本文
畏くも明治聖天皇の降し玉へる教育大勅語の初まりに
『朕惟フニ、我皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。』と
斯う云ふ御勅語があります。皇祖天照皇大神様が、更に天上の主宰と成られて、斯の国を御開きになつた、所謂斯の国は国常立尊が修理固成なされて、始めて天地が分れたのであります。さうして伊弉諾尊が天上の君を御拵へになつて、次に皇孫瓊々杵尊様が、斯の国へ御降臨遊ばされました。それから今日まで約一百七十九万五千○五十余歳になるのであります。明治の初年に誤りて、神武天皇様御即位の時を紀元として数へたものですから、紀元二千五百八十年と云ふ、極短かい世紀に成つて居りますが、実は日本はモツト古い古い国なのであります。併し二千五百八十年と致しましても、外国の『モーゼ』よりは長がく、支那の歴史よりも長がく成つて居ります。是は確に日本書紀の名文に在るのであります。御勅語の『国ヲ肇ムルコト宏遠ニ』とありますのは、非常に遠いと云ふ事であります。宏はひろい、遠は遠いと云ふ事で、非常に遠い昔の事、今年で一百七十九万五千○五十余年程になると云ふ古い国であります。外国を見ますと、米国でも、仏蘭西でも、其他の諸強国、小国も、始終主権者が替つて居るのであります。支那も二十回許り替つて居ります。独り我国は世界に冠絶して、我皇祖皇宗が国を御肇めになつた事は、実に宏遠なるものであります。我が皇祖は宇宙一切を御創造なされた所の神様で、唯地球上の事許りではない、太陽系の天体も御造りになられました。天体学から言ひますと、銀河の中だけでも、三億の天体があると言ひます。斯う云ふ様な大きな天体も、皆な我が皇祖が御造りになられたのであります。一秒時に十九万英里も走ると云ふ光線が、太陽系天体の属星である所の天王星、海王星から、我が地球に其の光線が達するのに、二年以上もかかるのであります。之を見ても、太陽系天体の如何に宏くして大きいかが分ります。実に広大無辺にして、其の宏遠なる事は、到底人間の口で言ふことは出来ぬ。無始、無終、無限、絶対の物であります。大太陽系天体の殆んど中心に、我が太陽系天体がある。其の太陽系天体の殆んど中心に地球があり、地球の中心に我が日本国が在るのであります。地理学者は東洋、西洋に分けて居りますが、地質学から云へば、豊葦原瑞穂国の中津国が、地球の中心であります。其の中津国の中心に京都地方が在るのであります。其の中津国を御開きになり、安国と平けく治め給ふ為に、皇孫が降臨されたのであります。
国と云ふ事を、日本書紀には六合と書いてあります。是は天地四方天地間一切のものを指して、国と云ふのであります。人民があつて、土地があつて、主権者がある。之を国と言うて居るが、是は国ではない、国家と云ふだけであつて、国と云ふ事は、宇宙全体を指して国と言ふのであります。是は言霊学上の解釈であります。御勅語にも『国ヲ肇ムルコト宏遠ニ』と仰せられて居りますが、国家と云ふ事は書いてありませぬ。次に『徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ』と仰せられて居ります。『樹ツ』は立つてもなければ建つでもない、所謂下津岩根に根を張つて、上に向つて木が樹つて行くが如く、日を追ひ月を重ねて、段々茂つて行く所の教と云ふ事であります。基督教にしましても、マホメツト教にしましても、仏教にしましても、或時は栄へますが、又或時は衰へて参ります。さうして教祖とか、教主とか、法皇とか、法主とか、管長とか言ふ方は、必ず一大教権は有つて居りますけれども、是は唯信者間に於ける権力である。信者以外には何の権力もありませぬ。併し主、師、親の三徳を惟神に具有し給へる我が天津日嗣天皇様は、宗教の如何を問はず、皆な等しく赤子として愛撫され玉ふのであります。外国の教を信ずる所の耶蘇教徒も、印度の教を信ずる所の仏教徒も、亦デモクラシイとか、何とか色々の説を唱へて居る所の国民も、或は我が皇祖皇宗を崇め奉つて、御祭りになつて、祭政一致の国体を守らせ給ふ天皇陛下の大御心を拝して、皇祖皇宗の神様を祭り、忠良なる行をして居る所の皇道大本も、皆な等しく陛下の赤子であります。さうして同じ様に愛撫して下さるのであります。外国では宗教が違ふたならば、直ぐに血を見る争が起る、宗教戦争と云ふものが起つて参ります。併し我が日本国は古より宗教戦争と云ふ事は起らぬのである。天草の乱位が関の山であつた。さうして我が皇道は、日月と共に万世不朽に栄へて行くのであります。而して其の時代々々に順応して益国体の精華を発揮されるのであります。国の乱れた時には、志士仁人が現れて来る。日本の歴史を見ましても、国家の危機に瀕する時は、志士義人は四方八方に、雲の如く起つて皇室を守り、国家を泰山の安きに置いて居るのであります。是は他処の国に見る事の出来ない所謂『徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ』で、実に深く、厚く、万国に其類を見ざる所の尊い国体であります。
徳と云ふ字は、『彳』に直で『トク』とは直と云ふ事で、即ち直なる人─直なる人の行と云ふことであります。それで日本の国には、名、位、寿、富が天賦的に備つて居るのであります。天津日嗣天皇様は世界に類の無い、本当に生きた所の神様であります。即ちそれが『名』であります。又此の位置は他にない。此の位置を動かすことは何人と雖も出来ないのであります。天津日嗣の御位は、何者と雖も動かすことが出来ない、さうして日本の国は天壌と与に窮り無く、万世一系で何時迄も続いて行くと云ふ、即ち是が『寿』であります。さうして徳を樹つること深厚なりとの御神諭が、実行されて居るのであります。次に『富』と云ふ事でありますが、是は金銭許りの富ではありませぬ。日本人は忠孝、或は敬神、尊皇、愛国心に富んで居ります。又風景に富んで居り、山紫水明の土地であります。さうして五穀豊穣、山青く、水清く、魚美味にして、凡ての富、天恵が日本の国には備つて居るのであります。他の国もさうでありますが、併し日本のやうな特別な恩寵を蒙つて居る所は無いのであります。人間個人としても、此の名位寿富は必要であります。神様を信仰する時には、名も位も欲しくない、寿も富もいらぬ、唯御国に尽すのみと云ふ人が、往々在るやうですが、実際に於て、是は言ふべくして行ふことは出来ないのであります。名、位、寿、富は、人間生活上是非必要なものであります。
身に貴き所のものは名位寿富にして、之を与奪する者は大霊魂なり。是即ち神賦の正欲、俗学悟らず、自暴自棄し、将に貴きを外に求めんとす。何ぞ夫れ得べけむや。
とありますが、大霊魂と云ふとは、天照大神様の事であります。是即ち神賦の正欲、俗学悟らず、『自暴自棄し、将に貴きを外に求めんとす。何ぞ夫れ得べけむや』と申す事は、此の世の中に於て、名位寿富を捨てたならば、国家に報ゆる、或は君に忠義を尽すと云ふことは出来ないのであります。仏教や基督教、或は腐れ儒者の如き、或は誤りたる信仰をして居る人々は、名位寿富を度外に置いて居ります。併し決してそんな訳のものでは有りませむ。
次に天の平等愛に就いて一言したい。之を譬へて言ひますならば、今此処に善人と悪人とがあります。さうして悪人が栄え善人が衰へると言つてからに、非常に疑を起す人があります。もう一つ例を挙げますれば、鬼寅と云ふ人がある。此の男は非常に無慈悲な男で、利を高くして金を貸して居つて、若し返さなければ鍋や釜迄も持つて行つて了ふと云ふ様な男であります。又下女などが、僅か二銭か三銭の茶碗を割る、さうすると非常に怒つて罰金を出せ、四十五円の罰金を出せと、斯う云ふ事を云ふ。何の為に四十五円出さなければならぬかと云ふと、是は私が四十五年許り前に買つたものであるから、其の利に利を盛つて勘定して行つたならば、四十五円になる。其の宝を割つたからには、夫れ丈けの金を出さなければ私の損害になる。斯う云ふ様な男である。夫れで出す所のものは手を出すのも嫌や、貰ふものならば、牛の骨でも抱へ込むと云ふやうな男、其の鬼寅が段々金が出来て立派な家に住む、さうして人に羨まれて居ります。又一方に仏の善兵衛と言つて、仏様のやうな人があります。人の事を気の毒に思つて、人に逆らはぬやうにし、何でも彼でも人の為めと思つて、慈悲許りを旨として居ります。併しさう云ふ人に限つて、明日の米も無いと云ふやうな悲惨なる目に遭つて居ります。斯ふ云ふ有様では、此の世の中を何う考へて善いのか、悪人栄え善人衰へる。世の中には神も仏もないものか、天道是か非か、斯う云ふ嘆声を漏らす者があります。此の問題に就て、基督教の牧師に尋ねると此の世の中は僅な仮の世の中ではないか、仮令長生きした所で、高が五十年か百年位のものではないか、斯んな短かい世の中に何があつた所が差支ないではないか、神様は慈悲深くて、数億万年不滅の霊魂を与へて下され、結構なる天国に、亡びず一々直き直きに報ゐはない。さうして善悪の別なく、皆天国に行けるのであると言つて、胡麻化して居ります。仏教の坊様に之を質すと、坊主の言草に輪廻と云ふことを言つて居ります。此の鬼寅は前の世には非常に善い事をした、百の善い事をして来たので、其の報ひが今廻つて来たのであります。であるから百の悪いことをしなければ神の懲罰は来らぬのだ。それで現世では悪い事をしても栄えて居るのである。神様は公平であります。片一方の仏の善兵衛は、此の世では善人であるけれ共、非常に悪い事を前世に於てした。嘗ては泥棒もし、人殺抔もして、百の悪事を重ねて居るのであるから、現世では百の善い事をなさなければならぬ。それで現世に善い事をして居つても、其償ひの付く迄は、善い報が来ないのである。若しそれでも足らなければ、現代に於て罪の償却が出来なければ、来世に渡つてでも善行を積んで罪を償ふ。詰り二度位はしなければ、償へないと云ふやうな事を謂つて逃げて了ふ。鬼寅は未だ善果が残つて居るかも知れないと言つて逃げて居ります。是は皆正鵠を失して居る。神様は即賞即罰であります。今善を思へば心持が直ぐ善くなり。善を為せば、直ぐ夫れ丈けの喜びが出て来ます。善の種を播けば、夫れ丈けのものが直ぐに現はれて来るのであります。例へば草の種を蒔けば草が生える。籾を蒔けば稲が生えると同じやうに、直ぐ善悪の報ひは影の形に従ふ如く忽ち顕はれて参ります。
次に富と云ふことでありますが、是は衣食住を目標として居ります。金が沢山出来ると、色々の贅沢な事をして居りますのを、世の人は富者と羨み、有力者と思つて居る。すべての人は斯う云ふ人を、非常な幸福者だと思つて居ります。さうして命を縮めても、人に悪魔と言はれても、何と言はれても、頓着なく蓄財ばかりに夢中になつて居ります。全く世の中の人は食と色、是より外に何もない様に思つてゐます。人間が若し食ふことと色ばかりであつたならば、実に無意味なるものであります。昨日死んだ三井の主人よりも、今日生き存へて居る乞食さんの方が幸福ではありません乎。何程宝があつたとて死んで了つたならば、何んにもなりません。矢張命あつての物種であります。若しも仮りに大悪人が死罪を犯して、裁判所に引張られる、さうして、仮りにその財産が五百万円あるとしたならば、罰金として命よりも大事に貯めた所の金を、四百九十九万九十円まで政府に提供したならば、汝の罪を赦して与ると宣告したとするならば、矢張り金が欲しくても命の方が大事なのであるから、金を出すに決つてゐる。又一百円だけ残して、四百九十九万九千九百円を出せと宣告されても、亦全部出せと言はれても、彼は必ず出すに躊躇しないでありませう。いくら六十になつて、棺桶に片足を突込んで居つても、矢張り命が尊いのであります。此の如く世の中の人は名、位をすてて、寿を捨てて、只無意義な富のみを得る事ばかりに狂奔して居るのであります。而して此の命よりも、今一つ尊いものは人格であります。命を捨てる場合は、所謂意気地が立たぬとか、或は家名を損するとか、武士道が立たぬといふ場合であります。即ち位置と名を重んじて、命を棄てると云ふことであります。それで鬼寅は非常に富を得てをります。又仏の善兵衛は長寿をして、他人から人格者として褒められてをります。併し天の配剤は妙なもので、人間を愛するといふ上に於ては、決して厚薄がないのであります。唯甲を取つたか、乙を取つたかといふ丈でありまして、決して仏の善兵衛でも、神から見れば完全なものではない。鬼寅も亦た左様であります。何故かと云ひますれば、四魂の働きが完全に出来てゐないからであります。
勇 智 (鬼寅)
愛 親 (仏の善兵衛)
鬼寅には、忍耐即ち勇気と智慧がありますが、人を愛する親むといふ事が欠乏してをります。仏の善兵衛には人を愛する、親しむ事は大慈大悲の神様の如きものがありますが、勇と智が足らないのであります。要するに両方共不具であります。即ち勇智愛親の全き働きを為なければならんのであります。斯う云ふ事は明なる道理である。又名位寿富は自然に備つて居るのであります。然るに基督教も仏教も、前申しました様に皆遁辞を設けて逃げて居るのであります。
皇道大本の教は極めて明なるものでありまして、少しも不可解な所はないのである。此の勇、智、愛、親を働かすと云ふのには、何うしても神様の御恵が加はらなければならぬのであります。それで此の鬼寅にも、何処かに足らぬ所があり、又仏の善兵衛にも、何処かに伴はぬ所があつて、共に神様から見離されて居るのであります。必ず天の恵は平等なるものであります。決して人に依つて厚薄は付せられぬのであります。故に人と云ふものは神を信仰して、大君の為に、国家の為に、世の為に尽さねばなりませぬが、夫れを実行するに就ては、何うしても名、位、寿、富と謂ふ四種の正欲が最も必要となるのであります。今迄の世の行者とか、山伏とか云ふものは、名、位、寿、富を棄てて了つて、山奥に隠遁し、白衣を着て、蕎麦粉を食べて、営養不良となるのも介意ずに、世には之より外に尊いものがないと云うやうな考を起して、斯う云ふことを行ひつつあります。或は山巡りをしたり、山奥の滝に打たれたりして、一生懸命にやつて居つて、何か神通力でも得らるるものの如く考へて居りますが、斯んなことでは、迚も国の為に尽すことは出来ませぬ。仮令、天眼通、天耳通を得られたとしましても、それは皆悪霊の作用であります。悪霊に魅せられて居るのであります。畏多くも衣冠束帯の装束を著けて、御神殿に畏み畏み申上げる所の祝詞を、滝に打たれ乍ら褌一つになつて、奏上て居ると云ふことは実に怪しからぬ話であります。又裸体詣り、跣足詣り抔を致して居る人などもありますが、実に是等は不敬の甚だしいものであつて、真正の神に仕ふる大道を謬つて居ると謂ふものであります。皇道大本の浅い信者の中には、往々にして斯んな誤解をして居る方々が在るさうですから、是等の陋習を一日も早く、速川の瀬に流して頂きたいものであります。
例へば我々に致しましても、目上の人の所へ行くには相当の服装をして、威儀を正して行つてこそ、その人に対する礼儀であります。まして尊い神様に対して、裸体や跣足で祝詞をあげる如きは、非常な間違であります。又中には、能く山奥の神社などに行つて、滝に打たれて、祝詞を上げる人もあるさうであります。又その人に付いて、山巡りや滝巡りをして面白からぬ目に遭つた人もあります。詰り是等は、皆昔の間違つた、所謂旧来の陋習を踏襲して居るのであります。彼の五ケ条の御誓文にも『旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし』とありまして、天地の公道といふものは、さういふ様な奇怪至極な、変つたものではないのであります。すべて人間として、明かに分る所のもの、これが即ち天地の公道であります。さうして、神様の事は深遠霊妙にして、我々人智小智の窺ひ知る事が出来がたいのであります。けれども人間は神様の分身、分霊でありまして、量に於ては少いが、質に於ては同じ事であります。唯働きが小さいのでありまして、洋々たる大海の水が神様のみたまならば、我々は此のコツプに盛つた海水の如きものでありまして、全く其の働きが違ふのであります。併し其の海水の透明なると、其の味の塩辛いのとは同一であります。即ち質は同じでありますが、量に於て違ふ所があります。同質同味でも、海水は巨船を浮べる、コツプの中の海水は、小さい木の葉を浮べる力より無い。其の働きが全然違ふのであります。又人間の身体には罪穢があります。我々の身体には異分子、異物が沢山這入つて居つて、非常に汚れて居ります。それでありますから、霊魂も、身体も清めなければなりませぬ。又我々には天から受けた魂がありますが、其霊魂にも亦異分子が一杯這入つて居りまして、横さまに歪んで居るのであります。之を大本の鎮魂帰神の神法に依つて真直にする、さう致しますと、始めて天帝に感応致します。宇宙の太霊に感応した時に、始めて神心となるのであります。その時に背筋が真直になつて臍下丹田に魂を収め、全く無我無心になります。さう致しますと、すぐさま影の形に従ふ如く、神様から霊を与へられます。それで頭がフラフラしたり、身体が押へつけられる様になつたり、色々感ずるのであります。
例へば、兵士が背嚢を背負つて五六時間歩いて、或る地点迄行つて休んで、再び背嚢をかつぐと、俄に重いやうに感じます。それと同じ如うに鎮魂を致しますと、俄に神様から霊を還して頂きますから、頭がフラフラしたり、身体が重くなつたやうに感ずるのであります。斯くの如く神様は即賞即罰でありまして、影の形に従ふ如く即刻与へられるのであります。併し前生がどうのとか、未来を如何様とかと云ふことはない。けれ共霊魂の因縁性来といふ事はあるのでありますが、是と其れとは意味が違ひます。即ち此れは樹の枝の如きもので、或は一の枝もあれば、二の枝もあります。此の幹と枝とは、皆各々其の働きが異ふのであります。お筆先に幹の神と、枝の神といふ事がありますが、此の事であります。
小精神は動静常なく、出没窮りなし。その声音に顕れ、其皮膚に形はる、聖賢其意を秘す能はず、小人其想を隠す能はず、乃ち神憲の掩ふべからざるもの蓋し斯くの如し。
人の心を霊学上から申しますと、小精神と云ふのであります。神様の御心を大精神と申します。大海の水とコツプの水との働きが違ふ如く、矢張り是も同様に違ふのであります。神様は器相応のものを与へて下さいます。それで大きなものを貰はふとするならば、成るべく大きな容器をもつて来ねばなりませぬ。それでありますから、この小精神を大きくせねばなりませぬ。譬へば一斗のものならば一斗丈けのもの、一石のものならば一石相応のものを与へて下さいます。人心と云ふものは動静常なく安定して居らぬものであります。大海の水は中々波が起りませんけれども、その水をコツプへ汲んで来て、チツト振ると水は飛上ります。之を海にしましたならば舟も転覆る斗りか、山も呑んで了ふ大海嘯になります。そのコツプの水のやうに、人間の心は直ぐにひつくり覆るのであります。譬へば曇つた闇の夜には、人心が陰鬱になり、皎々たる月夜には、晴れやかになります。曇つた日には気が鬱陶しくなり、晴天にはのんびりとした心地になる。斯くの如く動静常に窮りないのが小精神であります。
嬉しい時には、直ちに嬉しい心が、その声音に現はれ、又皮膚や顔に現はれ、悲しい時には、悲しい声が出て悲しい顔をする。怒つた時には声が尖り、眼が釣り上つて、面相が変つて来る。之が人間の心であります。又本居宣長翁の歌に
動くこそ人のまごころ動かずと いうて誇らう人は岩木か
即ち世間普通の偽善者、偽聖人などは、負けん気を出して、何事が到来しても、吾人の心は動かぬというて誇つてゐるが、斯んな人は血の通うた人間では無い、岩か木かと謂つて、嘲けられた歌であります。
彼の千代萩の芝居を見ますと、男勝りの政岡が、実の子供が目の前に嬲り殺しにされて、苦しんで居るのを見せつけられて、それでも平気で見て居ります。君の為でありますけれ共、心の奥には涙一滴出ぬ筈はない。或は顔色に現れて居つたに違ひないのであります。それでなければ人間ではないのであります。之が惟神でありまして、喜怒哀楽ある時には、其の声音に現れ、皮膚に現れて来るのであります。聖人賢人と雖も、それを秘す事は出来ない。嬉しい時に怒り、悲しい時に笑ふと云ふ事は、決してない。若し其の悲しき場合に笑つたならば、それは空笑ひ、偽りであつて、佞人であります。怒る時には怒り、笑ふ時には笑ふ、又泣く時には泣く、之が惟神の大道、天地自然の真理であります。『聖賢其意を秘す能はず、小人其想を隠す能はず』聖賢既に然り、小人尚更隠す事は出来ないのであります。『乃ち神憲の掩ふべからざるもの、蓋し斯くの如し』とあつて、一点の掛値のないのが、即ち之が神界の憲法であります。
如何しても心の色を隠すことは出来ぬ。嬉しい時には嬉しい声が出て、嬉しい顔をする。斯くの如く、人間の声音又は皮膚に現れて参ります。神様も其通りでありまして、即賞即罰であります。善い事をすれば、直ぐにお歓びになり、且つ御賞めになり、悪い事をすれば、直ちにお怒になり、お歎きになるのでありまして、人間と全く同じ事であります。
左う致しますれば、人間は造次にも顛沛にも、些少も悪を思ふことは出来ない。常に善い事を思ひ、善ひ事を行ひ、善い事を言はねばならんのであります。思ふ、言ふ、行ふ、之れが皆善でなければならんのであります。よく神人合一とか、又は霊肉一致とかいふ事を言ひますが、此の神人合一、若くは宇宙の太霊と感応するといふ事は、別に難しい事ではない。併し山の奥に行つて、神人合一の修養をしやうとか、又は巌窟に籠つて身体の垢を除つて、それから神人合一しやうとかいふものがありますけれ共、皆間違ひであります。
斯の神様の教─日本の皇道─は清潔主義、即ち『払ひ給へ清め給へ』といふのである。今日の衛生掃除なども其一分である。又楽天主義であります。斯の天地の間に生を享けたといふことは、非常なる楽しい事である、天のお恵みを心から楽しむといふ楽天主義であります。それから進取主義、即ち『弥や進みに進み、弥や迫りに迫り、山の尾の毎に追ひ伏せ、河の瀬毎に追ひ払ひてまつろへ和し』又『五十壇八桑枝の如く、茂木栄えに栄えしめ給へ』なぞと云ふのでありまして、前に進んでも後には退かんといふのであります。それから統一主義即ち家内を和合するのも、一国を和合するのも統一する事である。又自分の霊体を一致するのも統一さすことである。凡べて斯う云ふ統一主義であります。
この清潔主義、楽天主義、進取主義、統一主義との四つが皇道の四大主義であります。それで神人合一すると云ふ事も、余り難しいことではない。過去を思はず悔やまず、未来を案ぜず取り越し苦労をすることがない。明日の事は人間では解ることが出来ないのでありまして、今と云ふ瞬間、即ちこの刹那が大切であります。詰り刹那主義でありまして、この瞬間に神とも成れば、鬼ともなり、善ともなれば、悪ともなるのであります。所謂善悪正邪の分水嶺なのであります。善い事をすれば、その瞬間から善い事があります。宇宙の神様が御喜びになるのでありまして、すぐその場に効果が現はれて来るのであります。実に今といふ刹那が大切であります。もう一秒時間前に過ぎ去つた事は、後に戻らんのでありまして、昔平清盛が扇で日輪を招きもどしたと伝へられ、後に熱病を起して死んだといふ事を、小説に言つて居りますが、なんぼ清盛が偉いと云うても光陰をかへす事は出来ないのであります。
又是から先の事を幾等考へた所で、到底人力の如何ともする事は出来ないのであります。時─時節と云ふものは、全く神様の自由であります。此の今と云ふ刹那が、即ち自分の最も大なる働きをする。即ち自由自在に活動する時であります。此の瞬間を重ね重ねて、一時間となり、一日となり、一年となり、或は百年、千年、万億兆年となるのであります。斯う云ふ工合に、時はドンドン進んで行くのであります。例へば是から東京に行かふと思ひますれば、京都から逢阪山、江州や名古屋を越えて行かなければならぬが、途中に若しや病気でも起りはせぬかとなぞと、さう云ふ事は別に心配する必要はない、自分の足は一歩々々進んで行くのである。唯大切なのは、左から右にかやす瞬間で、此の瞬間に無事息災に、真直なる道を歩いて行つたならば、遂には思ふた目的地に達する事が出来るのであります。それで人間は人間の天職を自覚して、其の天職に向つて、一つの針路を定めて進んで行つたならば─左から右にかやす刹那を守つて行つたならば、何時も善であります。善悪正邪の分水嶺は、此の刹那に在るのであります。此の刹那を守つて善に進んで行き、天地を楽んで─楽天主義で、精神を統一して、過ぎ去つた事を思はず、悔まず、取越苦労をせずに、一路目的地に向ひましたならば、遂には目的の地に安着し、何事も成らずと云ふものはありませぬ。之が即ち皇道の本義であります。