文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第3章 >1 予審よみ(新仮名遣い)
文献名3未決の生活よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九三六(昭和一一)年三月一四日、出口王仁三郎は五条署から中京区刑務支所(未決監)に収容された。起訴された者はつぎつぎと身柄を警察から刑務所にうつされていった。王仁三郎ほか数人は、五月一一日にはさらに山科にある京都刑務所の未決監に移送された。五条署に留置されていた出口すみは七月二日に、ついで出口元男(日出麿)は七月一四日、それぞれ身柄を中京区刑務支所に収容された。
第二次大本事件で起訴された者はすべて未決の独房に入れられ、看守に監視されながら約一坪(三・三平方メートル)あまりの独房で寝起きすることになる。すべて一定の時間に起き、一定の時間に寝ること、そして起床から就寝まですわっているのが原則であって、医者の診断がなければ昼間横になってやすむことは許されなかった。弁当の差入れのないものは、当時でも麦七分に米三分のくさい「官弁」とよぶ粗末な食事で、すべては入口につくられた小さな窓口から入れられる。便器は室内におかれていてそこで用を足す。朝夕に室内でラジオ体操をおこなう。雨天や日曜日をのぞいて、戸外のかぎられたせまい庭で一日一回の運動をすることになっていたが、看守の都合で中止されることがおおく、それも終始監視づきの短時間にかぎられていた。入浴は週一回が原則で、脱衣・入浴もいれてわずか五分間くらいですまさねばならない。検閲をへた差入れの図書や刑務所備えつけの図書の読書は許可されたが、時局に関する雑誌や記事などは禁止され、小説の類に限定された。『古事記』・『日本書紀』や大本の文献などはもちろん許されない。差入れの品については、秘密の通信や連絡をおそれるのあまり、食物の中味までしらべたり、衣類の縫目をほどいたりした厳重なものであった。そのため、せっかくの心づくしの品が用をなさなくなったこともあった。なお希望者には、のしはりのような室内作業をさせた。
未決勾留と同時に接見は禁止されたが、ある時期をへて看守の立会いで外部の者との数分間の面会が、隔日に一人許されるととになった。発信はハガキまたは封緘ハガキに限られ、隔日に一通出すことができる。発信・受信はすべて検閲されて、墨で消されたり、また押収されてとどかないこともしばしばあった。室内でのペンや筆墨の使用はできないが、石墨・石盤は許された。それにしても灰色のようなせまい一室にとじこめられて、自由に語り自由に働くことのできない勾留生活をつづけていると、しだいに健康はそこなわれ、持病も出てくる。また頭髪もうすくなり、歯もわるくなる。なかには食欲がおとろえ食事ができなくなってしまう者もあった。そこには自由と希望がなく、普通の人間としてのあつかいはなかった。
予審の取調べ中、未決監で発病した出口貞四郎(三千麿─当時二八才)は、「此の刑務所生活が如何に心身をさいなみ、随って予審取調べに影響せられたかは、これ亦体験なき者の到底想像も及ばぬ所」であると前置さして、上申書(昭和16・11・30提出)のなかでつぎのようにのべている。
私は刑務所(中京区刑務支所)に入るや衣服を一通り検べられ、生れて初めて、かの不快な網笠を冠むらされ、看守の号令に一々従はねはなりませぬ。……やがて中廊下を過ぎて監舎に到り、両側にずらりと並んだ監房を眺めた時は、実に何とも言へぬ哀れな気持になりました。薄暗い監舎の中央はコンクリートの床、両側は赤煉瓦で畳み、其間に黒く太く厳めしい鉄錠の付いた木扉がズラリと列んだ光景は、嘗て兄を送つた火葬場の焼場の竈の有様を思ひ出さずには居られませんでした。二階五五房といふ独房に入れられてガタンピシヤリと錠前をおろす音を聞いた時は、「あゝ到々娑婆とはお別れか」と歎声を洩らさずには居れませんでした。高い窓には鉄柵に金網がかけられ、おまけに目かくしまで附いてゐて、空の一角が僮に見らるゝばかり、二畳の畳敷の部屋は七条署の留置場よりは清潔ではありましたが.人声一つなく、人の顔一つ見られぬ森閑たる中にガタンピシヤリの扉の開閉の音のみが鋭く耳を打って、時折覗窓からギヨロリギヨロリと光る看守の目を見ては、何時も何物にか見据えられてゐるやうな不安な孤独感に襲はれるのでありました。全く初めの一、二週回は孤独感とガタンピシヤリの錠音に刺戟されて神経は針の様に鋭く、話も出来ず、見る事も出来ず、只差入れの本を見るだけの生活は他に何の楽しみもありませぬ。一日一回の戸外運動と、五日目に一度の入浴とは唯一の気晴しではありましたが、運動は一回せいぜい五分足らず、それも雨降りや刑務所人事の都合で、先づ一週間に三日位の事に過ぎませぬ。入浴は流石に楽しみでしたが、これも一々号令で忙しい事甚だしい。此処では房内の運動といつては、起床後と就寝前のきまつた時間に、レコードに合はしてラジオ体操を行ふだけ、後は壁を背にして一定の場所に坐つたきり、朝夕の寝起きの時と便所の時以外は、房内で勝手に立つ事すら許されず、偶々立ち上つてゐる所を看守に見つかるとひどく叱りつけられる。……運動不足は心中の不平不満と重なって食慾は衰へ、神経はいやが上にも苛だつばかり、私の気持は不満で不満で堪えられませんでした。かゝる心身の不健康状態は、時恰も六、七、八月の暑中にかけて一層食欲を失ひ、次第に身体の衰弱を覚えましたが……食べられぬまゝに毎食殆ど半分程しか食べませんでした。八月十一日の夜就寝と同時に、何か生温いものが喉から出て来ましたので、塵紙に吐いて見ますと鮮紅色の血が塵紙に散りました。……喀血だ! 直ちに看守に頼んで塩水を飲んで、其のまゝ安静にして床に入りましたが……翌日早速医師の診断を受け「肺浸潤」と言はれて、其れ以後は「休養」の札が懸けられ、房中に寝たきりで……絶対安静を守り続けました。此の頃、即ち十月頃松野予審判事が刑務所に見えて、私も呼出され刑務所の一室で、現在の心境と健康状態を問はれました。健康については先日の喀血の様子を語りましたが、判事が「そりや人つてゐれば治る」と冷然と言ひ放たれた時は、冷水を背に浴びせられた様な気持が致しました。……看守に病状を訴へれば一々難くせをつけられて何時も不快に思ふばかり、終にこんな不快な思ひをするよりは薬も医者も見てもらはぬ方がましと、血痰が出ても異常があつても、隔日の看守の問に対して「異常なし」と答へる事に致しておりました。……かゝる折私の最も幸に思つた事は、十二年三月頃中京区刑務支所から山科刑務所(山科の京都刑務所構内に設けられていた未決監)に移された事であります。此処は部屋の窓も大きく、窓近くには平和な山の姿も見え、特に感謝したのは、当時の監房監守が一般懲役から「仏さん」と綽名されてゐた程の親切な人であつた事でした。一体にこちらは……自然の環境もあつて刑務所全体の気持が落着いて、中京区刑務支所の如く、看守同志の喧嘩声もなく、被告を叱る怒声も無く、極くのんびりして居りました。……此処の翌年二月迄の一ケ年の生活は、苦しい中にも慰められるものがありました。
山科の京都刑務所では、房内の清掃や雑役をしていた囚人のなかに、大本の被告にこころをくばってくれる人もあった。とくに番号「五六七」とよばれた人や、「大神」という姓の人は、王仁三郎と被告人たちの間の簡単な連絡をしたり、なにかと親切にたちまわって被告人たちからよろこばれた。
王仁三郎は、昭和一一年七月七日付、山科から八重野あてに出した書簡のなかで、「外に居るやうに無暗に間食したり不眠夜明し等なく、凡て食寝ともに一定しているから自然身体が健康になり、従つて気持も軽れらくなり、昨年迄の布袋腹は平常腹となり、五月蝿き訪問者もなく、毎日読書を唯一の楽しみとして暮してゐます。……脚も腰も腕の痛みも全然直りましたから、御安心なさるべく候」と近況をつたえている。そのなかには、性来の楽天的・積極的性格と、のこされた家族へのあたたかいた配慮がよみとれるが、その後王仁三郎は未決監で、しばしば数十日にわたる便秘にくるしめられ、苛酷な取調べと長期にわたる拘禁により、身体をむしばまれていたことはいうまでもない。
出口すみは六一人の被告人中ただ一人の女性として未決の独房生活をしいられた。女性の身にとって長期にわたる未決の生活はくるしいものであった。すみによって晩年に書かれた「獄中記」(『おさながたり』)のかには、つぎのようなくだりがある。
京都の五条署に留置されていたとき、警官から「これから裁判所の監房に護送するから急げ」といわれた。すみは喉がかわいたので水をもとめたところ、「これが末期の水だぞ」といってコップに一ぱいの水をあたえられた。すみはそれをゴクゴクと一いきに飲みほしたが、そのときふと思い出したのは、五条暑につれてこられたときの警察官の言葉であった。「オ前タチノ一族ハ死刑ハマヌガレンカラ、ソウ思ツテココニ入ツテ居レ。ジタバタシテモ死刑ハ間違イナインダゾ」と。「ああそうか、そういう理のこれが末期の水か、それでは、自分はこれから死刑になりにゆくのか。そう思うと、私はふしぎに又元気づいてきました。私はこれまで、こんなところに入れられるようなことをしたととはない。これまで調べてまだ分らず、いつ迄もこんなところに入れられているよりはその方がよいかもしれん。それではこれから死刑になりに行って来ようか。死刑にされる時は、大きな声で万歳と唱えて、ニコニコと笑いながら、極刑を甘んじてうけてみよう。死刑にするならそれでもよい。わしは死んだら天国で神様が待ってられる身だし、そう思って私は護送車にのったのであります」とのべられている。
中京区刑務支所での独房生活がはじまったが、語る人もないさびしい生活のなかで、小さな窓ごしに見えるただ一本の桐の木がすみの心をなぐさめた。窓におとずれる雀や、房内にはいってきたボッカブリ(ごきぶり)に言葉をかけて飯つぶをあたえたり、和歌をつくったり、夜には浄瑠璃をひそかにくちずさんだりして毎日をすごした。のちに、〝四年をなれなじみたるぼっかぶり妻はまめなか子らはふえたか〟と詠まれてもいる。どんなしんぼうもできるすみにとって苦手であったのは、風のはいらぬ監房での夏の暑熱と、蚊帳がないための蚊の襲来であった。とくに防空演習で密閉するようなときなどは、さながら地獄のようであった。そのため眠れない夜がつづき、〝生血にて壁に絵を書く藪蚊かな〟という句ものこされている。ひるのあいだは、本人の希望によって差入れられた小学二年の読本や、その他の本などをよんで時がすごされた。
中京区刑務支所では二人の女看守がいた。そのうちの平井ツルという看守は、すみの人柄にうたれ、ひそかに巻ずしとか黒砂糖やたばこを買って渡したりして、終始非常な好意をよせていた。第一審の判決後控訴してからは、すみは一時雑房にうつされた。三畳に五人ぐらいで雑房の女囚はつぎつぎと入れかわった。このときにかぎらず、監房の都合で他の事件の女囚と同居させられるときなど、それらの女囚にお道のことなどよくとききかし、女囚からも非常にしたわれていた。
未決監のくるしさはこれを体験したものでなくてはわからない。権力が万能とされ人間が虫けらのごとくにあつかわれた当時においては、なおさらのことである。既往症が再発し、手当がなされないためこれをこじらせ、またあらたに病におかされるなど、ほとんどの被告人がその苦痛をうったえたものである。そのため保釈出所後につぎつぎとたおれ、事件解決の日を待たずして世を去った被告人は、一二人のおおきをかぞえた。しかしこうした苛酷な環境のなかにおいてさえ、本来の信仰がうしなわれることはなかった。取調べがすすむにしたがって、当局側による捏造の実態が暴露され、事件の真相があきらかとなり、はげしい拷問のなかで信仰的信念はさらに強固とさえなった。権力の非道にたいするいかりが心の底からこみあげ、不屈の精神をよみがえらせたものであろう。当初の衝撃からいちはやく立直り、灰色の牢獄さえ己が天地となして、積極的に生きぬいたのである。
王仁三郎が八重野にあてた書簡には、〝思はざる事のみ次ぎ次ぎ重なりて吾はますます心かたまる〟〝風にさえも漸く初夏の声ありて更生の気は天地にあふるる〟〝初夏の風青垣山を清めつつ渡り行くかも心すがしく〟などの歌がしるされているが、この書簡は昭和一一年五月八日と一三日にかかれたもので、五月といえば綾部・亀岡の両聖地が官憲の手によってうち砕かれつつあった、まさにそのときであった。
〔写真〕
○民衆の生活は窮迫したが……なおもむなしいスローガンにむちうたれた p490
○激動する日本の歴史 狂暴化する権力 そのなかでの法廷闘争は昭和11年3月から9年6ヵ月にもおよんだ 第一審公判廷①判事席②検事席③弁護人席④被告人席⑤傍聴人席 p491
○人間であることをゆるさぬ非情の世界……京都の中京区刑務支所 p492
○親子が…夫婦が…友人が…たがいに手をとって語りあえる日をひたすらにねがいつづけた 未決にある子への手紙 p493
○つかのまの運動も高いレンガ塀にかこまれたなかで監視され 自由に太陽をあび 外気をすい 大地をふみ そして語ることさえゆるされなかった 被告人がかいた山科の京都刑務所の戸外運動場 p495
○身は地獄の生活にありながら家族や信者へのこまやかな情愛にみちあふれていた 二代教主出口すみ子の手紙 p496
○つねにかわらぬ温顔……愛用の化粧箱を手に中京区刑務支所へおくられる二代教主 京都五条警察署 p497
○不屈の信念にもえる聖師の胸中にはすでにあらたな構想がえがかれていた 聖師の書簡にしるされた歌 p498