文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名323 大本の発展よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
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大正六年一月から雑誌「神霊界」が発行され、開祖の筆先は大本神諭として、はじめて発表されることになりました。なお「綾部新聞」が発行されたのが十二月でありました。
大正六年旧三月十五日・東石の宮の鎮座祭、旧九月七日・神島遷宮祭、旧十月十五日・大八洲神社鎮座祭というように神業は発展するとともに、神苑内の造営工事は着々とすすんでゆきました。大正五年の冬、浅野和三郎氏が入信し、大正六、七年ごろから智識階級の人々が続々と入信して、大本の名は全国的に注目されるようになりました。それと同時に、他の宗教家よりの攻撃となり、新聞雑誌等の非難嘲笑となって来ました。世の立替立直を呼号して、傍若無人の態度で進出した大本が非難攻撃の的となったのは、むしろ当然であったかも知れません。
大正七年、聖師四十八歳の時、旧十月三日、開祖出口なお子刀自は八十三歳をもって昇天されましたが、その後は聖師がまったく矢表に立たれたのであります。
大正八年、九年という年は大本が最も積極的活動をつづけた年でありまして、大正八年には教祖殿、弥勒殿、黄金閣、教主殿等の立柱式、上棟式、落成式などがおこなわれ、作業課は昼夜兼行の多忙をきわめるとともに、神苑の面目が一新されました。本宮山が大本の手に入ったのも、亀岡城趾が大本の所有となったのも、みな大正八年であります。大正九年には綾部の至聖殿の工事が完成し、亀岡には大道場が落成して八月五日から十日間、夏季講習会が開かれ、大阪の大正日々新聞の買収、引きつづき八月二十五日から大本の経営によって日刊新聞が発刊されることになりました。綾部においては本宮山神殿の上棟式が行われ、大本は隆々たる勢いをもって発展して行きました。