文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名39 母は栗柄へよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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そのうちにおりょうさんは子守り奉公にゆき、私は西町の大槻鹿造さんのところにあずけられました。そうして母は栗柄というところへ糸ひきにゆかれました。
西町にあずけられた私は、自分の生まれた新宮の家が恋しくて、家を見にかえりました。母さんは栗柄に出かせぎに、家には鍵がかかっていました。それでも私は家の囲りをぐるぐる廻って楽しみました。家のぐるりには母さんの植えてゆかれたナンバ(唐黍)が背高く伸びていました。風の吹くたびにナンバの大きな葉が鳴り、青い皮のある実がゆれました。昼も夜もこのごろは母さんから離れて、さびしい思いの私に、母さんの植えてゆかれたナンバは眼に沁みるようでした。しかし私はなぜかそのナンバの毛をむしりとって両手ではさんで、「毛が生えた毛が生えた」と大声で言いながら町を走ってゆきました。町を通る人が面白がって見る。その表情に、私の悲しみはかえってするどくなるのですが、私にはなぜか、そうしなければ居られないのでした。そしてまた西町にもどりました。
ある日、西町で伝吉兄さんから糸つなぎを習っていますと、そこへ母さんが栗柄からひょっこり帰ってこられ、大変ほめてもらったことをおぼえています。
母は夏中を糸引きして、働いた金で、私のあずけ賃として西町の大槻鹿造のところへ、一日米三合とおかず代として三銭を払っておられました。私には八十銭で双子縞の着物を一反買って下さいました。これが母さんが私に初めて買うて下さいました着物で、その時のよろこびとともに色目までもよくおぼえています。他の姉たちは他家に嫁いだり奉公にでかけて私一人が残っておりましたところで、教祖さまとしましても一番生計の楽なころであったようです。
私もあずけられてはいましても、一人で一瀬山に柴刈りにでかけ働いておりました。ある時、柴を背負って帰りの路で喉が乾いてしようがないので、池のところに降りて水を飲もうと思い、池の樋のところに足をかけて、手でゴミを分けながら、口を水面に近づけようとしたはずみに、池の樋がゴトンとはずれて私は池に落ちこみました。私はあわてて無我夢中で這い上がりましたが、手の指の爪の中の半分どころまで土がささっていました。えらい勢いで生命がけで這い上がったものらしいです。
樋がはずれると池の水が近くの田に流れこんだので、働いていた百姓さんがびっくりしてかけ上がってきてくれました。
「お前、自分ではい上がれたのか」と聞くので「はい一人で上がりました」と言うていると、「なんと運のよい子じゃのう」と言って感心しておりました。それは樋がはずれると池の水が非常な勢いで走り出るので、水の力に吸いこまれて大人でも生命をとられることがあるそうです。
いまの彰徳殿の近くの池に菱の実とりにゆき、溺れかけたこともありましたが、その時も不思議に助かりました。そういうことは他にもありまして、これは後になってその時その時、神様に守られていることを分からしてもらいました。
蛍とりに夢中になって、権現さんの森に迷いこんだこともありました。どうしても外にでることができんので困りきっておりましたとき、パッと目の前が明るくなって、急に辺りが見えました。その時はただ家に帰れた喜びで不思議なことに気付いていなかったのですが、綾部の町はそのころ三百軒ほどしかなく、権現さんの森はいまよりはずっと大きく、年へた木が繁っていたのです。およね姉さんが神がかりになった時に「熊野大権現であるぞ、おすみ、お前は蛍とりにきて道を失うて困っているとき、こちが道を教えてやったことを覚えておるか」と言われまして、不思議なことやと思ってきいたことがあります。