文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名31 父のことよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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父のことや、母のむかしのことは、母の口から直接に私が聞かされたものです。私は、母のそばに一番多くおりましたから、私はいつも、母に抱かれながら本当のことを話して聞かされました。
私の母、大本教祖に関していろいろとまことしやかなウソが伝わっていて、私はなんとかして本当のことと、真実の大本の歴史を今のうちにハッキリさしてもらいたいと思っていましたが、なかなか出来ず、少しは紙にも書いておりましたが、こんど、岡山からこんじんさまの御神体が入ってから、思っていたことが口をついて、すらすらと出るようになりました。
やっぱり時節だと思います。
それで、父のことから書き初めます。
父は養子で政五郎といい、実家は綾部近在の岡の境で、今も岡の八幡神社の裏手に、当主の四方順三郎といわれる方がついでおられます。四方の家はゆうふくな百姓でありましたが、父は宮大工となりました。とても立派な腕の方で、まだ汽車の開通してないころでしたが、そのころ、綾部近在十里四方で父の名を知らない人はなかったということです。
建築をたのまれ、図面を引きに行っても、テンゴウ(じょうだん)ばかりいうて、アハハアハハと笑いながら図面を引かれ、それでいてまことに立派な図面が出来上がるのに、皆ビックリさせられたそうです。
腕がよく、どこからも、かしこからも─政五郎さん─政五郎さん─と注文にこられるので、大工仲間からは大変そねまれ、ある夜、石原村の吉蔵という父の一番弟子が上町の喜兵衛という人の宅の前まで行くと、夏であるのに戸をしめて、家の中で大工仲間が集まって何かヒソヒソと話している声がふと耳に入ったので、戸の外から縁にこしかけ、ソッと聞いていると、「……政五郎を殺してしまおう……」という相談でした。明治初めの日本の田舎ほまだこんなものが残っていたのです。吉蔵はこれは大変とおどろいて父のところにかけつけてくれ、それで父は翌日、組頭に話してお酒を都合してもらい、それをもって上町の大工等のところに行き、話をして事なくすんだということがありました。
父は、大工仲間にはそねまれましたが、とても滑稽な面白い人でした。子供たちには阿呆口ばかりたたくので、ひどう好かれました。仕事に出かけられますときには、いつでも大工道具を手ぬぐいでグルグルとくくって手に持ち、それからわざとふんどしをプラリとさげ、ふんどしの端に石をつつんだりして歩くというオチャリぶりで、父が外に出ると子供たちが追っかけてついて行くといったぐあいの人でした。
父が亡くなってからも、よく私たちは「政五郎さんの子供とちがうかいな」と知らない人から呼びかけられ、「あんたとこのお父さんはホンマに面白い人やった」と聞かされることがたびたびありました。
父は、ことのほかお酒が好きでした。しかし人からのふるまい酒は他の酒好きの人のように呑まず、いつでも並松の一本木の「虎屋」という煮売酒屋が父の一生の酒呑み場所で、かならずそこへ呑みに行くことにきめておりました。
そのことで世間では虎屋のおかみさんと父との間に情交があるように噂して、そっと母のところに告げ口にくる人もあったそうです。(もちろん、母はそのような話に耳をかされるはずもなく、父が亡くなってから、母の信じていたように父が清廉な生涯を送ったことが世間の人にもわかったということを母は話しておられました)。
父は建前のときにも定った祝いだけのものは呑みましたが、それ以上はほかの大工のようにあとまで残って悪呑みは絶対にしたことがなく、与えられただけ頂くと、さっさと表に出て自分で虎屋へ出かけました。そこで自分の金でこころゆくまで呑んでいたそうであります。
父は家のことなどは考えずに思う存分に呑んでくるのですが、母は明日頂く米がなくなっていても不平一ついわれず、父は母の心中にも気づかずにただただ呑み暮したようです。
家の暮しがどうにもならないときであろうと、父は、仕事のかえりに串柿を十二連(千二百個)もエッサ(沢山)買ってかえり、「ホラみんな食えよ」という工合でトンと家計のことは判らぬ人でした。
またヒョウキンもので、綾部の亀甲屋をうけおって落成祝いのとき、そのころ綾部に初めて芸者ができてお祝いの席に出てきました。他の大工は初めての芸者のこととて恥ずかしがって顔を赤くし、芸者からおしゃくをしてもらうとキチンとかしこまってお酒をのんでいたそうですが、おどけものの父はデンと大あぐらをかいて、股の間からチョコンと出し、その先にご飯粒をチョンとひっつけ、知らん顔をしてお酒をのんでいたという人でした。
父と母とは、人もうらやむほど仲のよい夫婦でしたが、母は無口なキチンとした方でしたので、父のような人は家で仕事をしていても窮屈だったのでしょう。家にいるときは毎日いくたびか表に出て必ず近所の家に行き、アーアーと背伸びして「ああ口に虫がわきおった」と言っていたといいますが、父と母とは全く正反対な性格の人でした。
あるとき父が、母の福知山におられる妹さんが大病であるというので、その見舞いに出かけたことがありました。父がつくと病人は危篤で、母の実家では「すぐに綾部にいって姉のおなおを呼んできてくれ」とたのまれたので、父は承知の助とばかり、さっそく綾部をさして急ぎました。ところが父は途中で村芝居に出会いました。昔はよくあったにわか小屋建てのもので、ちょうど石原村まで戻ったところでこの村芝居にぶっつかりました。悪いことには、これがまた父の三度の飯よりも好きなもので、ちょっと見ているうちにだんだん面白くなり、とうとう大切な用件を忘れてしもうて、この村芝居に見ほれていただけでなく、巡業の村芝居について、その翌日も家に帰らず、その間に病人は亡くなってしまわれ、福知山から飛脚が綾部に着いたときにもまだ父は村芝居を追っていたといいます。
父はまた村の集会に行っても、いねむりばかりしていて、「政五郎さんの意見はどうや」と聞かれても「あゝよいよい、それでよい」という調子でした。
そうした父とつれそった母は、八人の子をかかえ、口にはだされなかったが、心中ハラハラとして大変なご心労をなされたことでしょう。
組内の人が、私の家の困窮を見るにみかね、ひさ子姉さんが二才ぐらいの時に、無尽をしてくれることになりました。昔は無尽をしてもらうと、組内の人へ酒の一パイもふるまい、食事をだし頭を下げよくよくお願いするのです。明日はいよいよ組の人が無尽のことでうちに集まってくれるというのに、父はどこへ行ったのか行方がわからず、いろいろ手配して探したところ、どうやら福知山へ行ったらしいということで、ともかく明日はどうしても父にいてもらわねば、集まってくれる人にすまぬと、母はひとり気をもんでおられましたが、夜の十時になっても帰ってこず、つつしみぶかい母もジッとしておれなくなり、何とかして父を連れもどして明日の朝、父の不在が父の恥とならぬよう、他人の笑い者にしたくないとて、二才になったばかりのひさ子姉さんをふところに入れ、雪のしんしんと降る中を福知山に向かわれました。
その夜は、雪が道をかくし、寒さは寒し、夜は更けるなり、狐の足あとでも、犬の足あとでもあってくれたらと思われたそうですが、八幡さんのところまでくるは来たものの、どうにも動きがとれず、岡の父の実家の戸をほとほととたたかれ、夜更けに藁をたいてもらって、こごえる手足を温め、そしてまた道もわからぬまでに降る雪の中を歩かれ、とうとう父をさがしあてられたのです。
母は、このことが他人に知れれば夫の恥になると、ひたかくしにかくされましたが、組のうちの一人がどうして知ったのか、「おなおさんはどうやら夕べ、あの雪の中を福知山までいっちゃったらしいでよ」と話しているのを耳にされ、非常に恥ずかしい思いをせられたということです。
とにかく、父はそんな工合でしたが、名人肌の人で、大工としての生涯で、間違いは只一度、柱を一本少し短かく切っただけと聞いています。
父の仕事の立派さはかいわいに名を売っていましたので弟子もいくたりかとりました。年期が来ると、そのあとの一年か二年はお礼奉公をさせるのがそのころの習慣でしたが、父は弟子が役に立つようになると、かえって年期よりも早く帰したものですから、弟子はみな栄えても、自分はいつも貧乏していました。あまりにお人好しで、貸したお金は催促もできず、建前を請負っても因業なことの出来ない人であったばかりでなく、仕事をすればいつも損をする、といった少しもお金をうちにもってかえることがありませんでした。そのために、自分の妻や子がどんな苦しい気持ちに堪えているか、というようなことは少しもわからないふうでありました。
それでも母さまは一言の不平もなく
「どんなに貧乏はしても心までは貧乏はせぬわいな」
と言われてせっせと働かれたのです。
夜分、あたりが寝しずまっているころ父が「おなおや、今年は何貫貧乏したのう。いくら借金したのう」といわれると、母が「そうですなア」と、うなずいていられるふうの寝物語りの声が、近所のきん助さんの家に聞こえたことがあったそうです。
私の生まれたころには、土地や家倉もつぎつぎと人手に渡って、家にのこったものといっては、いろはの文字と同じ数の四十八坪の土地だけでありました。
それが、艮の金神さまの神霊が初めてお降りになった坪の内の屋敷であります。いまも綾部梅松苑の大榎の本の元井戸のあるところです。私は三つくらいのとき、清吉兄さんは十二歳くらいとおぼえていますが、艮の金神さまが母の体にかかられたころ母は饅頭屋を始めておられました。若いころ福知山の饅頭屋に奉公されていたことがあり、鰻頭の作りかたをおぼえられたのです。
夜なべをかけて、きちっとすわられた姿で、母のひかれる大きい石臼から、雪のように白い粉が吹きこぼれて、こころよい不断の音が響いていた光景は、いまも目に新しく私に甦ってきます。そして、その母の、端然と坐られた、もの思い深げな姿が、世の根の神がかかられた頃の母につながる印象であります。