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文献名1惟神の道
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3日本国民の本性に復れよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考『神霊界』大正七年七月一五日号所収「宗教の害毒」の抜萃
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ページ56 目次メモ
OBC B123900c020
本文の文字数6328
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本文  宗教の目的とは何ぞ、人をして生活の真意義を得せしむるにあり、敢へて問ふ、これを得せしむるは何のためぞやと。宗教家は必ずいはむ、娑婆即寂光土のためなりと。又いはむ、この世に天国を出現せしめむがためなりと。しかり、宗教の目的はこれをおいて他に無かるべし。これこの目的のために孜々として、布教に従事する所以なるべし。
 既に目的あれば、これに到達すべき手段を講ぜざるべからず。即ち彼岸に渡らむにはまづ舟楫を艤するを要す。特に自己のみならず、同胞ひいては国家を満たさむと欲するには、相当の方法を講じ、充分なる設備を為さざるべからざるなり。しかるに一般宗教家は、果たしてこの方法を講じ、設備を考へ、しかして後に、その目的に向って、衆生同胞を済度すべく努力しつつありや。
 吾人の視る所を以てすれば、元来宗教なるものは、その教祖がその国土に応じ、その時代に適する教義を立てたるものなり。されば甲国に適する宗教必ずしも乙国に適するにあらず。また上古の人心を救ひたる宗教、必ずしも現代を濟ふとは言ふべからず。事物はみな国によりて相違し、時によりて変遷す。故に数千年前に起これる異国の宗教を持ち来たりて、これを以て我が現代の人心に真意義真生命を与へ、以て天国浄土を出現せしめむとするもはなはだ難し。これ吾人が現代宗教家のその職に努力すればするほど怪訝に堪へずとする所以なり。
 およそ風俗世情を異にする国土において、平等なる目的に達するには、手段に差別ありべきこと自然の数なり。宗教家及び多くの学者は言ふ、曰く万教は帰一なり、諸悪莫作業善奉行なり、至善に止まるにあり、己の欲せざる所は人に施すことなかれ、己の好む所はこれを人に施すべし、東西人情相同じく古今一軌、何ぞ必ずしも宗教の別を論ぜんや」と、しかれどもこれ一を知つて未だその二を知らざるの論なり。共通する所あればとて、直ちに同一なりとは断ずべからず。相違する所を求むればあくまでも相違すべし。目的同一なればとて、その手段の何れにても可なりとは言ふべからず。人情国風に適する手段に依るにあらざれば、到底宗教の目的を到達実現し得べくもあらず。これあたかも生命を繋ぐの糧なればとて、人をして猫の食を喰はしめ、猫をして草木の肥料を食はしむべからざるが如くならむのみ。陸行には車に依り、海行者は舟に依らざるべからず。かくて目的平等なりといへども、その手段に至つては時と処とに応じて差別を生ずることとなるなり。
 故に曰く、平等なる目的を達するには、手段自ら差別を生ずるに至る。一国に最も適する宗教はその国の宗教なり。宗教は何れもその国その時代の思想上の産物なり。されば最適なる宗教は発生時代におけるその国の宗教なり。故に如何なる宗教にても、他国に入るに及びては必ず意義又は形式において、すくなからず変遷するを常とす。これあたかも虫類の保護色の如きものなり。これを仏教について見るに、その支那に入るや支那色に変じ、また我が国に来るに及びては日本色に変化したり。基督教は伝来日なほ浅しといへども、将来においては、また必ずやかくの如くなるに至らむ。ここにおいて宗教家は言ふなるべし、仏教は既に印度、支那のそれにあらずして日本的仏教となりたるなり。故に日本に適当なる宗教は、仏教をおいて他にあること無し、また基督教も今や日本的基督教たらむとする過渡時代にあり、故に後世日本の思想を統一するに適当なるは、世界的宗教たる基督教に若くはなしと。豈それ然らむや。
 元来宗教なるものは、仏教にもあれ基督教にもあれ、人と神(仏と人、大我と小我)との融合一致に重きを置くものなり。即ち四諦観といひ三位一体説と云ふも、その意義において異ることあるなし。いはゆる天人合一を主とするにあるのみ。従つて現在の国家、国民、君臣、父子の関係を、ややもすれば軽々看過せむとす。如何に宗教家諸君が気張りて、仏典、聖書の中より五倫五常に関する語を抽き集めたりとて、そは決して諸君が奉ずる宗教の主とする所のものにはあらじ。これ元来仏教、基督教の生国が五倫五常の国にあらざるが故に、その然るべきはむしろ当然の結果なりといふべきなり。
 我が国はこれに反して、五倫五常が主にして、神人契合の如きはむしろ従たるものなり。外教にては五倫五常を捨てても神人契合を得るかは知らざれども、我が国にては決してこれを得べからず。されば神人の契合を得むと欲せば、まづ五倫五常を全くするはこれ我が神の道にして、外教のそれとは全く表裏相反するものなり。しかもその道たるや、後世聖人、君子なる者が、必要に応じて立てたる道に非ずして、天地開闢以来伝はれる神ながらの大道たるなり。神は、この道の本源を人の本性に分賦し給へり。これを名づけて至誠といふ。この至誠君臣の間に発して義となり、父子の間に発して親となり、夫婦の間に発して和となり、兄弟の間に発して友となり、朋友の間に発して信となり、毫も紛乱する所あること無きなり。故に教へずして家自ら和らぎ、令せずして国自ら治まる。これを以てその国体や美なり、その国土や浄土なり、その国家や天国たるなり。これをまた我が国不文の教とはいふなり。
 然るに今宗教家は、この浄土の国を出現せしめむが為に、最良の手段たる我が固有の大道を捨てて、縁遠き他国の宗教布教に没頭す。これなほ湿を悪みて低きに居り、火を消さむと欲して油を注ぐが如き類のみ。豈奇ならずや。もし宗教家にして真に国家を愛し、衆生同胞を憐み、天国浄土を出現せしめむと欲すとせば、すべからく先づ従来奉ずる所の宗教的偏見を捨てて、上皇室の行はせらるる本義に則り奉るべきなり。これその目的たる天国浄土を出現すべき最良、最捷径の方法にして、また釈迦、基督の本旨に協ふ所以ともなりぬベし。
 元来宇宙の間には迷悟あること無し。しかるに宗教家はいふなるベし、日本の道はいはゆる不言の教なるが故に、迷へる者をして悟らしめ、悲しむものに慰安を与ふるの方法無し、これその欠点なり、我が宗教はこの欠陥を填補するものなりと。然らば問はむ、宗教発生以来、果してよく迷へる者を慰め得たりしかと。宗教ありて迷者悲者、その跡を絶つといはば、宗教発生以前はみな迷者悲者のみなりしか、思ふに宗教ありとて迷ふ者は迷ひ、宗教無しとて悟る者は悟るべし。喜怒哀楽は人の天性なり。山はこれ山、水はこれ水、豈微々たる宗教によりてこれを左右し得ん哉。
 しかるに世の宗教家は巧辞を弄し、甘言を揮つて説法すらく、迷ヘる者よ来れ、悟を与へむ、悲しむ者よ来れ、慰めを得せしめむと。これいはゆる晴天に風雨を呼び、平水に波浪を起すものにして、人心はかへつてこれがために迷乱を生ずるを免れ得ざるものなり。
 ひるがへつて宗教家の平常を観れば、その多くは、伝道の傍ら、あるひは愚民を欺きてその膏血を搾り、あるひは外国の走狗となりて、共に国民性を害ひつつあるにあらずや。それ盗賊は世の重罪なり、しかもこれを謀反に比すればその罪軽し。謀反は天下の大罪なり、しかもこれを宗教家の罪に比すれば小にして軽し。何となれば、盗賊謀反は自らその罪を標榜してこれを行ひ、人また皆これを知るが故にあるひは恐れあるひは戒む。天誅至るに及びて罪悪自ら明らかとなるに反し、彼の欺民走狗の徒に至りては、人これを知らざるのみならず、天下こぞつてこれを誉む。ただにこれを誉むるのみならずしてこれを信奉す。その害一時に現出すること無しといへども、その一たび現はるるに及びては、国家の命脈また危ふからむとす。これを獅子身中の虫に比するもあへて失当にあらざるを覚ゆるものなり。
 吾人はまたここに問ふベきことあり、宗教家は今日の思想界を如何に観つつありやと。釈迦の出でし時よりも、基督の起りし時よりも、孔子の遊説せし時よりも、現代はなほ一層はなはだしき迷乱時代なるを知らずや。この迷乱の時代を救ひて国民思想を統一せむには、唯一の皇道あるのみ。宗教家にしてもしこれを知りながら、ことさらにその宗教を布教すとならば国家の賊なり。もし知らずして布教すとならば天下の愚なり。けだし今日多くの宗教家は真に民生を念ひ、国家を憂ふるの至誠より迸出せる熱涙の布教にあらずして、布教のための布教を事とする徒のみ。
 世の賢明なる宗教家よ、日本の国土において、陛下の臣民として祖神の子孫として生を享けたる上は、この秋に当りて宜しく国家の将来を鑑み、利を捨て義を取り、私を去り公に就き、以て神州清潔の民となり、天壌無窮の皇運を扶翼し奉るベきにあらずや。
 聖書に、それ我れ来るは、人をその父に背かせ、子をその母に背かせ、娘をその姑に背かせむが為なり。我よりも父母を愛むものは、我に協はざるものなり、我よりも子女を愛むものは、我に協はざるものなり」とあるが、真面目にこの教に従ふものとすれば、父母を見れば尊し、妻子を見ればめぐしうつくしとする我が国民の本性を破壊するものなり。その本性を枉げ、倫常を無みし、強ひて直に天父に従はむとするもの、その国民性、果たして真面目なりといふを得べきか。
 我が国儒仏伝来以降、はなはだ人性の真面目を欠きたり。鈴の屋翁が「きもむかふ心さくじりなかなかにからの教ぞ人悪くする」「からざまのさかしら心うつりてぞ世人の心悪くなりぬる」と物せられたる、まことに所以なきにあらず。人あるひは言はむ、儒仏は我が国に文化を導き、今日の大和錦を織り成したるものなりと、他人の力を藉りて角を矯めたるは可なりといへども、牛を殺せばつひに何らの益かある。儒仏によりて制度文物の美を成したるは可なり。しかれども、国の命脈を維持する国民性を麻痺せしめたるの害は、挙げて数ふベからずとす。
 元来我が国民性は天真爛漫なるが故に、濶達なり、雄壮なり。素盞嗚尊、五十猛尊の韓国経営といひ、少彦名命の海外経営といひ、神功皇后の三韓征討といひ、その他外に軍に従ひ、大胆不敵なる調伊企儺の如きあり、また婦女としての大葉子の如きあり、毫も外教浸潤後における島国的にして意気地無き根性にはあらざりしなり。
 請ふ、天照大御神に曰し奉る祈年祭の祝詞を荘誦せよ。

皇神の見霽します四方の国は、天の壁立つ極み、国の退ぎ立つ限り、青雲の棚引く極み、白雲の墜居向伏す限り、青海原は棹舵干さず、舟の艫の至り留る極み、大海原に舟満ちつづけて、陸より往く道は荷緒結ひ堅めて、磐根木根履みさくみて、馬の爪の至り留る限り、長道間無く立ちつづけて、狭き国は広く、峻しき国は平けく、遠けき国は八十綱打ち掛けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉らば云々

と、何ぞその語の勇壮にして意気の濶達なる。これ実に我が上古臣民の理想を代表するものにあらずや。
 しかるに儒教入りて禅譲の風を伝へ、老荘の学来りて許由巣父の徒生じ、仏教渡りて悲観厭世の俗興り、真面目の本性を晦蒙すると共に、雄壮濶達の気象衰ふるに至りたり。彼の、臣下として王位を左右したるは伊尹の徒にあらずや。畏俗先生と称して山間に遁れたるは許由の徒にあらずや。しかして円頂黒衣以て世を遁れたるものに至りては枚挙にいとまあらず。
 仏者に言はしむれば、仏教には小乗あり大乗あり、中古時代の仏教は多く独善的の小乗なりしが故に弊ありしかど、大乗的教義に至りてはしからずと。しかれども仏教の入門は、到底悲観的厭世主義なるを免がるる能はず、出家にあらざれば道を得る能はずとするを主義とす。教祖釈迦を初め、あらゆる祖師達、何れか家を出でずして得道したる。これを詮ずるに、仏教は四諦、即ち、苦集滅道を以て綱目とし、その苦観を以て関門とするは争ふべからざる所なり。これ実に中古以来、我が国民性を麻痺せしめたる毒薬にして、その証今日の印度を見れば、自ら思ひ半ばに過ぎむ。
 天命は性にして、性に率ふを道といひ、道を修むるを教といふ以上、我が国の道は我が国民性に率ひ、我が国の教は我が国の道を修めざるベからず。しかして今日の基督教はもちろん、儒教、老荘の教は、すでに我が国民性に協はずとすれば、我が国においては惟神の大道これあるのみとなるべきはずなり。
 孝徳天皇大化三年の詔に曰く、

「惟神も我が子応治さむと故寄させき、これを以て天地の初めより、君と臨す国なり、始めて国を治らせし皇祖の時より、天下大同、都て彼これいふことなかりき云々」

と。近藤芳樹翁これを解きて曰く、

「掛巻もかしこけれど、我が豊葦原の中国は、天照皇大神の御任のまにまに、万世を遠長く統御べき美邦にしあれば、天下の臣庶皆性を天神の産霊に成して、心直く、身を真井の清水に濯ぎてその体潔ければ、穢悪く枉曲れる者をさをさ無くて、臣連伴造国造諸々朝を輔け、世を治むべき家に業を伝へ、臣連はその姓のまにまに仕奉り、出でては君を尊び、友と睦び、入りては父兄につかへ夫婦相いつくしむ、神代ながらの無為の教にたがひめあらでなむ、これを惟神の道といふ」

 これ実に我が国民性に率ふ所の道にして、五倫五常一致の本義なり。されば五倫を尊ばざるは我が国の教にあらず。五常を重んぜざるは我が国の道にあらず。我が国の教にあらずしてこれを奉じ、我が国の道にあらずしてこれに遒ふ。これ本性を枉げ君親を無みするものにして、畢竟乱臣賊子たるを免れず。人あるひは言はむ、時勢の推移に連れて文物また変遷す、昭和の今日において、上古の道を論ずるは愚なりと。道豈時の古今に依つて変ずるものならむや。およそ世の単位は人なり。人の思想の変遷につれて時勢もまた変遷するは免るベからざるも、吾人のいはゆる道には非ざるなり。
 古語に曰く、一人仁に興ると。故に一人にても過去の過ちを悔い、今日の行ひを修むるものあらば、漸次一家一村一国に及ぼし、つひには世の趨勢をも一変すべし。しかしてその事たるや、これを遠くに求むるにあらずして、近くこれを自己の本性真情に求め、これを難きに施さずして、易き君臣父子の間に行ふにあるなり。人すでに一たび真情を発す、鼎鑊も飴の如く、水火も蒲団の如くならむ。何を苦しんで生死を離れ何の遑ありて天国を希はむ。
 思ふに我が国の現状思想界の混乱その極に達せむとす。曰く耶蘇、曰く仏、曰く儒、曰く俗神道、曰く東洋哲学、曰く西洋哲学と、しかしてその内また各宗各派各主義に分れ、甲論乙駁、喧擾紛争してやむ時無きなり。祝詞にいはゆる磐根樹根立草の片葉をも言問ふの世なり。宜なるかな人心の帰趨統一せられざるや。
 これを要するに、今日の宗教家、哲学者らは、人心統一の必要はこれを感じながら、一面にはその生存のために世を欺き名を衒ひ、一面には深く天地の大道を究めざるがために、その帰結点を得ざるものなりとす。一般世人に至りては、ただ彼らの言にこれ聴くのみ。もししからずとならば、爾曹が従来の教に固着するの陋と、主義に束縛せらるるの弊とを離れ、日本国民の本性に復帰すべきなり。日本国民の本性に復帰してこれを発揚し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉る、これを惟神の大道とはいふなり。惟神の大道を離れて、しかして日本国民たらむとするも得べからざるなり。もし強ひて仏耶その他の教を奉ぜむとならば、乞ふ各々その国民となれ。
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【霊界物語誕生百周年】
大正10年(1921年)10月18日に王仁三郎が霊界物語の著述を開始してから
令和3年(2021年)10月18日で百年目を迎えます。
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