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文献名1暁の烏
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3(八)身魂みがき。よみ(新仮名遣い)
著者井上留五郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ200 目次メモ
OBC B116500c118
本文のヒット件数全 2 件/身魂相応=2
本文の文字数5820
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本文  身魂みがき即ち心身の修養は、人生の最大緊要事であるだけにその方法は、古今今来説きつくされているところであります。お互いはさらに入信以来未聞の真諦を開示説与され、この上なき神恩に浴しているのであるから、この度のご訓示をまたずして身魂みがきが出来るわけでありますが、神様の御恵みはさらに手をとって実地のやり方を教えていただくこととなったのであります。
一、身魂みがきの本義は、生きながら天人の情態となり天国に籍を付けておくこと。
一、身魂みがきの目標としては、瑞月聖師、二代教主、三代教主に対し、直接間接を問わず、常に迷惑をかくる如き言行の一切なきよう反省するにあること。
 これが身魂研きの心得としての主要点であります。聖師様は
「天人の養成所たる現世においてすら天人の情態になることの出来ないものが、ドウして死んでから天人になれるものか。永らく中有界にて苦行するのは当たり前である」
と教えらるるのでありまして、吾々は生前において是非とも天人の情態に身魂を研き上げておかねばならぬのであります。御神諭に
「金銀宝何ほど積んでみたところで、正勝の時には何の役にも立たんぞよ。何ほど学問ありたとて、智慧あり力ありたとて肝腎要の時来たら誠の力にはなりはせんぞよ。親兄妹とても欲にかけたら公事いたす悪魔の世に、頼りとなるは真の神よりほかにはないぞよ。この代の息の切れる時、どこまでも智慧となり力となり道連れとなって守って下さるのは、平素神に尽くした信仰の光りばかり、親兄弟も友達も誰も付いては来てくれず、ただ一人冥途の旅をせなならぬ。モウその時は金でも智慧でも学でも何の役にも立ちはせんぞよ。天地の神を頼依に致して御魂の安心さしてもらうよりほかに一つも道はないから、肉体のあるうちに神に縋りで世界のために誠一つを貫きて、幽冥へ旅立ちいたす時のご用意なされ。この世におる時の思いとは、幽冥へ往けば大変に思わくが違うぞよ。神は人民を安楽に暮らさしたいのが、昔からの胸一杯の願いであるから……」
 霊界物語、舎身活躍、巳の巻(四十二巻)の総説に
「死後高天原に安住せんとして霊的生涯を送るということは、非常に難事と信ずるものがある。世を捨て、その身肉に属せるいわゆる情欲なるものを一切脱離せなくてはならないからだと言う人がある。かくの如き考えの人は、主として富貴よりなれる世間的事物を斥け、神、仏、救い、永遠の生命という事に関して、絶えず敬虔な想念を凝らし、祈願を励み、教典を読誦して功徳を積み、世を捨て、肉を離れて、霊に住めるものと思っているのである。しかるに天国はかくの如くにして上り得るものではない。世を捨て、霊に住み、肉に離れようと努むるものは、かえって一層悲哀の生涯を修得し、高天原の歓楽を摂受する事はとうてい出来るものでない。何となれば、人は各自の生涯が死後にもなお留存するものなるが故である。高天原に上りて歓楽の生涯を永遠に受けんと思わば、現世において世間的の業務を執り、その職掌を尽くし、道徳的民文的生涯を送り、かくして後始めて霊的生涯を受けねばならぬのである。これをほかにしては、霊的生涯を為し、その心霊をして高天原に上るの準備を完うし得べき途はないのである。内的生涯を清く送ると同時に、外的生涯を営まないものは、砂上の楼閣の如きものである。或いは次第に陥没し、或いは壁落ち床破れ崩壊し傾覆する如きものである」
と説示してありまして、これは前述せる個人としての合わせ鏡によって成し得ることが出来るのでありますが、その合わせ鏡をするには、聖師様は
「常に一つの目標を前に置き、常住坐臥眼をはなさないようにしておればよい」
と教えらるるのであります。かくの如き目標は暗黒の中でも、ドンナ忙しい時でも、悲喜いずれの際にも、またドンナ水火の渦巻く中でも、いつも明瞭と想念の表にあるものでなくてはならぬのであるから、自分と最も密接不離であって、いつも自分の情動を司配しておるものでなくてはならないものであります。それには
 神様。常に神とともに在りと云う域に達したお方があれば、そは信仰の極致であって、これ以上の結構はないのであるが、吾々の信仰状態はマダそこになっておらぬから、不断不離の目標とすることは難しくはないかと思われます。大正六年の夏、月次祭にかねてあるご祈願のあった当夜、信者を満載したる舟が金竜海で転覆したことがありました(ある霊的関係のため)。その際の光景は惟神霊幸倍坐世を唱うる人、或いは南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経を唱うる人、また弘法大師を念ずる声等マチマチであったそうであります。念仏も題目も決して悪いのではないが、はッと思う刹那に神様を忘れたわけであるから主一無適の境涯に入ることの容易でないことが想像さるるのであります。
 御神諭。これもこの上ない結構な目標であるのでありますが、身魂相応心々に取れるのであるから、ウッカリすると折角の目標を見違いてしまう恐れがあることは、これまでの実例に徴して明らかであります。
 ここに最も簡単明瞭にして確実であるところの生きた目標が、現在吾々に示されてあるのであります。それは
 聖師様、二代様、三代様
であります。御三方の神格については、お互いはすでに身魂相応に覚っているはずであり、御神諭にも亀鑑とせよと説示してあって、誠にこの上もない目標であるのであります。
 そこで左の実行を続けておればよいのであります。
 日常職業を勤むるときにも常にこの御方々の前でしていると思い
 食事のときもお相伴をしていると思い
 人々と交際している際にも、かたわらから見ておられ聞いておらるるものと思い
 旅行のときにも物見遊山の如きときにも、常にお伴していると思い
 まま寝むときにもそばに臥ましていただくと思い
 四六時中常におそばにいると思うておれば、それでよいのであります。かくすれば陰日向も、ご神意に悖りたる言行も一切されないわけであります。
 これは霊的より云えば決して仮定の憶想ではなく、かく思いつめておれば吾々の精霊が常に聖師様、二代様三代様の精霊に近接して比類なき霊衣に包まるるのであるから、知らず知らずの間に身魂の恩頼を享け、また談話を交換して教訓を受くることも出来るから、段々身魂が研けて行くこととなるのであります。この精霊相互の談話交換については、肉体を持てる精霊と精霊とは、ことに便宜であります。(舎身活躍戌の巻十一章その他索引参照のこと)人あるいは、偉人傑士または君子人なれば各自崇敬の人を目標としてもよいではないかと云うならんも、第一真の人物観はその人の内分即ち人格を表現するところの霊衣によらねばならぬことは第二章に述べた如くであり、また第二には常に恋々不離の関係にあるものでなくてはならぬのであるから、目標とすべき完全な人はナカナカ得難いのであります。この点についてお互いは実に至幸の境涯にいるものと感謝すべきであります。(直接開祖様に御教えをうけたお方は、開祖様を目標に加うるうは無論結構であります)
 御神諭に(索引参照)
「変性男子は筆先で世界にある事を知らす御役なり。女子の身魂は、世界がこういう事になりておるという事を、実地に見せて、罪を贖りて、人民を救済ける御役であるから、人民の眼からは、悪魔に見える事もあるぞよ。善に見える事もあるぞよ。女子の事は、如何様に見えても、構わずに見ておりて下されよ。滅多に不調法は致させぬぞよ。女子には結構な神が憑依てあるから、細工は流々、仕上げを見て貰わんと、人民では判らんぞよと申して、筆先に知らしてあろうがな。女子の行為の善く見える守護神もあるぞよ。悪く見える守護神もあるぞよ。その人々の心通りに見えるぞよ。女子の身魂は化かしてあるぞよと申して、筆先で知らしてあろうがな。迅く気がついて改心の出来た守護神に使われておる肉体は良くなるなり……云々」
 裏の御神諭に
「厳の御魂、瑞の御魂の神代を、神の宮と思いて敬うものは神に近づくを得べし。人と思うものは、人の徳を受くべし。また悪魔と見なすものは悪魔となるべし。神はその人の心のまにまに守り玉えばなり」
 真善美愛卯の巻(五十二巻)第一章に
「人間の内底に潜在せる霊魂を、本守護神または正副守護神と云う。そして本守護神とは神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂いであり、正守護神とは一方は内底神の善に向かい、真に対し、外部は自愛及び世間愛に対し、これをよく按配調和して広く人類愛に及ぶ所の精霊である。また副守護神とはその内底神に反き、ただ物質的躯殻即ち肉体に関する欲望のみに向かって蠢動する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食をもって最大の真理となし、人生の避くべからざる径路とし、生存競争をもって唯一の真理と見なす精霊である。云々」
 また舎身活躍戌の巻(四十七巻)第十二章に
「天国の団体に交通する精霊も、地獄界と交通せる精霊もまた同じく人間に付添うているのは前に述べた通である。しかして天国の団体に交通している精霊の最も清きものを真霊または本守護神と云い、やや劣ったものを正守護神と云い、地獄と交通する精霊を悪霊または副守護神というのである。しかし人間が生まるるや直ちに悪の裡に陥らねばならない事になっている。故に当初の生涯は全くこれら精霊の手の裡にありと云ってもいいのである。人間にしてもしおのれと相似たる精霊が付添うて守るに非ざれば、人間は肉体として生くることは出来ない。また諸々の悪を離れて善に復ることも出来ないことになるのである。人間の肉体が悪霊即ち副守護神によって、おのれの生命を保持し得ると同時にまた善霊即ち正守護神によって、この悪より脱離することを得るものである。人間はまたこの両者の徳によって、平衡の情態を保持するが故に意思の自由なるものがある。この自由の意思によって、もって、諸々の悪を去り、また善に就くことを得、またその心の上に善を植えつくることを得るのである。人間がもしもかくの如き自由の情態に非ざる時は、決して改過遷善の実を挙ぐることは出来ない。しかるに一方には根底の国より流れ来る悪霊の活動するあり、一方には高天原より流れ来る善霊の活動するありて、人間はこれら両者の中間に立ち、天国、地獄両方の圧力の間に挟まらなくては、決して意思の自由はあるべきものでない。
 また人間に自由のない時は、生命あることを得ない。また善をもって他人に強ゆる事は出来ない、人から強いられたる善そのものは、決して内分の霊魂に止まるものでない、心の底にどうしても滲み込む事は出来ない、ただし自由自在に摂受した所の善のみは、人間の意思の上に深き根底を下して、さながらその善をおのれの物の如くするようになるものである」
と詳細に教示してありまして「心の持ちよう一つで善ともなり悪ともなるぞよ」との御神諭の真諦が判明するわけであるから、吾々にとりてお三方を目標とすることは、同時に自分の心の如何を推知する唯一の尺度ともなり、この上もなき目標即ち亀鑑であるのであります。気がついてみると誠に簡単明瞭であります。聖師様は
「神様のお道は極めて坦々たる大道であって、決して難しいものではない。難しいと思うとかえって迷いが起こり判らなくなるものである。大神様は親の親の大御親であって、その親神様の御懐に抱かれたのであるから、安心してご神命のまにまに行動しておればそれでよいのである。いろいろと理屈や迷いの出る間はマダ神様にすがったのではない」
と説示さるるのであります。
 以上述べ来たりしところによって吾々は、
「改心と申すのは、何事によらず人間心を捨ててしまうて、智慧や学を便りに致さず、神の申す事を一つも疑わずに生まれ児のようになりて、神の教えを守ることであるぞよ。霊魂を研くと申すのは、天から授けてもらうた、大元の霊魂の命令に従うて、肉体の心を捨ててしまうて、本心に立ち返りて、神の申すことを何一つ背かんように致すのであるぞよ」
の御神諭の真諦を諒解することが出来るのであります。
 ついでに夢について一言しておきます。常にある人を思い、またはあることを考えつめていると、自己の精霊(本、正守護神また副守護神)がそこへ出かけて行くものであることは前申し述べたところでありますが、その精霊の見聞せし事象がもし肉体(頭脳即ち中央政庁)に交流した場合には、自己に感知さるるのであります。これが睡眠中に来たる時は即ち夢であり、覚醒中に感ずるときは即ち予感、霊覚であります。また夢には神夢、正夢、雑夢がありますが、これらに対する聖師様の説示が左の如く神の国新年号(六十四号)六三頁に掲載してあります。
〔問〕霊界と夢の世界とは違いますか。
〔答〕それは違う。副守護神は己の欲せんとすることでも覚醒時には正守護神に制せられ、思うままに行うことが出来ぬ。肉体の睡眠せるときは正守護神は肉体を副守護神に任して肉体を離れて他に活動するか、または共に熟睡するので、このとき副守護神は自分の天下が来たというので、自分の思うままに外的精神が活動するのが夢である。たとえば自分の意中の女があっても覚醒時には種々の制裁があって、思うように言い寄ることが出来ぬ。そういう場合、肉体が眠りにつくと副守は何ものにも制せられないので、自分の思う存分に活動するのである。昔から聖人に夢なしというように本守護神、正守護神のはたらきは普通夢となっては現れないものである。時に神夢とか、正夢とかになると、そのままその通りに実現するもので、判断を要するような夢は副守護神の働きである」
 この機会に副守護神について申し添えておきます。
 これまで副守護神といえば悪霊の代名詞となっていたようでありますが、真の意義における副守護神とは、ひたすら肉体のみを保全する役目を有する霊でありまして、肉体を持っている以上いかなる人にも付き添うているのであります。そしてそれが善となり、悪となるのは、正守護神の司配の如何によるのであって、本章中のご説示にある如く、今霊肉の調和を司るところの正守護神が充分働いてさえおれば、副守護神は常にこれに随従して働くから、その人の肉体を保全する以上には悪しき欲望を起こさないのであります。でありますから悪霊即ち悪魔、邪霊と肉体守護の副守護神とは常に区別して考えねばなりませぬ。
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