文献名1惟神の道
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3挙国更生よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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備考出典不明
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ページ80
目次メモ
OBC B123900c025
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本文
挙国更生といふことは今度はじめて言ふのであるけれども、大本の「筆先」にあるやうに明治二十五年から更生運動は始まってゐるのである。政治、宗教、教育、芸術、一切の立替立直しを明治二十五年の旧正月から神様が叫ばれてゐる。
この更生といふことは更に生まれる、あるひは新しく生まれると云ふ意味である。また新しく生きる、あるひは更ためて生きる、また生活を改める、変更の更であって、今までの一切の謬つてゐる矛盾したところのことを根本的に元へ、本当に惟神の道へ戻して生かすといふのが更生運動であって、今までの総ての宗教は一切この自己のことばかりを説き、またたまには蛍火のやうな光を放って社会的の事業も義務的にやってゐるけれども、これは世間でいろいろ坊主の生ぐさとか何とかいはれるのを避けるために、世間の耳目を糊塗するだけぐらゐのものであって、真剣な活動をやってゐない。
宗教にしても基督教や仏教は本当に国体を説いてゐない。日本の神道宗教の中にも、黒住教や大社教の如く、たまには国体を説いてゐるものもあるが、ただ教規の上に書いてあるだけで、その実布教師といふものは国体の何たるかを知らぬ者ばかりである。基督教や仏教、天理教、金光教の如き宗教になると、国家観念といふものは少しもない。表面では少しぐらゐ言うてゐるものもあるが、本当に布教師が信徒に向って説いてゐるところは、ただ下手な倫理学に神さまをそこへもって行って練り薬をこしらへて教を説いてゐるだけで、その中には仏教の説もあり、基督教の説もあり、儒教の説も入ってゐるのであって、誠心誠意神道を説いてゐるものは一つもない。
神道は宇宙に瀰漫してゐるところの道を説くものである。それ故に皇道とも云ふ。皇道は統べる道である。この根本の教は明治維新後神道宗教が出来、いろいろと当局者もやって来たけれども、本当の精神を失うて了うて、今日のやうな腐敗堕落した世の中になったのである。それが為に経済も行き詰り、政治も行き詰り、教育も行き詰り、芸術も行き詰り、一切のものが丁度お筆先にある「石で手をつめた」といふやうに行きも戻りもならぬといふやうになってゐる。これは何故であるかといへば、矢張り日本皇国の道を忘れて、ごく浅薄な上面ばらりの伏見人形のやうな、表面は立派で裏に回ると素焼の土がそのままである、かういふやうな見かけ倒しの香具師ばかりに眩惑されてやって来たが為に、かういふ時代を招致したのである。
神さまは前もってさういふ事は御存じである。明治二十五年には腐敗したとはいへ日本魂も今より余程しっかりしてをり、生活状態も質素であり、政治も緊張してをり、宗教も謹慎して道を説いてをったのである。けれどもその時代に今日の事を先達をしていはれたのであるから、明治二十五年に書いてあるが、今日の状態が書かれてゐるわけで、丁度今日更生運動を起こすのは時期に適してゐるのである。
更生運動をやるに当って、一々政治、宗教についてここで細かく言ふわけには行かぬが、今日の状態を見れば大抵分ってゐる。一切万事全部更生して行けばよい。みな謬ってゐるといふ事だけは確かである。
第一金銀為本の政策といふ事がこの世の中に災ひしてゐる。外国は日本のやうな万世一系の天立君主がない為に、勢ひを得れば君となり主権者になるが、勢ひを失へば奴となり家来となる。あるひは殺されて了うたりする。さういふやうなほとんど畜類に等しいやうな政体をもってゐる国であるから、どうしても金とか銀とかいふやうな形のものがなければみな承知しない。けれども我が国は万世一系の神様直々の御系統の陛下がお出で遊ばされるのであるから、これくらゐ尊いものはない。神さまが世界で一番尊い、その御系統であり御直系である陛下より尊いものは他にない。その陛下の御稜威といふものを元としてやったら日本の国はすべて大丈夫である。経済なんか心配はいらない。
明治維新の時に兵馬の権を陛下に臣民が奉って、いよいよ日本の国は強くなって来たのである。けれども戦争を起こさうと思へば第一金が必要である。この経済の全権を陛下にお還ししなかったとふことが今日の禍いをなしてゐる。外国に色々なことを云うて内兜を見られないでも、自由自在に国運の発展が陛下の御名により御稜威によって出来るのである。
それについては私も三十年間叫んで来たけれども、その時代の当局の忌諱に触れたり何かして、ハッキリと書く事が出来なかったが、やはり今日はそこまで更生せなくては、日本の国の皇祖皇宗の御遺訓通り、隆々として大八洲の国を安国と平けく治めることが出来なくなってゐるのである。まづ一番がけに更生すべきものは経済の根本更生である。経済が豊かでなかったならば、宗教が何ほどあっても、これを聞くところに行かない。それだけの余裕が無いのである。だから人心はますます悪くなって来る。
政治家も経済のために先繰り精神が悪くなり、悪化して来るのである。経済の根本を謬ってゐるがために芸術家も心が卑しくなって本当の芸術品が出来ない。自分の第一、生活問題が頭に入ってゐるから、昔の名人のやうに、絵を描いても彫刻をしても何をしても、経済を度外して趣味一方でやることが出来なくなってゐるからロクなものが出来ない。
その他農業でいへば、今までの農業は日本人の戸数の少ない地面の沢山の時の、何百年何千年前からの農業を踏襲してゐるのである。しかるに今日は人口がこれだけ殖えて来てゐる。人口が殖えてかへって不毛の土地が沢山出来る。家を余計建てて行けばそこに物が出来なくなる。そして食ふものは余計必要が起って来る。これはどうしてもこのままにしてをったらいかぬから、二度作をやる。一年に二度取る、三度取るといふことを考へねばならぬ。陸地に稲が出来なかったのも、陸地に稲を作って水田と同じやうに作ったならば、山にも畑にも稲が出来るやうになって来る。
農は国家の大本である。農業から更生せねばいけない。農は国家の大本であると共に皇室の大本である。大嘗会の時にでも天皇御親ら田を植ゑ、稲をお作りになられる。皇后陛下は蚕を養うて機を織られる。これは農業の型を示されたのである。天照皇大神以来、農業をもって国を建てられたのである。農は国家の大本といふことは皇室の大本といふことである。農業は皇祖皇宗が教へられて皇室に伝はつてゐるところのものである。農業がなかったならば、日本の国民及び世界の国民は一日も生命を保つことが出来ぬ。
それから今日は生活費が沢山要るといふけれども、自分らの若い時分からみると非常に贅沢になってゐる。百姓といふものは働いて麦飯が満足に食へなかった。この頃でも収穫から勘定してみると、一日が十銭くらゐにしかならない。私どもの子供時分には八厘くらゐしかならなかった。それでも大根の葉っぱを入れたり、赤葉を入れ草を混ぜて食ひ、食へるものは木の葉も食って、そこに麦飯を入れてやっと百姓が生命を保ってゐた。それでもウンともグウともいはず、それがためにまた死ぬ者もなく、痩せ衰へるものもなかった。
今日は世の中が文明のお蔭で非常に結構になって、そんなことはせなくてもよいけれども、もう少し生活費の倹約といふことを考へ、実行することが第一更生だと思ふ。農家を更生させるには、収穫のことを考へのも大切だが、使はぬ、冗費を省くことが大切である。一方には収穫を、一方には冗費を省くことを考へたならば、農村の更生は数年の間に緒について、幾分かよい方に向ふだらうと思ふ。
個人の家でいうても、貧乏になるのと金持ちになるのとの境はどこにあるかといへば、ただ一日のことである。明日食ふ食料を今日食ふ人は貧乏である。昨日働いて得たものを今日食ふ人が金持ちである。それだけで金ののびる者とのびない者が出来る。貧乏になり金持ちになる分水嶺は何でもない、ちょっとの心得やうである。これはどんなにでもなって来ると思ふ。この更生運動も、さういふ小さいところにあると思ふ。