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文献名1暁の烏
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3(四)ミロク御用開始の機運到来。聖師様若返りのこと。よみ(新仮名遣い)
著者井上留五郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ104 目次メモ
OBC B116500c054
本文のヒット件数全 1 件/外国魂=1
本文の文字数2534
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本文  さてご修業が終わると間もなく、八木町の茶店福島久子刀自との会見を手ほどきとして、その歳の旧八月二十三日開祖様とのご対面となり、ここに初めて厳瑞二大神人のご誓約が結ばれ、一度あって二度となき大御神業の基礎が築かれたのであります。翌三十二年よりいよいよ大本に入られたのでありますが、その頃の大本はマダ準備時代とでも云うべき時でありましたから、ミロクの御用どころか聖師様に対する大本役員信者の誤解邪魔扱い、進んで排斥等、種々なる出来事の連発せしことは周知されているところであります。当時大本役員の信念は驚くべく真剣であって、従ってその献身的奉仕については模範とすべき点が多々ありましたが、一方極端に小さく凝まり眼孔はただ形の上における大本の内部が見ゆるばかりであって、たとえばイロハ四十八文字のお筆先の文句を極めて狭く解釈して、もし漢字を用ゆるものあれば外国魂として排斥したくらいであったそうでありますから、聖師様のご困難は言語に絶したものであったのでありまして、
「自分が近来までの苦労のうちで一番大なるものは、神授のミロクの御用のうち、一つでも忘れてはならぬと云うことであった」
と述懐されております。そのため大本に入らるるや第一番にこれを筆録しておくお考えでありましたが、大本の状況が前述の次第であるから、役員に隠れ忍び二代様が見張り番をさるるなど、永き年月の苦辛努力を続けて、今の霊界物語に相当する五百冊の大著述が出来上がったのであります。大体五百六十七冊のご予定であって、一冊の紙数少きは半紙五十枚、多きは五百枚のものでありましたが、惜しいかな、役員のためほとんど全部を焼却されてしまったのであります。幸いに一部分残留したものが今日珍重されている裏の神諭、筆の雫、道の栞等であります。
 大正五、六、七年頃になるといわゆる知識階級の入信となり、俄然隆盛となったのでありますが、やはりミロクの御用にお着手なさることが出来なかったのであります。それがいよいよ機運到来して大正十年旧九月八日より序幕が開かるることとなったのであります。ですから、大正十年秋までは聖師様のご意志が一つも行われなかったと云っても差し支えないのでありました。
 それについて左の事実を看過してはなりませぬ。それは聖師様のご身上についてかねて御神諭に予告してあった「一人もお伴の出来ぬところへ連れて行く云々」と云うことの実現であって、即ち大正十年二月十二日の京都未決監行きについてであります。このことについて御神諭には抽象的予告のほか明らかにこれを神示されている箇所もあるのでありまして、一方より云えば決定的の道程であって、思えば誠にご苦労な御役と云うのほか無いのであります。何分二十八歳高熊山ご修業より大正十一年五十二歳まで、二十五年間もミロク実地の御用が出来なかったのでありますから、一応復習的また準備的再度のご修業が必要であったのでありましょうが、多事多端の当時の大本において綾部ではもちろんその他何れのところでも信者の来訪、雑事の煩累により、適当の場所と時とがなかったのであります。またご在監日数の百二十六日も基督聖書の千二百六十日と対照して深き意義が認めらるるのであります。ご帰綾後、旧九月八日ここに初めて「霊界の消息を開示せよ」とのご神命が降りましたので、十日間の斎戒の後、旧十八日(新十月十八日)より霊界物語のご口述を始められたのであります。これは実にミロクの御用の始まる満一年前であって、この一年間においてその十二巻までは製本までも出来上がり、従って百二十巻に亘るところの大綱はこれにて一応信者に開示されたわけでありまして、神様の御恵みが水も漏らさぬ周到さであることが窺わるるのであります。
 また同時に聖師様に対して「二十八歳当時の元気に若返りさしてやる」との神示があったのであります。前述せる如く二十五年間は神と神との戦い、神と人との経緯また日本と世界との関係が大本において実地的に示され、大本人をして神業参加者としての総てに亘りての体得を為さしむべき御経綸であったので、ミロクの御用が延びたのもまた一面やむを得ざる次第でありますから、かく神恵があったことと思われます。これについて聖師様の肉体的変化は大正十二年夏、九州小国支部において撮影されたとき三十歳以下の若さに写ったのが最初の現れであって、その後の写真がみなそうであるばかりでなく、十八貫前後の体重がその年の十二月には二十一貫近くに上り、ご血色も非常に良くなり、例の病的感覚もなくなり、いわゆる元気溌溂たるを見るようになったのであります。(霊界物語山河草木卯の巻 巻頭のお写真は大正十二年夏の撮影)
 ご近詠に
五十五の春迎へしと人はいふ
   吾は三十路の花の真盛り
 十二年十二月より全然ミロクの御用に進展して来たのであります。かの十一年旧九月八日より今日に至るまでの大本の出来事を考えてみると、先ず役員の改選に始まり、エスペラントの実習、ローマ字会の設立、聖師様の四国九州北陸行き、蒙古入りの快挙、海外宣伝の実施、甲子の大本大改革より本年春季大祭までの数回の改革整理、亀岡天恩郷の大発展は人類愛善会総本部及び世界宗教連合会東洋本部の設立、光照殿、月明館、大祥殿、宣霊社の竣成となり、その他引き続いての諸経営、頻々たる諸種の出来事はいかに御神業の現実的に進展しつつあるかに気付くのであります。
 大体、ミロクの大神様が大本に御上がりになったのは大正五年五月神島開きの時であって、神界にては特記すべき大神業でありましたが、神現一致のお働き即ち現界的ご出現は実に大正十三年十一月一日(旧十月五日)聖師様の大阪刑務所未決監よりご帰綾の日であったのであります。大本の岩戸はこの日をもって開かれたのであります。聖師様の保釈ご帰綾についてはご入監当時神示されたのでありまして、そのご神示は 一、詩歌を五百作り上げたる時。一、大本西門竣成の時。一、紅葉のあるうち。一、九十九の坂を越えて帰綾のこと、の四つでありまして、これがことごとく的中実現したのであります。また蒙古入りの快挙がいかに重大なる意義を有するかは、現に判りかけつつあるのであります。
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