文献名1惟神の道
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3宗教と政治よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考「神霊界」大正七年五月一日号所収「宗教と政治(二)」の一部に似た文章がある
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ページ287
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本文
今日の教育家や宗教家は、寒ければ火鉢に暖まれといふ、もし火鉢で足らねば暖炉にせよといふ、それでもなほ寒ければ何とする。酒でも飲んで炬燵に暖まれといふ、実に注意周到な御教示である。炭火もあり重ね衣する衣服も持ってゐる人はいいだらうが、貧困者は一体どうすればいいのか。教育家や政治家は炬燵に入つて居って暖くても、隣の杢兵衛はそれが出来ない。大家の旦那は酒を呑んでストーブに暖まってゐるが、私には暖炉の設備が出来ませぬ、酒も呑めませぬと云ふ人が世の中には沢山ある。
この場合に、大風呂を沸かして向ひ三軒両隣の人々を招いて、素裸体にしてその大風呂にブツ込んで見給へ。十人でも二十人でも一時に暖まつて、誰彼の差別なしに同様に暖かいから、着物を重ねて着る世話もなく炭火を購ふ要もない。裸体ほど平等なものはない。誰の羽織が絹物で、誰の衣服が木綿物だと議論する必要がない。一様に暖かい湯は誰にも同様に暖かいに相違ない。今日の教育や宗教は、炭火を用意せよ、着物を重ねよ、と教へる個人修養の道のみを説いて、満天下の民を一様に幸福に導く教、即ち風呂へ入れる方法を説くものが無い。ヤレ修養だとか、ヤレ修行だとか、ヤレ道徳、ヤレ宗教だとか云って、いろいろな事柄を強ひられるが、果して吾々の全体を通じた仲間にそれが出来ようか。出来る人もあるが出来ぬ人も沢山ある。
然らば彼の桃源に鋤犂を採って働いてゐたいといふ人々が毫も悪事を為さなかったと云ふのは、果して彼らが幾多の修養を為し種々の修行を積んだ結果であらうか。周囲の空気がことごとく花の香を含んで春の光があまねく人の上に輝く場合に、誰がさもしい心を抱くものがあらうか、抱かむと欲するも得べけむやである。環境が良ければ無意識に人々は善を行ひ善き集団を作り、自然の天国がここに開けるのだ。社会が混濁した時に個人の修養が叫ばれ、世の中が乱れて来ると、修徳の人が重んぜらるるものである。古書や古人の言を引用するまでも無い。この世を悲観する際に宗教が生れるのだ。現界の不満に対して幽界幽事の願求が起るのである。真実の生活には顕幽の隔別はない、顕幽の別れめが実は人間堕落の第一歩なのである。現代の教育宗教の説く所は、ことごとく個人修養を勧める所の堕落した教義である。大風呂へブツ込み桃源を実現する用意がない。換言すれば政事を忘却してゐる所の閑人間の仕事である。国家治要の大本を忘却して、どうして万民和楽の天下が生れようか。
上に政道が乱れて下に修徳を強ひらるるより悲惨な世の中はない。吾人は個人修養を断じて否定する者ではないが、政道正しきに復して万民自ら修養の要を感ぜないやうな、真に幸福にして平和なる世の中にすることこそ、政治家たり、教育家たり、宗教家たるものの責務であると信ずる。
本来教育即政道、政道即宗教であってこそ、現土に始めて天国が来り、娑婆即寂光の浄土が実現するのだ。これこそ政教一致が皇道治要の大本である所以なのである。政治家が教を忘れて天下の動乱ここに兆し、教育家、宗教家が政を知らずして人民の苦難がそこに発生する。皇道政治は必ず教育を兼ね皇道教育は政事を忘れて存在しない。
今日の宗教家、教育家、政治家にマツリゴトの真諦を体得してゐる者の少ないのがこの非常時の真相である。今や「政教刷新」の声が貴衆両院から挙げられて来たことは喜ばしい現象である。我が国は信仰即政事、政事即道徳の国であって、この三者は個々に論ずべきものでなく、別々に行ふべきものでなく、渾然一体、融合不離の関係にあるものである。この道を惟神の大道即ち皇道といふのである。
かくして政治家も教育家も宗教家も、その他上下ことごとくがこの皇道精神に覚醒することによってこそ、始めて御稜威輝く光明の日本国を建設する事が出来るのである。