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文献名1出口王仁三郎全集 第2巻 宗教・教育編
文献名2【教育編】第2篇 教育雑録よみ(新仮名遣い)
文献名3第4章 無題録よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-02-03 18:15:24
ページ598 目次メモ
OBC B121802c213
本文の文字数10852
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本文    一

教育

 今日の教育家は、真の大道を究めて居らぬ。真の学理を知らぬ。人の師範たる教育家で在り乍ら、肝腎の、教育大勅語の大精神を了得せず、日々有害無益の教を説き、愚人の著はした愚説のみを教場に立って受売する、蓄音機の如うなものである。天地の大道たる敬神尊皇愛国の本義を体得し且つ之を実行し得ざる教育家に就いて学ぶは、実に危険である。国民性を傷害し、日本魂を滅却せしむるもの、実に多大である。

 第一に天祖、国祖を祭り、次に祖先に仕へ、以て忠孝の大義を実践窮行し、報本反始の実を挙ぐるを以て、教育の大本をすべきものである。教育家にして真に我国体を理解し、四海同胞、神人一系の神機を覚らば、大高中小学、幼稚園内に至聖場を設けて、天祖国祖を奉斎し、忠孝一本の本義を、教師自ら実行し以て、被教育者に模範を示して貰ひたい。

 日本は神国であると云ふ。神国なれば神国らしい行ひを守り、世界に範を示さねばならぬ。神国天来の使命が諒解さへ出来たら、国民一般が神心に成り、至治泰平、五六七の神世が出現するから、現在の人心不安も混乱も、経済界の沈衰も、奇怪なる思想も、朝日の前の露の如く、忽ち消滅して了ふのである。今日の為政者も教育家も君国を憂ふる一片の至誠あらば、一刻も早く改心、改造に奮進せねばなるまい。

政治

 日出る国の国民の代表者為政者は、光華明彩六合に照徹する、神智と神徳を保有し、以て全世界の暗黒無道の惨状を救ふ可き天職が在る事を忘れては成らぬ。然し乍ら今日の鼻高に斯んな注文をするのは、聊か無理かも知れぬ。日本だけの修理固成さへ持て余して、窮々謂って眼を廻はして居る如うな次第柄だから。

 天地の公道に基づき、政治の根本を確立せば、天下は至治泰平の神国を招来するを得るのである。世界の大勢に順応するは良いが、公論と衆論とを誤解して、衆愚多数政治と云ふ如うな事に成ったら、夫れこそ天下国家の滅亡を来すやも知れぬ。公平無私なる皇祖皇宗の御遺訓に由って、政治の本領を真解さし度い。

 国務大臣は第一に国祖を鄭重に祭祀し、朝夕怠らず至誠を以て敬礼し、天祖所示の施政方針を遵守し大神の御心を心と、仁慈の徳を備へて、国民に臨むべきものである。国務大臣にして斯の信念と至誠なき時は、国民の議論百出し、終には忌はしき危険思想を醸成し、以て祖宗建国の大精神を破潰せしむるの虞なきやを憂ふ。敬神の念薄き大臣は、日本神国の為政者たるの資格は絶対に無いものである。畏くも光格天皇の御製に
 『神様の国に生れて神様の道がいやなら外国へ行け』と仰せられて在る。外国へ行った所で、矢張り外国も神の一視同仁に守り玉ふ国であるから、猶更ダメであらう。

 君国の為に奉仕する官吏は、比較的巨額な棒級を戴いて居って、位階は賜はる、勲等は戴ける、軍人は亦た一つの勲功があると直ちに金鵄勲章を貰ふ。実に国家の待遇は手厚きものである。皇道大本は、真個国家の為に無棒給で以て君国の為に、身命を捧げて居る、聖なる団体であり、個人としても実に立派な敬神尊皇愛国の実行者である。然るに大本に世間から贈って来るものは、新聞や雑誌の異記や窘章である。神諭の章句に何処か不都合の点が在るとかにて、今度は爾々大本に対し神諭火の巻の禁止窘章を天の一方から下されたが、吾々は之を神の大御心と思うて、日夜神前に感謝して居る次第である。是も神諭に前以て誌されて在るからである。
 神諭の文章は一切神界の消息のみを漏らされたもので、要するに内的の問題である。吾々は世界に顕幽両界の在る事を確信する以上は、幽界の消息が偶々現界の何処かに似た所が在るからと謂って、現界の法規を以て罰すると云ふ事は、顕幽を混同したる不明の処置である。仏教の経典も基督教の聖書も彼が果して顕界に対する記事で在るとすれば、是も第一に禁止窘章を与へねばなるまい。アア神の事は神のみぞ知る。神霊現象と幽界の真相に迂とき現代人の頭では如何ともする事は出来ない。
 日本国の官吏や教育家たるものは、最も深く国体の淵源を究め、三種の神器の御本能を真解し、以て国民に臨まねばならぬ。三種の神器の本能は、八咫鏡、即ち言霊の威力である。曲玉は統治の本体である。剣は日本国の土地全部の表徴である。然し三種の神器の御本能は、拙著皇道大意に詳説して置いたから、爰には省略する。

 中世以降皇国の思想界は殆んど仏教の独占的天下であった。其次に儒教や基督教が稍勢力を有って居った位である。日本は神国であり乍ら、世界の人類の眼よりは仏教国と云はれて来た。固有の神道は在っても、頑迷固陋なる神道家のみにして、毫も振はず、従らに神道の名のみを保存して来た位である。明治大正の御代と成ってからは、欧米の学説思想が漸次襲来すると共に、在来の仏、儒、耶の宗教の光は、日光に氷の消ゆる如く、殆んど絶滅に等しき状態で、只々殿堂や伽藍の形骸が微々として存するのみである。神道も亦た十三派を樹立すると雖ども、何れも無力無智、到底天下を指導するの器にあらず。之に反して外来思想の悪潮流は浸々として油の浸潤するが如く、我国上下の民心を動揺させつつあるのである。此の間に処して独り皇道大本のみが、丹波の山奥から凡ての艱難を甞め、教敵を和ごめ、四面楚歌に包まれながら、旭日沖天の勢を以て、躍進台頭しつつ在るは、現代宗教家又は思想家の為に、万丈の気焔を吐けるものであるとも曰へる。併しそれだけに又世間一般の嫉視と反感と圧迫と猜疑と誤解を受け易く、社会主義だの共産主義だの、過激主義だの反国家主義だのと云ふ難癖を付けようとするものが、沢山に現はれて来るのである。喬木能く風に揉るの譬の如く、何んと無く皇道大本に対して反感攻撃の声が高く広く海外までも響くやうに成って来た。明治時代の思想界と大正現代の思想界は、非常に異って来た。此の時に於て大本が社会に対し、皇道を宣伝せむとする立場は、益々困難の度を加へて来た。併し乍ら是は大本の非常なる大発展に伴ふ当然の成り行であって、出る杭は打たれると等しく、止むを得ぬ次第であるが、今日の如く総ての艱難と障害の殺到する間に処して、撓まず屈せず、飽く迄進撃猛戦して行く所に、無限の愉快が伴ふ。『天将降大任於是人也、必先苦其心志。労其筋骨餓其体膚空乏其身。行払乱其所為。所以動心忍性、曾益其所不能』と孟子が謂ったのは、決して個人に対して而己の語では無い。国家の上にも、皇道大本の上にも適用すべきものである。吾々は斯の覚悟を以て、今後は層一層力の在らむ限り進撃する考である。艱難これ汝を玉にすと云ふ事がある。雨降らば降れ、風吹かば吹け、至誠一貫、以て君国に尽す以上は、何事も惟神に任すのみである。江山の好風景は必ずしも、晴天白日の時にのみ限らない。風雨の時却って風致雅趣を添ふるものである。

 故に吾々は金輪際まで五六七神政出現の為に、宏大無極の皇道を基として、終始せねばならぬ。苟くも純正純真の神教を経とし、人道を緯とする我が皇道の教に率由して、我国は上下一致億兆一心盛んに大経綸を行ひ、皇祖皇宗の御遺訓を顕彰するに当って、豈能く之を遮ぎる夜母津比良坂が在るであらう乎。大本は中傷に讒誣に嫉妬に誤解の毒矢を被さるる如きは、敢て介意する所では無い。

 顕界に生れて顕界の事を悟り得ざる人間の分際として、肉眼を以て見る能はざる、幽界の消息の解るべき筈がない。況んや神を無視し物質界のみに心酔累惑せる浅学者輩に於ておやだ。幽界の神示たる大本の神諭が、俗人輩に分って堪るものでない。御神諭に『神のことは、人間の智慧学問の力では到底分るもので無いと云ふ事が判ったなれば、それが本当に判ったのであるぞよ』と示されてある。故に肝腎の大本の幹部でさへも、真相を握るに非常な苦心をする。況して圏外者の解る可き筈は無い事を一同に覚って貰ひたい。

   二

 松の世五六七の世の政治は、先づ第一に、政治家も教育家も陸海軍人も、実業家も宗教家も、天祖国祖の神霊を敬祭し、且っ誠心誠意を以て忠実に奉仕するもの斗りで無くてはならぬのである。
 陸海軍の長官は自ら衆に先んじて、天祖国祖の神霊を祀り、部下の軍人をして神の大御心を諒解せしめ、陛下の聖旨に寸毫も違はざる様に教導せなくては、神軍の威力を発揮する事は出来ぬ。又士官学校へ入学せむとするものは、天祖国祖、天皇の大御心を、諒解せるや否やを充分に調査して、採否を決すべく、学問の有無勝劣の如きは寧ろ第二位の採用条件とすべきものである。
 敬神尊皇の大義を、国民一般に知悉せしむる為に、大中小の学校は言ふに及ばず、天下の新聞雑誌を以て国民教養の為、皇室の尊厳と神明の稜威を、心の底より感得せしめなければ、松の世五六七の世には成らぬ。

 国体の尊厳と神明の稜威と、天皇神聖不可犯の理由とを諒解し居らざる人物を以て、文武官又は教員宗教者とせざるの神律を定めねばならぬ。民を治むるものは、先づ以て身を修め家を斉ふるを以て先とす。国土を治むるは人間の天職であり、神を治むるは正しき神の責任である。神は天地惟神の大道に由って活動さるものである。故に神界の立替立直しは神の御役であり、顕界の立替立直しは人間の役目である。今は神界と人間界とは余程隔絶して居るが、五六七の世は幽顕一致神人合体の黄金世界を現出する事である。

 外務の長官は、衆に先んじ、先づ官庁に至聖所を設け、天祖国祖を奉祀し各国民族の祖先の霊を祭り、朝夕供物を献じ、長官自ら敬礼を終りて後に国務に奉仕するのが神国の行ひである。御国の為、世界各国人の為に幸福ならむ事を赤誠籠めて祈願し、他民族の幸福を侵害せず、物質の供給は彼我相通じ、互に幸福を進め、兵力を以て外交の手段とせぬ事である。又外交に奉仕する官吏は、日本民族の正しき血液の流れたものを採用され、決して混血児や外人を妻に持って居る如うな人物は、外交官のみならず、総ての官吏に抜擢採用されない事になる。亦通訳官は其の国に於て正しき血統を有し、一家を平和に構成せる立派な紳士淑女を以て、其の任に当らしめられる。各国へ派遣されたる外交官は、先づ第一に天祖国祖及び我家の祖先を敬祭し、且つ其の国其の土地の国魂を敬祭し、土地の霊魂に対して至誠至情を捧ぐるのみならず、其の地の人種を尊敬し、人種無差別の態度を持する真人たる事を条件として、採用されるのである。是が神世の外交策である。

 五六七の家政の行り方に就ては、大本神諭に屡々教示されてあるから、今更喋々するの必要も在るまいと思ふが、第一に我国民の結婚に要する冗費位馬鹿らしいものは無い。諺にも娘五人持てば家が倒れると云ふぐらゐで、全世界に於ける第二の贅沢な行り方は日本である。先づ其の時に要する結婚費は、全国平均して年収入の二十割乃至二十五割を冗費して居るのである。一千九百十五年英国のハウスキトビング誌に載せられたる、世界各国の結婚費の比較表を、調べて見ると明瞭である。併し今日の日本は、其の時の表よりもモットモット結婚費が嵩まって居って、年収入の五十割も費やして居る、一世一代の嫁入だから片肌脱がねば成らぬなどと、益々体主霊従振りを発揮して居るのは、実に慨歎に堪へない次第であります。左表は即ち一千九百十五年の調査であるから、其の積りで見て下さい。

 国別   年収一万円の家庭   年収二千円の家庭
 英国   八分   一割
 仏国   一割   一割
 独国   一割   一割
 米国   二割   二割
 伊国   四割   四割
 西国   五割   七割
 露国   八割   八割
 日本   二十割   廿五割
 支那   三十割   三十割

之に依って之を見れば、我日本は支那の次になって居るが、現今では日本が世界で第一位になって居るのである。何故に結婚費が斯の如く膨張したかと云へば、畢竟必要以上の余計な衣類を拵へたり、身分不相応に、盛大なる披露会を催したりするから、年収の四五十割と云ふ、世界各国に図抜けた率を示して居るのである。外観外聞に要する費用を節約さへすれば、各国の結婚式は各階級とも年収の一二割でも良い事になる。況んや五六七の家庭の行り方に於ては、猶一層の簡単で、費用などは五部位より要らぬ事になるのである。又結婚費の中には、嫁入又は婿取のために、特に必要を生じた新夫新婦の礼服寝具諸道具装身具等の新調や、儀式や披露其他の事に要する経費の全体の事で、在来持ち合せの衣類、其他の日用の調整に要する費用や、父母の財産の一部を分与する持参金等は、勿論含まれて居らぬのである。その結婚費は中流以下の家庭では、一時に之を支出する事が、甚だ困難であるから、どうしても其の半額位は、本人の幼少の頃から、結婚費として積立てて居る人もあるさうである。日本の中流以上の家庭では、結婚の際には妄に沢山の衣類や荷物を拵へて、持参させる悪い習慣がある。是は一種の虚栄心から来たもので、実際余りに必要の無い沢山の衣類を新調し、空しく箪笥の底に寝かして置くと云ふ事は、甚だ無意味で、経済上からも、是位詰らない事は無い。上中下流と云はず結婚の際は差当り必要な衣類一通り丈け持たせて遣り、其の余りの金は、新夫新婦の社会に立って活動する時の資本金とすれば、実に一挙両得と云ふべきものである。

 我大日本帝国は天祖の国を開き、皇祖天照大御神が万世一系の基礎を樹立し給ひ、皇統真に連綿として東海の表に芙蓉の神嶺と共に、永遠無窮に厳立し、治国安民の実績炳乎として日星の如く、其の皇徳は宇内に普遍照徹し、天津日嗣の隆盛なる事天攘と共に弥栄えに栄えまし、万国皆仰望せざる無き聖明の国体である。是れぞ全く我国には、天地未剖陰陽未分の際より、国祖の陰に陽に広き厚き、御守護の然らしむる処である。大本神諭には極めて明瞭に此の事実が現はれてある。是れ則ち日本皇道の威徳である。我皇道は実に湛然冲虚にして、万教を克く浄化し、万法を包容帰一し、万事を指導するの大道である。国家の綱紀之に依って伸張し、国民の化育又之に依って隆盛を来すのである。仰げば是列聖の威徳と成り、凝っては忠勇義烈の日本魂となり、錘っては武道の威烈となり、潜んでは人倫の根幹となり、発しては克忠克孝の大精神となる。国家之に依て隆え、世道之に依って静安に、民風之に依って優秀善良となる。アア皇道の大本之れ実に治国平天下の大道にして、国運興隆の基礎ならずと称するものが有るであらうか。世俗の皇道大本に対する罵声雑評は、所謂盲者象を評するの類のみ。我皇道大本は実に此の大精神を奉体して奮起せるものである。

斎法の要旨

斎に幽顕の二大法があって幽斎顕斎と曰ふ。幽斎は神殿宮社奠幣なくして、真神を祈るの道である。顕斎は神殿あり、奠幣あり、以て象神を祭祀するの道である。然して幽斎は臨時随所に於て、天下公共の為にのみ真神を祈り、顕斎は、一定の至聖所に神を祭り、天祖列聖並に祖先に対し、報本反始の至誠を以て、慎み畏こみ仕へ奉るの道である。私は今茲に、顕幽の区別を立てずして、斎法の要旨を大本信徒の為に記しておくのである。
 斎には火と食と行と水と則との、五つの方法がある。そして火は腐と死と血と獣とに同うせず。食は羽と畜と鱗と臭とを用ひず。行は淫と産と殺と葬とに触れず。水は厳かに連斎と流沐とを行ひ、則は祓除と祝詞とを修むるものである。本来我が神国は霊宗祭元の国風である。霊宗とは心性を明にすること、斎元は、皇祚を守る事である。神は聖真善美を以て体と為し、霊徳発揮を以て、神の用と為し給ふ。故に斎くに重礼を以てし、祭るに至誠を以てし、祈るに清浄正直を以てする時は、茲に神人合一して無限の神力を顕彰し給ふのである。以上は斎法の要旨にして即ち潔斎の義である。潔斎は凡て身内身外共に清浄なるを要旨とする。尚ほ拝、物忌、祝等の義を附せるあり、其の儀式の多き数ふるに暇なき程である。大宝令には、散斎三月、致斎三日等の定が在れども、其の方制は社会の階級に依り、繁簡の差別あるも畢竟潔、浄、戒、慎の意に外ならぬのである。
 今茲に儒者の心斎説を引証する。
『顔回曰く、吾れ以て進む事なし敢て其の方を問ふ。仲尼曰く、斎せよと(中略)顔回曰く、回が家貧にして唯酒を飲まず、葷を茹はざること数月なり。此の如きは則ち斎と為す可けむやと。仲尼曰く、是祭祀の斎にして心斎に非らざるなり。回曰く敢て心斎を問ふ、仲尼曰く、若ぢ志を一にせよ、之を聴くに耳を以てすること無くして、之を聴くに心を以てし、之を聴くに心を以てする事なくして、之を聴くに気を以てせよ。聴くは耳に止まり心は符に止まる。気になるものは虚にして、物を待つものなり。唯だ道は虚に集まる、虚は心斎なり』
 荘子の人間世第四に曰く
『夫れ人の気の虚なるや、元と天の虚霊たるが故に、克く物を待ち物を容る。心斎の要は虚気にあり。心斎は神を待ち、神に接する所以なり、虚気は道の集まり、道の成る所以なり。冲虚霊明は天の本体たり。吾れ克く之を体する時は、神通無碍の妙用を得べし』

祭祀に典則

 祭は慎敬を盡すにあり、礼式は厳粛静和を旨とし、騒慢し又は軽疎なる可からず。供儀は清素新鮮を要として耀飾し又は悋惜す可からず。奏楽は正調高雅を尚び、濁雑及び卑野を慎むべし。祭具は白木土器の類素にして新なるを用ひ、火は燧石にて打ち、手は清水にて浄むべし。献燈及び御手洗の制に考ふ可し、凡そ神事を行ふには、愉悦と親和とを以てし、進退は宜しく其の節に中り、動静は恭しかる可し。扨正殿に向ふ時は儀容を整へ一揖一拝、各法則に適ひ笏を用ひ、玉串を捧げ、左足は陽天を踏み、右足は陰地を履み進むに厳かに、坐するに粛なるべし。斯て神明に玉串を献じ、祝詞を誦するに臨みては、神明正に茲に在ますの想あるを要す。事終れば則ち揖拝の礼を行ひ恭しく退く可し。
 宮中には宮中の祭式をり。大本には大本の祭式あり。神社には神社の祭式あり。一家には一家の祭式あり。個人には個人の祈祷あり。厳かに定日を守り、恭しく神事を行ふ可し。仮初にも之を廃し之を怠る可からず。是祖神の遺訓にして、大本開祖の神示なり。即ち祖先の遺風を顕彰するの道なり。

 御製
  わが国は神の末なりかみまつるむかしのてぶり怠るな夢

 神人交感の聖諦は祈祷に在り、依て以て慰安を受け、確信を得るのである。人性誰か神恩に漏るる者が在るであらうか。蓋し神の恩徳を感ずるは、神を認め拝するの初めであって、神恩を感謝するは神の子たる人の真情である。人生誰か希望なきものあらむ、その希望を神に訴ふるは、即ち祈祷である。吾人は祭祀に依って神に報本謝徳の意を表し、祈祷に依って真心を神に訴へ奉るのである。是が人生自然の道である。自然は真理である。蓋し真理に拠って吾人の真情を訴ふるに於て、大慈大悲に坐します神明の如何でか之を感納し給はぬ事があらうか。吾人は至誠至直君国の為に身命を捧げて神明の大道に奉仕し、神恩皇徳を天下に宣伝しつつあるものである。焉んぞ之をしも、迷信妄信と謂ふ事が出来るであらうか。吾人は全身全魂を捧げて君国の為に神に訴へ神に祈つつあるのである。

 御製
  目に見えぬ神の心に通ふこそ人のこころの誠なりけれ

 神は非理を悦び給はず、非礼を享け給はずと云ふ事がある。理と云っても真に徹せざるの理があり、礼と云っても真を尽さざるの礼がある。真の理は賢に非ずんば徹せず。真の礼は聖に非ずんば尽さず故に徹せざるの理は疑惑を生じ、尽さざるの礼は不敬と成るのである。神に仕ふるの道は、信を先にし誠に止まる可し。理も礼も亦自ら之に伴ふ。故に神に仕へ神に祈るの道は、誠と信との一路に在りとするのである。人の至誠たる内に潜みては神人の黙契となり、外に発しては決意の告白となる。或は祭文となり或は祷辞となる。其の公式に用ひらるるのを祝詞と云ひ誥文と云ひ誓文と云ふ。仏説に基ける護摩、加持呪文及び密印等の類も、要するに祈祷の一種であって、一心を凝結せしめ、精神を集中せしむるの標象であるに過ぎぬ。アア実に信は神と和するの所以にして、誠は神に通ずるの所以である。神に和せされば人格は向上し難く、神に通ぜざれば聖域に達し難し。故に信仰なき礼は以て敬とするに足りない。誠実なき祈祷は道とするに足らぬのである。信仰は神と人とを幽契し合一し、亦人と人とを結合せしむるの大連鎖である。誠は精神を統一せしめ気力を結晶せしむるの大動力である。信仰は至誠と相俟って熱を起し、至誠は信仰と相俟って光を放つ。嗚呼一信克く泰山を鳴動せしめ、一誠克く万古を貫徹す。夫信なる哉。夫誠なる哉。寔に信と誠は敬神の第一要義である。

 御製
  鬼神もなかするものは世の中の人の心のまことなりけり

此の御製を謹み伺ひ奉るに、人の至誠の力の最も強ければ、仮令鬼神と雖も感泣すべきものなりとの、聖意を世人に示させ給ひしものであります。

 天地草創の事は皆神伝思工に出づるもので在って、固より尋常一般の理を以て窺知すべきものではない。宇宙一切の物事は凡て神の創造に依る事を確信して疑はない所以は、吾人は神と人との別有るを知る故である。神は以て人に伝へ人を以て人に伝ふ。人心の淳朴にして風俗の敦厚なる、教無くして教あり。道無くして道有り。而して道の大本は天地の神明に出づ。天地神明の慶福を無窮に伝ふる所以のものは、必ず皇道の大本に由らざるは無いのである。体主霊従人士の曰く、万世一系天壌無窮の国体や良し。天地未剖陰陽未分の際より樹ちし国にして古きは古し、然れど、我国の上世文明の闢けたるは、悉く之を支那に資るは何ぞやと、アア斯の如き言を為すもの、天下滔々として粟の如しである。又曰く今日の文明は泰西に資る。我国は之を以て国利民福を享く、単に国の古きのみを以て世界に誇るを得むやと、実に外尊内卑の世迷言と曰ふべき而己。人生に必需なる物は、宮殿家屋より大なるは莫く、衣服より急なるは莫く、穀物より善きは莫く、刀剣より要なるは莫く、火工より便なるは莫し。而して我国は神代の遠きに於て既に悉く具備されて有ったのである。然るに太古の日本人は土穴に棲み原野に遊牧せし如く、解する連中が在るのは怪しからぬ。伊邪那岐命の御世にも八尊殿の魏々乎として天空に聳ゆる有りしを知れ。古の日本人は獣を茹ひ血を飲みしならむと曰ふ馬鹿学者がある。見よ、天照大神の御世に狭田長田の千五百秋の豊穣の事蹟がある事を。太古の日本の民、之を裸体なりしと曰ふ馬鹿ものが在るが、神代既に栲幡千々姫命が稜羅錦繍を織り玉ひし事の実蹟あるを知らずして、之を蒙昧なりと言ふ乎。刀剣戌矛を鍛へて、以て護国の具に供したる我古代之を称して無智と曰ふ乎。天之岩戸の大変事に際して、天香具山の鋼鉄を採掘して鏡を製造するなど、総て火工の発明は今日の文明に何等変る事は無いのである。太古より祭祀の礼を行ひ、以て報本反始の道明らかに行はれ、改過遷善の行事として大祓の儀式有り。且つ衣食大いに足り、兵器完備し、天地人の大道明かなり。是に於て乎皇化を海外に布き玉ひ、素戔嗚命は朝鮮に、少名彦命は常夜国(南米)に適き給ひて教化の跡を垂れ、内には万世一系の天嗣を立て、天下経綸の大業を制し、国造、県主、稲置、直、別等の職掌あり。棊命星羅して、以て其の根基を固め、而して宝祚動揺するの憂無からしめ玉うた。是れ祖宗の内を治め外を馭し以て国を建て玉ひしの大体である。我国は斯の如くにして万事整頓し、数万歳の太古に於て、既に既に一大文明の隆盛を極めて居るのである。何んぞ外国の文明を借りて、以て国家に資するの要あらむやである。支那には皇天上帝有り、印度には梵天帝釈天有り、西洋にはエホバの説有りと雖も、何れも皆我古典に其の大本を発せざるは無いのである。

 支那の国を聞くや素戔嗚尊と少名彦命の際に在るが、是の故に天を畏れ命を知るを以て教を樹つ。其の説や頗る古典に近いものがある。併し現代の支那は天を畏れ命を知るもの、上下押並べて絶無なる状態である。印度の開けたる。是に次ぐに欧米の諸国の開けたるは、実に輓近の事である。世愈々近くして、教愈雑多に、以て人心を惑乱せしむるに立至ったのである。彼等の所謂皇天も上帝も梵天も帝釈も、エホバも皆日本神州固有の祖神たるを知らずして、天下の愚者囂々として、反りて彼等の教法を借り、以て愛国愛人の道を説かむと欲す、其の謬れるや実に甚だしと曰ふべきである。支那印度欧米の教法なるものは、其の君を忘れ、父母を忘れ、国を忘れ、身を忘れ、祖宗の遺訓を忘れて居るのである。斯の如き教法を以て果して愛国愛人の道を竭し得るであらう乎。豊太閤の韓を征するに当り謂って曰く「夫れ日本は神国なり、神は則ち天帝にして、天帝は則ち神なり、秀吉夙夜世を憂へ聖明を神代に復し、威名を万世に伝へむと欲する也」と。而して其の明虜を撻伐するに方りては、志四百余州をして悉く神州の良俗美風に化せしめ、以て神政を億万年に輝かさむとするにあったのである。太閤夙に帝系を以て上帝に出づると為し、而して帝系の上帝より出づるは、神典の遺訓則ち皇道の大本に依るとなし、太閤の古典を信ずる事斯の如く篤く、帝系の盛大を鳴らして以て国威を殊方絶域に張らむと為たのである。今日の学者輩は私智自ら喜び、異邦の教法邪説を以て国家を安んぜむと欲し、却って神州国体の精華を忘れ、国家の大計を謬って居るのである。其の見る所の高下大小は太閤に比して実に霄壤の差があるではないか。
 アア神のみ神を知り、聖のみ聖を知る。神智神勇の権化豊太閤の如き英傑の士に非ざれば、神聖の大道を窺知する事が出来ぬのである乎。吾々は天下の愚人が皇道大本に対する態度に省み、一層この感を深うする次第である。
(大正九、一一、一八稿、同二月号神霊界)
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