遠き神代の物語  褥の上に横たはり
 言霊車ころぶまに  面白可笑しく述べて行く
 あゝ惟神々々  御霊幸ひましませよ。
 珍の都の高砂城内評定所の別室には、大老松若彦を始め、伊佐彦、岩治別の老中株が首を鳩めて秘密会議を開いてゐた。空はドンヨリとして何となく蒸暑く、一種異様の不快な零囲気が室内を包んでゐる。松若彦は二人の老中株に打向ひ、水ばなをすすり乍ら、骨と皮との赤黒い腕を前へニユツと出し、招猫宜しくの体で歯のぬけた口から、慄ひ慄ひ先づ火葢を切つた。
『御両所殿、今日は御多忙の処早朝より能く御来城下さつた。今日御招き申したのは、折入つて御両所に相談したきことがあつて、自分の決心を忌憚なく吐露し、御両所の御援助を得たいと思ふのだ』
と云ひ乍ら、コーヒーを一口グツと飲んで、顎鬚にしたたる露を、分の厚いタオルでクリクリと二三遍拭ふた。
伊佐『御老体の身を以て、何時も国家の重職に身命を捧げ下さる段、誠に感謝に堪へませぬ。そして今日吾々をお招きになつた御用件は如何なる事か存じませぬが、吾々の力の及ぶ事ならば、国司の為、珍の国の為、あらむ限りの努力を払ふで厶いませう』
松若『イヤ、それを聞いて松若彦安心を致した。岩治別殿、貴殿も亦伊佐彦殿と御同感で厶らうなア』
岩治『いかにも、左様、吾々は元より身命を君国の為に捧ぐる者、閣下の御言葉に対し一言半句たり共、違背致す道理は厶いませぬ。乍併今日の世は大に改まつて居ります。革新の気分が漲つて参りました。それ故慨世憂国の吾々、閣下の御言葉に依つては或は国家の将来を慮るについて背かねばならないかも分りませぬ。そこは予め御承知を願つておきます』
松若『成程貴殿の云はるる通り、今日の社会は昔日の社会ではない。日進月歩殆んど止まる所を知らない世の中の情勢で厶る。就ては松若彦が御両所に御相談と申すのは、御承知の通り老齢職に堪へず、大老の職を辞し、新進気鋭の御両所に吾が職を譲り、退隠の身となり、光風霽月を楽しみ、閑地につきたいと欲するからで厶る。何と御両所に於て吾が希望を容れ、後任者たる事を承諾しては下さるまいか』
伊佐『これは怪しからぬ閣下の仰せかな。閣下は珍一国の柱石では厶らぬか。上下の一致を欠き、清家と衆生との争闘烈しき今日、国家の重鎮たる閣下が今日の場合、万々一退隠さるる様の事あつては、それこそ乱れに紊れし国家はいやが上にも争乱を勃発し、社稷を危うするの端を開くのは最も明かなる道理で厶る。何卒此儀許りは思ひ止まつて頂きたう存じます』
松若『貴殿の勧告は一応尤も乍ら、老齢職に堪へざる身を以て国家重要の職に居り、後進者の進路を壅塞し、国内の零囲気をして益々腐乱せしむるは、拙者に於て忍びざる所、何卒々々吾希望を容れ、御両所の中に於て大老の職を預かつて貰ひたい』
岩治『成程、松若彦様のお言葉の通り、齢幾何もなき老人が国政を執るは国家の進運を妨ぐること最も甚しく、且惟神の大道に違反するものならば、お望みの通り御退隠なさいませ。拙者は実の所は数年前より只今のお言葉を期待して居りました。実に賢明なる閣下の御心事、イヤ早感激の至りに堪へませぬ』
 伊佐彦は憤然として言葉をあららげ、
『コレハコレハ御両所共、以ての外のお言葉、左様な意志薄弱なる事では民を治むる事は出来ますまい。飽く迄も国家の為に犠牲的精神を発揮遊ばすのが大老の御聖職では厶らぬか。岩治別殿は松若彦様に対し、御諌言申上ぐることを忘れ、自ら其後釜に坐り、畏れ多くも、国司様の代理権を執行せむとする其心底野望の程、歴然と現はれて居りますぞ。左様な野心を有する役人が上にあつては、下益々乱れ遂には収拾す可らざる乱世となるでせう。拙者はあく迄も松若彦様の御留任を希望して止みませぬ』
岩治『これは怪しからぬ伊佐彦の言葉、拙者は決して野心なんか毛頭持つてゐませぬ。よく考へて御覧なさい。松若彦様は已に御頽齢、かやうな時には、新進気鋭の若者でなくては国家を支持し、民心をつなぐ事は出来ますまい。さすが賢明なる松若彦様、此間の消息を御推知遊ばされ、進んで自決の途に出でられたのは天晴国家の柱石と称讃申上ぐる外はありますまい。及ばずながら御心配下さるな。みごと拙者が松若彦の後任者となつて、上は国司に対し、下国民に対して、至真至粋至美至愛の善政を布き、珍の天地を神素盞嗚大神が降らせ玉ひし、昔の天国浄土に立直して御覧に入れませう』
伊佐『おだまりなされ。貴殿は老中の地位に在りと雖、無能無策、到底国家の重任に堪へざるは、上下一般の認むる所で厶る。常に大言壮語を吐き、私立大学を創立して不良青年を収容し、国家顛覆の根源を培ふ悪魔の張本、到底城中の政治を左右する人格者では厶らぬ。それだと云つて外に適任者はなし、御苦労乍ら松若彦様に今一度の御奮発を願はなくては、忽ち貴殿の如き非国家主義者が政権を掌握さるる事となつて了ふ。之れ国家の為に最も恐るべき大事変で厶る。貴殿にして一片報国の至誠あらば体よく老中の地位を去り、爵位を奉還し、野に下つて、民情をトクと視察し其上更めて意見を進言なされ。此伊佐彦のある限り、どこ迄も貴殿の欲望は遂げさせませぬぞ』
 松若彦は心の中にて……到底今日の世の中、今迄通りではやつて行けないことは、百も千も承知してゐた。されど投槍思想を帯びた岩治別に政権を渡せば、忽ち国家の根底を覆すであらうし、真に国家を思ふ伊佐彦に政権を渡せば、時勢おくれの保守主義を振りまはし、益々民心離反の端を開くであらう、ハテ困つた事だなア、退くには退かれず進むにも進まれず、国内一般の民情を見れば、上げもおろしも、自分の力ではならなくなつて来た。到底清家政治や閥族政治のいつ迄も続くべき道理がない…否斯の如く乗馬階級の政治的権力は最早最後に瀕してゐる。何とかして国内の空気を一新し、人心の倦怠を救ひ、思想の悪化を緩和し、上下一致の新政を布きたいものだ。あゝ何うしたら可からうかな、……と水ばなをすすり、腕をくみて両眼よりは涙さへ滴らしてゐる。三人は何れも口を噤んで互に顔を見守つてゐる。
 そこへ浴衣の上へ無雑作に三尺帯をグルグル巻にして鼻唄を唄ひながらやつて来たのは国照別であつた。
国照『ヨー、デクさまの御集会かな、到底、干からびた古い頭では、碌な相談もまとまりはしまい、…ヤアー松若彦、お前は泣いてゐるのか、お前もヤツパリ年が老つた加減か、余程涙つぽくなつただないか、……ヤア保守老中の伊佐彦に投槍老中の岩治別だな、…ヤ面白からう、一つ大議論をやつて退屈ざましに僕に聞かしてくれないか。僕も実の所は清家生活がイヤになつて、どつかへ飛出さうと思つてゐるのだが、何をいつても籠の鳥同様、近侍だとか、衛士だとか旧時代の遺物が僕の身辺にぶらついてゐるものだから、何うすることも出来やしない。之も要するに頭の古い大老の指図だらう。僕の親爺は、決してこんな窮屈なことは、好まない筈だ。オイ酒でも呑んで、いさぎようせぬかい。高砂城内で涙は禁物だからのう』
 松若彦は手持無沙汰に涙をかくし乍ら二三間許り座をしざり、畳に頭をすりつけ乍ら、
『コレハ コレハ、若君様で厶いますか、エライ御無礼を致しました。何卒々々神直日大直日に見直し聞直し、無作法をお赦し下さいませ』
国照『オイ、爺、ソリヤ何をするのだ。左様な虚礼虚式的な事は、僕は大嫌ひだ。モウちつと活溌に直立不動の姿勢を執つて、簡単に挙手の礼をやつたら何うだ、余りまどろしいぢやないか』
松若『恐れ入りました。併し乍ら城内には城内の規則が厶いますから、有職故実を破る訳には参りませぬ。礼なくんば治まらずと申しまして、国家を治むるには礼儀が第一で厶いますから、之計りは何程お気に入らなくても許して頂かねばなりませぬ。之は珍の国の国粋とも申すべき重要なる政治の大本で厶います。礼儀なければ国家は直にみだれ、長幼の序は破れ、君臣父子夫婦の道は亡びて了ひます』
国照『ウンさうか、それも結構だが、お前が若しも国替をして、居らなくなつても、有職故実は保存されると思うてゐるのか、今日の人間の心はそんなまどろしい事は好まないよ。何事も手つ取早く埒をつける事が流行する世の中だ。昔の様に歌をよんだり、長袖を着てブラブラと遊んで居つた時代とは世の中が変つてゐる。昔の百倍も千倍も事務が煩雑になつてゐるのだから、そんな辛気臭い事は到底、永続すまいよ』
岩治『実に痛み入つたる若君様のお言葉、岩治別、実に感激に堪へませぬ。斯の如き若君様を得てこそ、珍の国家は万代不易、国家の隆昌を期する事が出来るでせう。親君様は最早御老齢、何時御上天遊ばすかも知れぬ此場合、賢明なる若君様の御心を承はり、岩治別、イヤもう、大変な喜びに打たれ、勇気が勃々として湧いて参りました。此若君にして此臣あり、老中の仲間に加へられたる吾々なれど、未だ心まで老耄はして居りませぬ。何卒若君様、微臣を御心にかけさせられ、重要事務は微臣に直接御命令下さいませ。松若彦殿は老齢職に堪へずとして、只今吾々の前に辞意をもらされました』
国照『ウンさうか、松若彦もモウ退いても可いだらう。伊佐彦も随分古い頭だから、此奴も駄目だし、岩治別は少し許り今日の時代に進みすぎてるやうでもあり、又遅れてるやうな所もあり、到底完全な政治はお前たちの腕では出来相もない。僕が親爺に勧告して退職をさせ、簡易なる平民生活に入れてやり、安楽な余生を送らせたいと思つてゐるのだから、一層のこと、お前たちも大老や老中なんか廃して、安逸な田園生活でもやつたら何うだ。僕も大に覚悟してゐるのだからな』
 三人は国照別の顔を無言のまま、盗む様にして打守つてゐる。国照別は無雑作に、
『高砂城の床の置物、無神経質の骨董品殿、三人よれば文珠の智慧だ。トツクリと衆生の平和と幸福とを擁護し、人民の思想を善導すべく神算鬼謀を巡らしたが可からう。あゝ六かしい皺苦茶面を見て肩が凝つて来た。ドーラ、馬にでも乗つて馬場でもかけ廻つて来うかな』
と云ひすて、足音高く奥殿さして進み入る。後見送つて松若彦は又も涙を垂らし乍ら、
『肝心要の後継者たる若君様が、あのやうなお考へでは最早珍の国家は滅亡するより仕方ない。あゝ困つた事になつたものだ、なア伊佐彦殿』
 伊佐彦は真青な顔して、唇をビリビリふるはせ乍ら禿げた頭をツルリと撫で、
『閣下の云はるる通り、困つた事で厶る。どうして珍の衆生を安穏ならしめ、お家を永遠に栄ゆべき方法を講じたら宜しう厶いませうか。深夜枕を擡げて国家の前途を思ひみれば、実に不安の情に堪へませぬ』
岩治『アツハヽヽ、此行詰つた現代を流通させ、衆生が皷腹撃壤の天国的歓楽に酔ひ、各業を楽む善政を布くは何でもない事で厶る。御両所等は斯う申すと憚り多いが、頑迷固陋にして時代を解し玉はざる為で厶いませう。時代の潮流を善導してさへ行けば、珍の衆生は国司の徳を慕ひ、忽ち天国の社会が展開されるは明かな事実で厶いますぞ。兎も角退隠遊ばすが国家の進展上第一の手段だと考へます。徒に旧套を墨守して衆生の心を抑へ、社会の進歩を妨ぐるに於ては何時如何なる大事が脚下から勃発するかも知れませぬぞ。拙者は決して自己の権利を得むが為、又は政権を壟断せむが為に論議するのではありませぬ。国家を救ふのは拙者の考ふる所を以て最善の方法と思ふからです。御両所に於かせられても、速に色眼鏡を撤回して拙者の真心を御透察下さらば、自らお疑が解けるでせう』
松若『侫弁を以て己が野心を遂行せむとする貴殿の内心、いつかな いつかな、其手に乗る松若彦では厶らぬ。及ばず乍ら拙者は珍の国の柱石、かくなる上は最早御心配下さるな。拙者は命のあらむ限り、君国の為に、老齢乍ら奮闘努力致して見よう。就いては伊佐彦殿、今日只今より岩治別に対し、老中の職を解くから、貴殿もさう考へなされ。そして今後は何事も拙者と御相談な仕らう』
 伊佐彦は喜色満面に泛べ乍ら、「ヤレ邪魔者が排斥された」……と云はぬ許りの態度にて、
『閣下の仰、御尤も千万、国家の為、謹んで祝し奉ります。岩治別殿、大老よりのお言葉、ヨモヤ違背は厶るまい。サア速に此場を退出召され』
と居丈高になつて罵つた。
岩治『これは怪しからぬ両所のお言葉、拙者は貴殿等より任命された者では厶らぬ。永年国務に鞅掌致した功労を思召され、国司より老中の列に加へられたる者、然るを大老の身を以て吾々に免職を言ひつくるとは、実に不届き千万では厶らぬか。貴殿等は神権を無視し、国政を私するものと言はれても遁るる言葉は厶りますまい。乱臣賊子とは貴殿等のことで厶る』
と居丈高になり声荒らげて睨めつけた。
 松若彦、伊佐彦は目配せし乍ら、ソツと此場を立つて国依別国司の御殿に進み入る。
 後に岩治別は双手を組み、越方行末のことなど思ひ浮かべて、慨世憂国の涙にくれてゐた。そこへ若君の国照別はあわただしく只一人入来り、
『オイ、岩治別殿、一時も早く裏門より逃れ出でよ。汝を捉へて獄に投ぜむと、二人の老耄爺が大目付を呼び出し手配りさしてゐる。サア、時遅れては取返しがつかぬ、早く早く』
とせき立てた。岩治別は挙手の礼を施し乍ら『ダンコン』と只一言を残し、夕暗を幸ひ、姿を変じて裏門より何処ともなく消えて了つた。
 三五の月は東の山の端を照して、高砂城内の騒ぎを知らぬ顔にニコニコと眺めてゐる。
(大正一三・一・二二 旧一二・一七 於伊予山口氏邸、松村真澄録)
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