文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名34 石臼と粉引きの意味よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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眼をつむって、じっと過ぎこしかたを振り返ってみますと、人の一生というものは本当に夢のようであります。幼ないころのことが一度に浮かんできまして、あれも書いておきたい、これも書き残しておきたいと思って、ときには筆のはこびが後先を違えて走っていることを、書いたあとで気づくのです。
私の父は一生の間に三百軒の棟上げをやったと言いますが、一代でこれだけの家を建てた大工は珍しいそうです。父は人気のよい大工で、かいわいの仕事はみんな父のところへ来るということになり、他の大工はあがったりということになったのでしょう。本宮に八郎兵衛という大工がいまして、この人が父の人気をねたみ、妙々さんという神様に父を呪い殺す願かけをしました。ところが願かけの一週間目に八郎兵衛さんは、明日娘を嫁入りさすという或る財産家の嫁入り道具を盗み、それが大事になり、それからの一生を牢屋に入ったり出たりして、とうとう最後には首を吊って死んでしまうということになりました。その後にも八郎兵衛さんの家からは盗人が出たということです。
そのころの本宮村はそんなに多い家かずでもなかったのですが、宮津の監獄では綾部から来る人はみな本宮村からの人ばかりだといって不思議がったということです。
今はだんだんとそうした人はいなくなりましたが、以前はまともな人は二、三軒くらいなものだったでしょう。大本に反対したことでも本宮村の人が一番でした。宗さんという人がいましたが、大本のお祭りに地方から大勢の人が参拝に来るのをみて、デンと坐って「何じゃい、大本さん大本さんと阿呆らしい。見てみい、びんぼう人ばっかり来らや」と悪口のありったけを言っている処へ、電報が入り、見ると、妻と子供が鉄道にひかれて片腕をもぎとられた、という報せであったということがありました。
藤兵衛さんという人は、父を出口家へ入れた仲人でしたが、親切ごかしに父に金をかしては田や畑を取り上げて一時は大変物持ちになりましたが、今はみるかげもなく跡継ぎもなくなるようになり、まことに不思議やと思っております。
しかしこういうような本宮村に私の祖先が住んでおり、教祖さまがおいでになって、あるにあられぬご苦労をされ、また私が生まれましたのは、大本のお筆先にありますように太古からの深い因縁によるものであります。
明治十六年二月三日の節分、旧明治十五年十二月二十六日白梅の薫る頃、私は教祖さまの三男五女の末っ子として、綾部新宮の元屋敷に生まれました。そこは昭和十年十二月八日におこりました政府の二度目の大本弾圧ですっかりこわされましたが、昭和十年の事件までに綾部の大本に来られた人は知っていられます、あの石の宮のありましたところで、石の宮の天の御三体の大神様がお祀りしてありましたあそこで、私は生まれたのであります。
教祖さまが私をお腹に宿されましたのは、教祖さまの四十七才の時で、同じ年、私の姉のおことさんにも赤ちゃんができましたので、教祖さまは恥ずかしく思われてか、腹帯をきつく締められていて、近所の人々は教祖さまの身重なことに気がつかなかったそうです。それで私は近所の人の知らぬ間に生まれまして、人びとは“おなおさんの子はどうしなはったんやろう”と言うたくらいであったと聞いています。私は、七月児で、生まれたときは片方の掌の上にのったほど小さな赤ん坊だったそうです。産声を挙げると、あと三日ほどは泣かなかったのですが、それが少したちますと、とにかく早くから口が利きだしまして、教祖さまも「この子は口が三年先に生まれております」とおっしゃったくらい、ようしゃべったと聞いています。
教祖さまが綾部においでになった頃の家は、いまの本宮の大島家と同じ型でした。大島の家はうちの家を真似て造ったそうで、綾部では瓦屋根をふくには格式がいって、本宮では出口家が許されて瓦ぶきの立派な建ものであったと聞いています。
それから三度目に建てた家が私の生まれた家で、四十八坪の土地に八畳と六畳と店に板の間が二畳との小さな家でした。
性来暢気な父は、自分の大きな家を人手に渡し、その家が上町の人の手で他処へ移されるにつき自分たちの住居としてさきの小さな家を建てたのですが、普通の人ならションボリとなさけない気持ちでいるはずのところ、ベニガラを塗った上方風の建前ができ上がった時に、よい機嫌で「稲荷のような家たてて鈴はなけれど中はガラガラ」と、即興を唄って、いとも陽気でいたそうです。
その家で私が生まれまして、また教祖さまが後に帰神になられたのです。しかしこの因縁ある家も、私が八木に奉公にいっているうちに、大槻鹿造さんが角蔵さんに売ってしまいました。
父は前に書きました通りの無頓着な人であり、そのころの教祖さまのご苦労はあるにあられぬものになっていたようです。父は町に芝居がかかると、どんな時でも出掛けて行きました。そういう時、いつでも教祖さまは苦しい中から父の好みのものを心配され、父の弁当を作って渡されましたが、父は帰りには必ずお酒に酔って踊りながら「酒ニ酔ッタ酔ッタ五勺ノ酒ニ一合飲ンダラ由良之助」などと唄っていたものです。そんな日が続いても、教祖さまは一心に石臼をまわされて饅頭をつくる粉をひかれましたが、ある時、ただ一度、さびしげに石臼に半身をもたれ、じっと首を垂れていられたことがありました。私はその時ほんのいたいけな子供でありましたが、なにも分からないうちにも、その時の教祖さまのいつにない寂しげなお姿を覚えております。少し大きくなってからもその時のお顔を思い出して心を痛めることがありました。
その時、教祖さまのお気持ちをさびしくしたものは、家の生計を少しも考えられなかったお父さんのことでなく、私たち子供に明日はどうして食べさしてゆこうという悩みであったのです。
遠いおぼろな私の記憶の中では、私が母のふところで眼をさました時は、いつでも石臼を手に廻していられました。私がむずかればあやされ、そのうちに眠っていった時のことを私は覚えています。
教祖さまの作られた饅頭は、清吉兄さんやひさ子姉さんが町に出掛けて売りに歩かれました。そのころの出口の家運は衰え、家に残っているものとては、教祖さまが朝に夜に手にかけていられた石臼一つだけでありました。しかもこれは出口家先祖代々が使って来たもので、教祖さまはその石臼に頼って生計をたてられたのですが、これには深い意味があることを私は悟らしてもらうことができます。教祖さまのご苦労がにじんでおるこの石臼は今でも残っております。
これは大変大きな世界の立替え立直しの型だと私は思っています。私たちの住んでいるこの現実界の他に霊界という世界があって、この二大境界によって宇宙はなり立っています。そしてこの宇宙には型という働きがあるのであります。母の使った石臼は天と地の二つの型であり、その中心に要の棒があり、これをゴロゴロとまわして粉を作るものですが、地の石は地の大神つまり大地のみろくさま、上の石は天のみろくさま、この天と地のみろくさまがカッチリと天地に組み合わされて、要の神が真中にあって、天地の神様がグレングレンとまわって子(粉)を生む大きな型であったのであります。そして天地の石がピッタリ息が合って初めて粉は出来るのであって、その上中心の棒がシッカリとしていないと良い粉(子)は出来ません。天、地のみろくさまが天と地(上と下)に組み合い重なってシッカリした棒を中心にしてピッタリ息を合わせて立派な良いサラツの粉、すなわち子供、つまりまめひとたちが生まれ、初めて世の中はその新らしい粉、つまりまめひとたちによって良い世をつくるという深い深い神秘があると信じています。
母は、そのように深いご神意のあります石臼を廻して、夜もろくろくに眠らずに励まれました。そのころは貧しいうちにも母さんはいつも私達の傍にいて下さいましたが、その幸いも過ぎてしまいました。
父が病気になり、ずっと寝つくということになりました。父の病いは長引き、母の苦労は想像することの出来ないものとなりました。それは今の時代の人にはいうても分かってもらえんご苦労であります。と言いますのは、貧乏人とか労働者とかいうものが、今以上に虐げられたころで、その時代に女手一人で一家を支えることの至難なことはとてものことでありません。
しかし、どのような貧困の苦しいさ中にありましても、教祖さまは世間の人達にありがちな貧乏くずれはみせられず、粗末な着物でも、いつも折り目正しく清潔にされ、髪などもいつもキチンと結われ乱れたことはありませんでした。そのことば私の童心にもはっきりとおぼえておりまして、それを私のひそかな誇りとして、母を慕って来たのであります。
教祖さまは饅頭屋ではいよいよ生計をたててゆかれなくなりました。そのころの綾部の町には、仕事という仕事がありませんでした。そこで教祖さまは古ボロを買いに出られることになりました。
そのころおひさ姉さんは岡の父の実家に奉公していましたが、教祖さまが病気の父をおいて商売に出掛けねばならなくなって、呼びもどされました。
教祖さまは朝早く起きて、先ず天照大神を念じておられました。そうして出てゆかれます時はいつもきまって私どもに「家のまわりに雑草一本でも生やさないよう気をつけて採り、内外を綺麗に掃除して下され、それから藁一すじでも他人の物に手を掛けてはなりませぬぞ。お前達が浅間しいことをしてくれると、この母の首に縄を掛けることになりますよ」とやさしい声で言われ、姉のおりょうさんと私には、幾厘か残して出かけられました。
帰られるのは夜の八時頃はまだ早い方だったと思います。友達はいなくなり、夜遅くまで待っておりましてもなかなかお帰りはなく、他の家々は戸を閉めてしまい、その時の心細さ淋しさはいまだに忘れられません。いつも上町の辺りまで迎えに行きました。遠くの方から足音がシトシトと一歩一歩近づいてまいりますので、飛んで行って「お母さん帰って来なはった」といいますと、母も喜びまして一緒に家に帰りました。
それから兄と姉が手伝って一つ一つ紙屑は紙屑、古つぎは古つぎ、毛類屑は毛類屑と選り分けまして、それを売りに出まして、それからお米を買って晩い御飯を頂くのでした。その頃は何というても米一升は四銭五厘という時代でしたが、一文銭つなぎの二拾文を商売の元金とされて、米代だけをもって帰られるのがなかなかでした。今から思ってみると淋しいものでした。
そのころ、母は一度も腹一ぱいの食事をされたことがないと聞いています。母の留守中はひさ子姉さんが炊事をやり、おりょうさんと私が父の看病をしました。教祖さまは商売に出かけられる時、よく私とおりょうさんを呼んで、自分の弁当のおにぎりをだして「これをたべよ」と言って、おいてゆかれました。
父は病床につきましても「おなおや酒買うて来てくれ、梨買うてきてくれ、甘酒こしらえてくれ」と教祖さまに無理をいっていました。それを教祖さまはそのままきかれていました。三年もの月日、父は病みついて母さんに苦労をかけるので、みかねたひさ子姉さんが「いっそのこと父さんが早く死ねば、母さんはこれほど苦労なさらぬのに」ともらしたところ、教祖さまは歎かれまして「お前にとってはタッタ一人のお父さんやで、鉄の草鞋で探してもお前のお父さんはここに寝ておられるお父さんより外にはないのや、また母さんには二人とない夫やから、私はまだまだお世話が足らぬと思っています。もう二度とそんなこと言わずと按配よう世話をして上げてくだされや、もしものことがあったら一生くやまねばなりません」とさとされました。
父のことは、すべて大本の教を開かれました教祖さまのご修行じゃったと思いますが、困窮は更にふかくなり草粥を食べることが多くなってきました。そんなになっても教祖さまは「私は要りませぬから、お前達が食べなよ」と言って自分は食べずにすごされることがありました。
ある冬の日でありました。いつものように教祖さまは、やさしい笑顔を残されて商売に出掛けられましたが、夜になって何時まで待っても戻ってこられないので、「母さんは!母さんは!どうしちゃったんやろう」と、淋しく眠られない夜更けを床の中で姉さんと抱きあって、ただ耳をすまして教祖さまの帰ってこられる足音の聞こえるのを待っていました。
教祖さまは綾部から三里、五里も離れたところまで商売に行かれることがありましたが、その日も遠く出られたらしく、その帰り綾部から三里ほど先の普甲峠まで帰ってこられますと、夕方から降りだしていた雪がにわかに激しくなり、たちまちのうちに道も分からないくらいに積もり、引返すことも進むことも出来ず、それまでもこの峠路は三度ばかり死にかけられるような危い目に遭われたところで、丁度峠のなかばごろまで来られますと、教祖さまの体はくたびれきってしまわれて、背に負われた荷物を雪の上におろして、それに身をもたらせながら、どうしたらよかろうかと思案にくれられました。家に帰らねば病気の夫と、夫の世話をしている子供たちが待っているなり、これはこうしておれぬと、そこで勇気をおこして吹雪の峠を越えられ無我夢中で家に帰ってこられました。
これまで教祖さまが、そのとき普甲峠で落ちられたと伝わっていますが、それは違います。教祖さまはどうしたものかと悩まれましたことは事実ですが、どんなつらい時でもしっかりと踏んばって進まれました。
夜もだいぶん更けて、髮の上や肩の雪を払われながら教祖さまが戸口に立たれました時には、さすがの父さんも床の中から掌を合わせて母の姿を迎えていました。それからの父はすっかり変りまして、教祖さまが商売に出掛けられますときにはいつでも母さんを拝んでいました。教祖様はこんなご難儀をなされても、家の生活については、一口も親類の人びとに話されませんでした。一番上の姉はその時分は楽に暮しておりましたものですから、「こんなに苦しんでおるのに母さんは何で言うて下さいませぬか」と母をなじったこともありました。