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文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名38 幼なき姉妹よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c10
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本文の文字数4183
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本文  夏がすっかり過ぎて、秋風がこく身にしみるころ、色こまやかな綾部の里に、私はふたたび帰ってきました。
 そのころ綾部には、まだ郡是製糸もなく、他に女の仕事がなかったので、母は遠くまでも仕事に出かけられました。
 母が仕事にでてゆかれますと、家にはおりょう姉さんと私と二人きりになりました。おりょう姉さんはおとなしい、いい姉さんでした。二人で柿を食べていても、私はグワッグワッと自分の持っている柿を急いで食べてしまうのに、おりょう姉さんは静かにチビチビ食べているといった調子でした。私は自分の分を食べてしまうと「おりょうさんお前の柿くれい」とねだりました。姉は「いやでよう」と言っていましたが、私は「くれなければゲンコかましたる」と手をふりあげるのでおりょう姉さんは「そんじゃ一つだけ上げる」と言うて私にくれました。私とおりょうさんは、年も二つ違いの姉妹でしたから、おりょう姉さんの思い出はかくべつ懐かしいものです。
 私の家のすぐ下に与助さんという家があり、そのころ与助さんは亡くなっておられ、オキさんという後家さんとお梅さんというろうあの娘が残っていました。このオキさんは大変よい人で、教祖さまとも仲良く、商売にも一緒にでかけられました。またお梅さんもよく私のところにきて、おりょうさんと私と三人で一しょに遊びました。
 おりょう姉さんと私と梅さんと三人連れで、天王平の奥山や若宮さんの山、また質山の奥山へ柴刈りにでかけました。ほうばひろいというて大きな木の葉をよくひろいにゆきました。これは軽くて焚き付けによいものでした。柴作りも度かさねて行っているうちに、子供ながらにだんだん利巧になるもので、竹の棒の先に鎌をしばり付けて山の木の大きな枯枝をポキンポキンと折って廻り、またたく間に柴を集めるようになりました。それは数え年の八ツごろのことですが、近所の人は「おすみさんは十五、六の年の仕事するなあ」と言うていました。またそのころ、桶に相当の水を汲んで、それを天秤でかついで運ぶ仕事もしました。働くこともよく働きましたが、私の子供のころは底ぬけの遊びに呆けて、母を困らせたものです。
 綾部に布袋屋という古道具店があって、そこの主人がよく市を開いているのを見てきては、その真似をしました。家の鍋釜や、膳、ざるというものを持ち出して、以前に西門のあったところから金助さんのところまで並べ「サアイランカ、市ジャ市ジャ、買ウテクレンカ、安クマケテオクゾ」とせり市の言葉を使うて、何んでも人にやってしまいました。貧乏な家のことですから、これというものは何もなかったのでありますが、それでも暮しの道具はまだあったものを、しまいには味噌、醤油まで人にやってしまって教祖さまも困られたそうです。持ちだすものがなくなると、母が大切にしまっておられた縮緬でできていた旗と法螺貝がみつかったのを、それまで人にやってしまい、母は商いから帰られ、これを聞くなり「これは、どうもならんな」と言われながら、返してもらいに探されたことを憶えています。
 昼のうちはヤンチャして遊び呆けていましても、日も暗くなり、よその家の<行燈>に灯がともるころになると、そろそろさびしくなり、家々の戸が閉まり、辺りが暗くなると、どうにもこらえきれなくなり、そんなとき、下の家からお梅さんが訪ねてくれるのが何よりのなぐさめでした。私は教祖さまが背に荷を負われている姿を、まだ帰って来られないことを手真似でして、お梅さんを家の中に入れ、昼間に三人が山から拾ってきて分けた柴を焚いてあたりました。また梅さんのところに三人で行き、梅さんとこの炬燵に入れてもらい教祖さまの帰りを今か今かと待ちながら、そのうちに炬燵の中で睡ってしまったこともあります。梅さんは私の淋しい日のなつかしい仲よしでありました。
 母の帰りは、夜な夜なおそくなりました。私は一人で門に立って、遠く向こうをじっと見つめながら母さんを待ちました。そうしてじっと外を見ているうちに、一足二足歩きだしていました。権現さんのところまでゆきますと、草鞋履きの母さんの足音がしてきました。私は「母さん」というて走ってゆきました。教祖さまは優しい声で「はい」と言われて、私の手を握って引いてくださいました。私は何もかも忘れて手をひかれて歩いていました。母は私の手を引きながら、「早う帰ってやろうと思うても、思うように足が運ばぬのでな」と言われました。
 家に帰ると母は、「さあ母さんがもどったでよ」とおりょう姉さんに言われ、さっそく柴をとられ、竈に火を焚かれました。「御飯たべえや」というて、お茶碗によそって下さいました。御飯というても、いまごろ皆さんが頂いているようなものではなかったのです。
 母はその日の商いのもうけの中から一合なり二合なりの米を帰りの道で買われ、それでお粥を炊いて下さるので、教祖さまが帰られるまでは、どんなにおそくなっても私たちはお腹がすいたままで、母を待たねばなりませんでした。
 母は百姓が落としている麦の落ち穂があれば、一つでも拾ってきて、それが二三合もたまると、碾臼で粉にしてハッタイ粉を作って下さいました。また樫の実を拾って帰られると、臼の中に入れてぐという槌で打たれ、それをさらしてさらして団子にして下さいました。ある時は黍を買ってきて臼で粉に碾かれて黍団子を作ってもらって食べたこともあります。
 ひところ母は山家に向けてよく仕事にゆかれていることがありました。そうして、「帰りには山家饅頭を買うてきちゃるでな」と言ってでかけられました。そのころ山家に麦でつくった餡のおいしい饅頭がありました。一つが二文で、おりょう姉さんと私に二銭がとこも買ってこられたこともありました。そのころはお父さんが亡くなられて家が七円五十銭で銀行の質においてあったころですから、母としては大ふんぱつであったのです。私はこの山家饅頭が好きで、よく母に、「山家饅頭買うてきてや」とねだりました。夜になって私たちがくたぶれて寝てしまっても、帰ってこられると、荷物をおくと草鞋ぬぐ間が待てず膝で畳の上を這うて、私とおりょう姉さんが睡っているところへきて、「おりょうや、おすみや、山家饅頭買うて来たで」と言うてゆりおこして下さいました。私は寝とぼけて、「饅頭買うてきてくれたか」と言いながら、起き上がってその山家饅頭を頂いたそうです。母は私達が可愛ゆうて朝まで待てなかったのです。私は食べおわるとすぐ睡りこけてしもうて、あくる朝、母さんから「ゆうべの山家饅頭うまかったか」と聞かされても、私は「知らぬ」というたので、「あんなつまらんことなかった」と教祖さまは後になっても話されました。
 やはり私の数え年八つの初夏のころでありました。晩げになると、私はいつものように母さんを迎いに外にでました。蛍の出る頃で
  蛍来い ぶんぶくしょう
  柳のすあいでぶんぶくしょう
とうたいながら川糸の細道まで出ると、道の下の川面をすいすいと蛍が飛んでいました。私は川の中まではいって夢中になって蛍とりをしていました。川の中をバチャバチャ歩いていても母さんの足音が聞こえてくるのに気づき、母さんだとわかりました。私は蛍のことも忘れ川の中からとびだし、母さんのお姿を求めて走ってゆきました。
 初夏の夕暮れ、蛍のとび交う光景は、私のこころに美しく染まっていて、いまでも美しく描き出せます。未決監房にいれられても、そのことを詩に作りました。
  故里なつかし幼な時
  母はその日の生計に
  朝まは早く夜はおそく
  姉と二人が家の番
  昼はたわむれ遊べども
  晩げになればさむしなる
  母を迎いに二人づれ
  川糸の細道した川の
  蛍こい、ぶんぶくしょう
  岸根にとまる蛍虫
  お尻まくって蛍とる
  しとしと聞ゆる足の音
  母と見るより跳び上がる
  母はにっこと笑みたまい
  わが手を引いて帰らるる
  うちに帰ればくらがりの
  カチカチカチと火打石
  とぼす行燈もほそぼそと
  神にささぐる油なし
  メイタに火を点けて献げられた
 未決にいるころは、ひまなので思い出すままに口ずさんでいました。教祖さまは火のついたメイタ(つけ木)を手に高くかかげられて神さまにささげていられました。貧者の一燈という言葉がありますが、教祖さまのはまことにそれ以上のものでした。その時、神様は「そなたの真心がうれしい」と申されて喜ばれたということです。教祖さまは他人にも言われず、自分でも気づかれていなかったかも知れませんが、そのころから神様のみ声を聞いておられたようです。
 教祖さまが帰ってこられると、その日のもうけの一文銭を一文一文こよりに通して、シュッシュッと音をたてながら算用される音を聞くのが、子供ごころに楽しみでした。私は五厘ずつ一くくりにするのを手伝ったこともありました。
 貧しい者には他にない楽しさもあります。蛍のころになると近所の子供とおなじように蛍かごが欲しくてほしくてかなわんのですが、とてもそんなものは買うてもらえませんので、私は畠の葱をとってきて葱の中に蛍を入れて愛しみました。そしておうちの蚊帳の中に入れて、蛍をとばしました。うす青い蚊帳の中を飛び交う蛍をながめながら寝ていると、その楽しさに深くひたれるのでした。しかしある時流しの棚で柄のとれた杓を見つけ、柄の穴から蛍を入れることを思いつき、蚊帳の古い裂をはり有頂天になってそれをさげ、近所の子供たちに交って、蛍がりにゆきました。蛍を呼びながらも、うれしさが身うちをかけめぐりました。
 私とおりょう姉さんは馬場に芝居がかかると木戸番の人に頼んで、無料で入れてもらいました。そして帰りにおよね姉さんのところによりました。そのころ姉さんは小料理屋を出して、繁昌していました。夜おそくまで店の表をあけていて、私が「姉さん」というと、「はいりや」といって姉さんは饅頭などをだして「食べな」といって優しくしてくれました。
 およね姉さんは私には良い姉さんでした。慾がなくて、自分のものも人のものも分からない人で、それで人にも良く好かれましたが、教祖さまにはきつく当たりました。これは霊系を立直される神界からの関係によるもので不思議なもので、こわいものであります。
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