文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名327 世界紅卍字会との提携よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
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大本が中国の新しい信仰団体たる道院(その活動団体を世界紅卍字会という)と提携することになった動機は、大正十二年の秋の関東大震災の時のことであります。
道院では扶乩という神示にしたがって活動しているのでありますが、この大震災の起こるべきことについては、あらかじめ示されてあったので、紅卍字会中華総会は幹部の侯延爽氏の一行を東京に派遣して、米二千石と銀五千ドルを贈りました。
扶乩には「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」とあったので、侯氏は東京の見舞をすまし、あちこちとさがして天理教の本部へも行ってみましたが、扶乩に示されたものではなかったものですから、ひとまず帰ることとし神戸へ立ち寄った際、ふと眼についた新聞記事――それも大本を悪罵した記事ではあるが、読みゆくうちに何となく道院と関係があるように直感し、十一月三日綾部に行き二代教主と会見、そして四日、聖師と会見して、ここに二つの団体は相結ばれることになりました。
ついでにここで道院の起源について述べておきます。孔子を出した山東省の首府・済南から東北約七十里のところに浜県というところがあります。大正五六年のころ、その浜県知事の呉福森という人と当時浜県の駐防営長・劉紹基という人が二人で、県署の尚真人をまつる大仙祠で神壇をもうけ、神仙聖仏の降臨をあおぎ神託をうけていました。
尚真人というのは、唐の紀元後第一の甲子八月朔日に生まれ、のち宋の天佑二年二月二日化身し、宋が南に移ってのち、第一甲子の年八月朔日成道して仙籍に入ったと言い伝えられています。
ある日、尚真人が神壇に降って左の意味のお示しがありました。
「老祖久しからずして世にくだり劫を救い給う。まことにこれ数万年あい難きの機縁なり。汝ら壇を設けてこれを求めよ。」
この老祖というのは、至聖先天老祖と申し上げ宇宙の主宰神であります。
道院においては、老祖を至尊至貴の神として奉斎し、その下に万教同根の真理にもとづいて、老子(道教)釈迦(仏教)キリスト(基教)マホメット(回教)項先師(儒教)の五大宗祖をまつっています。
道院の設立は大正十年旧二月九日で、済南道院は各道院の母体として母院と称し、北京の道院を総院と称えていました。
扶乩は昔から中国に伝わる神示の形式であります。道院の人々はこの扶乩に示されたことを、神示として絶対に信じています。
この扶乩には乩筆というものがあって、木製の周囲約二寸、長さ三尺余の丸い棒で、その中央に五六寸のサキのとがった棒をとりつけた、つまりT字形になった長い棒であります。二人の人がいて、一人は右手で、いま一人は左手でこの棒の両端を持って、中央に沙盤の中に盛られた白い沙の上に、中央の五六寸の棒のさきで文字を書くのであります。
沙盤というのは三尺ばかりの正方形の深さ二三寸の木箱であります。
これは自動書記の形式で書かれるもので、「巫」という文字は扶乩の象形文字であります。「靈」という字も、雨は天(神)を表し、口三つは神前に供える三宝、その下に巫という形になっているものです。
この扶乩によって神示を仰ぐのは神前において行われます。そうでない場合は別に神座を設け燈明を点じ香をたき、神饌をささげます。これを壇ととなえ、壇における神示を壇訓と申します。これに奉仕する人々は実に敬けんな態度で、役職の順に壇に向かって神前に礼拝し、纂者(乩筆を支え持つ二人)が精神統一の状態に入ると、乩筆がおのずから動いて、沙盤の沙の上に文字が書かれるのであります。
文字は纂者からみれば横になって現われ、沙上に書かれた文字を読み上げる人を宣者といい、これを記録してゆくのですが、記録する人を録者とよんでいます。
その文字をつづり合せるとリッパな文章になっており、その書かれる速度は、普通一時間に千五百字から二千五百字ぐらいであります。沙上の文字は読み上げられるごとに、纂者によって板で消されてゆくのであります。
降臨する神霊は、老祖をはじめ五大教の宗祖その他諸神仙聖仏で、最初にいかなる神霊の降下されるかが示されて、それから神示が出るのであります。
かくして世界紅卍字会との提携によって、大本の世界的発展は着々とすすみ、翌十三年三月六日神戸市に、まず神戸道院が設立されることになりました。
ちなみに、世界紅卍字会は、当時華北から満州にかけて特に信者が多く、中産階級以上の信者約六百万と称せられ、中国における最も有力な信仰団体でありました。