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文献名1大地の母
文献名2第8巻「怒濤の響」
文献名3大橋越えて
著者出口和明
概要王仁三郎の直に対する反感が高まる。『道の大本』執筆。
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-07-26 23:59:53
OBC B138908c12
本文の文字数14675
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本文 「こら、くそ婆あ、兄やんとり返しにきたが、文句あっかい」
 今にも降りそうな寒い二月末の空であった。貧弱な体を精一杯構えて凄みつつ、新婚ほやほやの由松が連れの男と共に龍門館の表に突っ立った。
 四方祐助がとんで出て、見知らぬ男二人にかっとなって言い返した。
「くそ婆あとはいったい誰のこっちゃい。お前ら、どこのガキや。返答によっては、か、かんべんならん」
「うるせい、ひょうろく玉の禿げ頭。爺いは引っ込んでけつかれ」
 中村竹吉、四方藤太郎、出口慶太郎らが二階の窓から首をつき出す。
「お、由松はん……」と、顔なじみの慶太郎が叫んだ。
 由松は持ってきたからかさをふり上げ、二階に向かってどなる。
「やい、こんこんやちきちの金神気違いの上田喜三郎、とっとと出てこんかい。かわいい弟がはるばる穴太くんだりからやってきたんや。お母や妹を弟に押しつけやがって、総領の兄いが一文の銭も送りさらさんと、それで大きい面して、よう三千世界の立替え立直しやてなことホラ吹きよるわい。親の面倒ひとつ見れんような家にへばりついとらんと、おん出て帰んだらどうやい。証人として、穴太から万屋のおっさんに来てもろたぞ。こら面出せやい」
 ――由松や、ああ、由松が暴れこみやがった。
 王仁三郎は、万年床と机一つきりの臥竜亭を見渡した。ない、弟にやれるものは何もない。机の上の『道の大本』の執筆に用意してある生紙一折をわしづかみにして立ちすくむ。表から筒抜けに由松の大声が響いてくる。
「うー、寒うてしゃあないやんけ。けどこんな気違い屋敷の柴などいらんわい。よし、お前ら、見とれよ」
 由松は、パリパリと新の油紙の音を立てて、からかさを開いた。それを玄関先に転がしておいて、パッとマッチをする。
 二階から澄が駆け降りてきて、渡り廊下を踏みならし、臥竜亭にとび込んだ。
「さ、先生、これを……」
 澄が突き出したのは、ずっしり重い布の巾着だ。
「助かった。なんぼや……」
「さあ……」
 直が渡してくれたものと、とっさに察した。役員たちが働いた日銭の中から捧げる貴重な筆先の紙代にちがいない。
 懐にするなり、王仁三郎は障子を蹴破る勢いで走り出し、すさまじく燃え上がる紅蓮のからかさをとび越えた。
「何さらすかあ、このやろう……」
 叫んでおいて、王仁三郎はどっと由松に組みつき、雪泥道をころがる。群がった役員たちは、あっけにとられて派手な兄弟喧嘩を眺めている。
 由松ははね起き、胸をおさえ、まわりの一同を見渡して、にやっとした。
「帰れ、帰ってくれ、由松」
 雪泥まみれの王仁三郎が押し殺した叫びを上げる。
「おう、今日は帰んだるわい。けどなんぼでもまた来るで。兄い、お母のいること忘れんなよ」
 肩怒らせて由松は引き上げてゆく。懐から生紙一折取り出して、王仁三郎は、呆然としている万屋の若主人斎藤鹿市(三十三歳)に手渡した。鹿市はあわてて由松のあとを追う。
 龍門館が見えなくなるあたりで、鹿市は由松に追いついた。
「由やん、こんな紙もろたぐらいで逃げるんこ。お前、どないなっとんや」
「まあ、その紙はお前にくれたるわ。ばば紙にでもせい」
 由松はにんまりとして、懐から重い巾着をとり出した。
「あっ、いつもろた」と、鹿市。
「ぶつかってきよった時、兄やんが懐にねじ込んだんや。少なかったら因縁つけたるのに、すぐ見るわけにもいかんさけ……ちぇっ」
 中身を掌に開けてみて、由松は舌打ちした。なんと、小銭ばかりだ。けれど、今更ゆすり直しに戻るのも間が抜けている。
 からかさを失った由松の背に、さむざむと氷雨が降り出していた。

 誰が吹くのか草笛の音。
 音に誘われ、暗い部屋を出る。疲れた目と神経を休めたかった。
 王仁三郎は庭に下りる。庭と呼んでいるけれど正確には畑、七十歳になる出口直丹誠の畑だ。作り手の性格を象徴して、腹立たしいばかりに真直な畝、青野菜の双葉が初春の風にかすかに揺れる。けれどこの庭に、王仁三郎の心を和めてくれるものはなかった。
 花のない庭――息苦しくて、王仁三郎には耐え切れぬ。
 庭の西側の薪置場を裏へまわると、杉垣をへだてて隣の内田家が見える。その垣の向こう側に、桜草の小さな五弁の花が群がり咲いていた。本宮山の裾野で見つけてきて、王仁三郎が杉垣から手をのばし、隣家の庭に移植しておいたのだ。その脇の、これも王仁三郎手植えの薔薇、朝露を含んだ新芽が春を伝える。
 杉の根元にしゃがんでのぞきこむ王仁三郎を、花たちはとらえて離さない。
「いつも変わらぬ松心、変わる心は花心。この大本の屋敷には色花は植えさせんぞよ、か。不粋な筆先め」と、吐き捨てるようにつぶやく。
 花のことでは、龍門館に騒動が絶えなかった。鉢植えの野花を昼は縁の下深く隠しておき、夜になるとこっそり取り出して一人眺める。しかし二、三日すると、花はぐったり萎れた。
 ――かわいそうに、光に当てんさかいや。
 王仁三郎は、役員のすきをみては直日を背にくくり、鉢を懐に抱いて散歩に抜け出す。土手に坐って、娘とともに心ゆくまで日光浴させた。それでも花は無残に枯れた。
 ある明け方、はっと目覚めて、王仁三郎は障子を開けた。そして、見てはならぬ妻の姿を目撃した。やかんを片手に、忍び足で庭に出ていく澄を。縁の下をのぞくと、新しく植えたばかりの鉢から湯気が上がっている。
 頭から熱湯をあびせられたように、王仁三郎の血は泡立ち逆巻いた。叫び出しそうな口に蒲団を押し込み、王仁三郎は怒りと心の痛みに耐えた。
 大本の中では色花は育たんものと夫に思い込まそうとする妻の幼い心根がみえすいていて、王仁三郎は憎みきれなかったからだ。あきらめて他人の庭に花を植え、垣ごしに眺めるのが慰めとなった。
「やあ、桜草が開きましたねえ。上田さん、お茶でもいかがです」
 隣家の主人内田正(四十九歳)は、ごま塩髭の中から柔和な笑顔を見せて手招いた。羊毛のように密生したハイカラな髭は、先が丸くていねいに刈り込んである。
 王仁三郎は喜んで垣根を越えた。縁先に坐った王仁三郎に妻女たかはお茶を入れてくれ、養母すまは針の手を休めて駄菓子をすすめた。遠慮なく菓子を頬張り番茶をすすって、王仁三郎はくつろぐ。
 庭にはつぼみをいっぱい持ったつつじの植込みがあり、隅の雑草の間にはツクシンボまで頭を出している。外国の神さん拝む毛唐じゃと、龍門館の住人たちはつきあおうともせぬが、王仁三郎は庭を借りるようになってからこの家族となじみ、気軽にもらい風呂にも行く仲となっていた。
 内田正は安政四(一八五七)年、姫路の武士内田浅次郎長男として出生、二十一歳でキリスト教に入信、やがて教師をやめて日本組合キリスト教会の牧師となる。綾部会堂牧師としてここに移住してきたのは明治三十六(一九〇三)年のこと。内田牧師の家が龍門館と隣り合わせとは、妙な因縁であった。
 いつか王仁三郎は、綾部におけるキリスト教会の歴史について、内田牧師に問うたことがある。内田は熱心に答えた。
 明治八(一八七五)年、新島襄が京都に同志社を設立。明治十年代には、同志社学生堀尾金太郎が口丹波の亀岡に伝道し、十三(一八八〇)年、亀岡町柳町に耶蘇教講義所を作った。
 明治十九(一八八六)年の春、綾部の南、田野村の田中敬造は天蚕の視察に行った先、愛媛県大洲で牧師の説教を聞き感動した。帰途、神戸に寄って英和女学校教師ブラウン、神戸教会牧師原田助らの門を叩きさらに信仰を強め、郷里田野村に神の福音を宣べ伝える。奥丹波にも一粒の種が蒔かれたのだ。
 明治二十三(一八九〇)年五月、亀岡より移転してきた留岡幸助牧師が福知山に講義所を設け、そこを中心に天田、何鹿二郡に道を伝えた。この年、蚕糸業界の麒麟児、郡是製糸の創立者である若き日の波多野鶴吉も洗礼を受けている。その後も伝道師によって福音は伝えられ、明治二十六(一八九三)年、福知山に丹波第二教会を設立する。
 綾部は、蚕糸業界の首脳となった波多野鶴吉ら有力者が力となって、明治二十九(一八九六)年四月、綾部会堂を落成、本拠は衰退気味の福知山から綾部に移った。さらに、同年八月の大洪水で福知山教会は流失する。
 しかし、綾部でも、キリスト教は十分に根を下ろすことはできなかった。三十年代に入ると指導者に人を得ず、信者はその後長く沈滞期に入っていた。内田が赴任してきてからは、ようやく信仰も息を吹き返し、中絶していた日曜学校も復活して、生徒は今百二、三十人を数えるという。
 未開の地に福音を宣べ伝えていくキリスト教伝道者たちの激しい情熱が、王仁三郎を揺さぶる。
 優曇華の花騒動があって間もなく、王仁三郎は霊示を得た。
「そなたは今、善悪正邪の分水嶺に立っている。心せよ」
 同じような叱責を、祖母宇能から受けたことがあった。高熊山入山直前の二十八歳、やくざに頭を割られてただただ報復を誓った時であったが――。
 今また深い迷いにもだえる王仁三郎の心中を、神は見抜いているのだ。
「船中に在る者はその船の全形を見ず」、「猟夫は山を見ず」、「不二へ来て不二を訪ねて不二詣で」……これらの警告が頭に浮かぶ。
 わしは、大本の中に深くはまり込んでしまって、かえって大本のことが分からぬのだ。一時、頭を切り替えて、他宗の教えを調べてみよう。苦悩のあまり、王仁三郎が出した結論であった。
 大阪宣教時代、メソジスト教会で牧師の説教を聞き、思わず落涙したことがあった。目前に教会はあっても、表立って説教を聞きには入れぬ。まず聖書を学んで他山の石にしようと思い立った。
 杉垣をこえて、ひょろりと牧師宅にもぐりこむのはたやすい。花のためばかりでなく聖書研究というはっきりした目的が加わると、内田は喜んで王仁三郎に二階の書斎と分厚い新旧聖書を提供してくれた。
 テモテ前書第四章第七節に至って、王仁三郎の目は吸いついた。
「妄なる談と老いたる婦の奇き談をすて、神を敬ふことを自ら修行すべし」
 すでに読んだマタイ伝第二十四章第三節以下の句が関連して思い浮かぶ。
「イエス橄欖山に坐し給へるとき、弟子ひそかに来たりて曰ひけるは、何の時このこと有りや、又汝の来る兆しと世の末の兆しは如何なるぞや、我等に告げたまへ。イエス答へて彼らに曰ひけるは、汝ら人に欺かれざるやう慎めよ。そはおほくの人わが名を冒しきたり、我はキリストなりと曰ひて多くの人を欺くべし……また偽予言者おほく起こりて多くの人を欺かん」
 さらに同章第二十四節の一句。
「そは偽キリスト偽予言者たち起こりて大いなる体徴と異能を行なひ、為得べくば選民をも欺かんとする也」
 王仁三郎は目をつむった。老いたる婦の奇き談……ふしぎなるわざを行ない、選ばれたる者をも欺こうとするもの……キリストの予言の通りではないか。出口直こそ、ここに示された偽予言者の一人ではないか。
「肉体の修行は益すくなし。ただ神を敬ふことは凡のことに益あり。今生および来生に係る約束を得るなり」
 テモテ前書第四章第八節が、王仁三郎の疑惑をいっそう深めた。
 四季の区別なく、直は毎日欠かさず何回となく冷水を浴びる。それが役員たちの習うところとなり、特に霊力を必要とする時以外は水行をせぬ会長を外国身魂と決めつける発端ともなったのだ。
 表面の肉体ばかり清めても肝心の霊魂は深まらぬとの王仁三郎の日頃の主張に、「先生は瑞の霊魂にあらず、湯の霊魂じゃ」と、役員たちは毒づいた。それを他教のキリストが地下から、いや天上から王仁三郎を擁護してくれようとは。
「汝、今後十年間は修行の時機なり。多いなる悪魔と戦い、神の試練にあうべし」
 高熊山修行中に神人より受けた神示である。その悪魔とは、まさに大本教祖出口直その人ではあるまいか。
 コリント後書第十一章第十四節に曰く。
「これは奇しきことに非ず。悪魔も自ら光明の使の貌に変ずるなり」
 眩しい白銀の髪に清らかな肌、やさしい童顔には一種異様な霊光を宿し、言うに言われぬ神々しさと冒すべからざる威厳が力強く全姿に加わっている。声音は涼しく、十七、八ぐらいの娘かとまがうばかりだ。行住坐臥の端麗さ、言行一致、一点の私心すらなく澄みきってみえる。
 なんぼ悪魔かて、出口直ほど完璧に善の仮面をかぶれるものか。いやいや、それほどの悪魔だからこそ、人を迷わせるのだ。
 内田家に通い出し、聖書の世界にのめりこむほど、心は乱れ騒ぐ。
 王仁三郎の魂は必死に抗った。信と疑、愛と憎が幾重にもからみ合い、王仁三郎の足を引っぱる。この七年余り直の傍で審神しつづけ、あがきつづけて、ついにはドン底までおちるのか。
 激しい惑乱にしびれきった神経を休めようと、花を求めてきた王仁三郎であった。
「上田さん、いかがです。疑問は解けましたかい」
 内田牧師が微笑んで話しかけた。隣家に住めば、いやでも龍門館での直と王仁三郎の派手な喧嘩を見聞している。我家に庭を持ちながら、わざわざ隣の庭に頭を下げて花を植えねばならぬ養子婿の立場を察して、内田は同情もしていた。
「ほぼ……見当がつきました」
 淋しい笑いを返す王仁三郎。内田は熱心にすすめる。
「あなたのような方を、あの家におくのは惜しい。一家の主は一人、この世を造らせ給うた神もただ一人です。失せたる者をたずね救い給う神にすがって、アブラハムの子に還りなされ」
 王仁三郎は内田に向かった。
「もし、出口直が聖書でいう偽予言者ならば……わたしたちはこれまで悪魔を助け、不可解至極の産物である筆先を天下に流し、多数の人たちの霊魂を迷わせたことになります。放火や殺人や強盗は確かに重罪でっしゃろ。けど、その罪悪にはまだ限度がある。思想上の犯罪は、人の心を変え、生き方を変えさせ、果ては狂人ともさせて無限に累を及ぼす。それこそ天地容れざる大重罪になります」
「それがお分かりなら悔い改めることです。上田さん、あの家を出て教会へいらっしゃい。共に主の道を歩みましょう」
 内田のさし出す掌を王仁三郎はそっと押しやり、立ち上がった。
「一旦縁あって母子の契りを結んだ以上、わしは義母を見すてて去ることはできません。義母の迷妄がどれほど深かろうと、それを正道に引き戻してやるのが、どうやらわしの神から与えられた試練と思います。まだ時間はかかりまっしゃろが……」
 臥竜亭に帰った王仁三郎は、役員たちのいないのを確かめて、『道の大本』八巻の執筆にかかる。第一章、第二章と教えについて書き進め、筆を置いて読み返す。苦労をして書きためた多くの書を役員たちに燃やされた悔しさがよみがえる。感情の激するままに、一気に筆を走らせた。

  第三章
一、丹波のある所に曲津神の集まる巣窟ありて、あまたの悪魔あらわれ、偽救世主をあらはして、世界を乱し破らんとす。王仁、天津神の命もてこの曲津神を国家のために打ち滅ぼさんと日夜心を砕きたり。
二、曲津日神は常識を缺きたる頑迷固陋のしかも朴直なる婦人の心にひそみ、常に偽善をもちて人をたぶらかすをもって、唯一の方法手段となしつつあり。
三、その婦人は年老いたるものにして、事の理非曲直を深く考え察するの明なければ、自ら妖神の言を固信し、世人みな濁れり我一人清めりとなして、偽救世の説をとなうるなり。
四、その説一として国家社会に害毒を流さざるはなし。曰く財産家は天の罪人なり、曰く漢字は国害なり、学校は害物なり、商工業は小にせよ、外国人は排斥せよ、服は和服にせよ、洋服は神意に反す、種痘は汚穢なり神慮にかなわず、桑を造るな、蚕を飼うな云々、一として生成化育の神意に反せざるはなし。これ妖魅の言辞にして社会の破滅を好むものたること言をまたずして明なるところなりとす。
五、曲津神は老いたる婦人の口を借り手を借りて世の中の多くの人をあざむかんとするなり。
六、曲津の曰く、三千世界を一つにまるめて神国にするぞよ、戦いがあるぞよ、東京へつめかけるぞよ、外国は地震雷火の雨降らし人を絶やして神国にいたすぞよ、世界の人民三分になるぞよ、この神にすがらぬ者は谷底へほかしてみせしめにするぞよ、神には勝てぬ往生いたされよ、はよ改心いたした者は早く助けてやるぞよなどと毒舌をふるうて、人を迷わせんとはするなり。
七、王仁その曲津を愛さんと思いて、浄心の本たる霊学をもってこれに対するや、かれ曲津神大いに恐れ忌みて、またもや口と筆もて王仁を傷つけんとはせり。
八、曲津神に心の根城を奪われて、山口あか(著者注・出口直を指す)といへる女、曲津狂祖となり、たかむらたかぞう(中村竹吉を指す)たかす迷ぞう(四方平蔵を指す)などその手足となりて、この豊葦原の瑞穂の国を汚し破らんとつとむ。
九、されどもはや瑞の霊の大神の宮居たる審神(者)の王仁、ここにいよいよ正義の矛をとりて現はれきたれば、いかでかかる曲津神をこの世にはびこらせおかんや。
十 すなわちここに直霊の霊の剣もて天の八重雲を吹きはらい、日月の光ここに現われたれば、いまや曲津は苦しみもだへつつあるなり。

  第四章
一、かれ曲津神にあざむかれて上杉の山の畔より、このしたのけんたろう(木下慶太郎を指す)という者、現われたり。
二、かれけんたろうは心の根城を奪われて、ついに蛭子となり、ここにまたもや曲津神の言葉によりて、うらをこと(不詳)、おりついしまつ(森津由松を指す)の二人の正しき者の家屋敷、畑を打ち破りぬ。
三、王仁かかることもありはせぬかと常に心をわずらいて、自ら取調べのためにあまねく迷える羊(信者を指す)の家に行かんとするや、山口の大曲津神は八十曲津神をしてこれをさえぎり、とどめたり。
四、王仁を高き木の上にかけおきて、かれ八十曲津神ども王仁の下り行かんとする道をさえぎりて、ますます偽救い主の言葉をたて、誠の教えの光を包み隠さんとはなしぬ。
五、王仁ここにうらをことらが家または屋敷など食い破られたるを憐れみ、わが弟の幸吉をつかわして、再び家を作り田を設けしめんとするや、ここにまた大曲津神あれいでてさやりしかば、ついに果たさざりき。
六、かれここに王仁はうらをの身の上を憐れみて、昼夜となくかれが身のすこやかにして、再び家を興し田をもとむるのみ恵みを与え給へと、今におき祈りつつあるなり。
七、おりついしまつもまた元の身にならんことを、王仁、昼夜祈りつつあれども、いまだに全く悔い改めずして迷いつつあれば、今しばしは救うの道なし、ああ悲しいかな。
八、曲津神の言葉によりて、ひの木やま(現瑞穂町檜山)の畔に、さかはらのいのすけ(坂原巳之助を指す)またその身を食い破られぬ。かれ食い破りたる曲津は、おさき(不詳)といへる者なりき。
九、人はその心に直霊の霊を天より下されあれば、常にその直日によりて省みざる時は、かかる曲津神にたぶらかさるに至るべし。
十、神と聞きて一と口に信ずるなかれ。あくまで疑いてのちに信仰すべし。

  第五章
一、邪神悪魔にはすべて威霊なく、奸智ありて真智なし。
二、邪神は大に知識の進歩を忌むなり。故に学術を嫌いて社会を愚にし、かつ暗黒ならしめんとするものなり。
三、偽善を唱えて愚かなる人々をあざむき、罪汚れに導かんとするものなり。
四、学問あり知識ある者を恐れて、これを退けんとするなり。ことさらに神の言なる霊学すなわち本教を忌むものなり。
五、偽信は大に知恵と学とを恐るその故は、知恵と学とは曲津の国を滅ぼして天国をたつるものゆへに、曲津の棲家を奪はるるゆへなり。
六、王仁、学問をもって神の国を作らんとするや、かれ大曲津神、山口のあかをそそのかして、於与岐の高山弥仙山に隠れ行き、自ら偽りて天の岩戸開きと唱へ、ここに再び多くの愚かなる者をあざむきたり。
七、三日も日輪が上がらぬことが今にくると唱へて数多の信徒をあざむき、種油を多く買い置きさせ、その時きたりてもやっぱり日輪はこうこうと輝き給へりしかば、かれ曲津神の巧みなる、世の中の人の心が暗いといふて知らしたるなりと、実にづうづうしさの限りといふべし。
八、王仁、惟神の道によりて神界の審神をなすや、かれ曲津神いたたまらず苦しまぎれに筆もて王仁のことを悪しざまに書きなし、かつ正神界をののしり、大恩受けし人を傷つけんとこそ企みて、日夜悪しき業のみ行ないつつも、誠の行いなりとて誇りたかぶりおれり。
九、世界中残らず汝のものになると曲津のたばかりことをば真に受けて、しじゅうなぶられている山口のあかといふ人こそ気の毒の至りなり。
十、王仁はのがれぬ仲ゆゑ、どうぞしてその迷ひの目をさましてくれんと思へども、かれすでに心の中より曲津に化かされをるゆへに救ふのみちなし、アア。

 王仁三郎は引き続き第六章、第七章、第八章を書き終え、第九章に進む。

  第九章
一、大曲津神、八十曲津神どもにあざむかれて、畏れ多くも天神地祇の神霊の憑らせ玉へる神号幅守札ならびに辞令書などを渡したる信者は、知らぬこととはいひながら、少しも罪なきものといふべからず。
二、おのおの人は天津神より賜わりし直霊の霊あり。この霊の光らざりしがゆへに、かれ八十曲津神にあざむかれて、知らず知らずのうちに神明に対して不敬の罪を重ねおるゆへなり。
三、直霊の霊に曇りある者は、すでにその心に大曲津ひそみおるがゆへなり。
四、大曲津の指図に従ひて信者より尊き神号などを奪いとりたる者の罪はなかなかに重し。されど奪われし者も罪なしといふべからず。なんとなれば、わが家の神床に祭りある神はわが家のもの、守るべきは信者たるの勤めなればなり。
五、王仁は常にこれらの役員信者の罪を許されんことを日夜神に祈りて千座の置戸を負いて耐えしのびたりき。
六、これらのことをあまねく信者に告げてあやまてるを改めしめ、汚れたるを清めんとはするなり。
七、上田王仁三郎、いまや天津神のみ許しを得て、蜂の室、百足の室屋、蝮の室屋を逃れいで、ここにいよいよ救いの旗を押し立てて、狭蝿なせる曲津の砦に進撃せんとす。汝ら、世のため道のために我と共に千座の置戸をおいて立て。

 表に鈴の音、やがてあわただしい足音をたてて四方祐助が入ってきた。王仁三郎はあわてて書きかけの書を隠す。
「号外やで、会長はん、ちゃっとこの支那文字読んどくれなはれ」
 続いて平蔵や中村、村上たちまで目を光らしてつめかけてきた。国の大事を報道する号外の前には、日頃卑しむ四足文字すら気にならぬらしい。
 王仁三郎は身を正し、彼らのためにゆっくりと読み下していく。
 ――皇軍奉天占領、我軍奉地に進む、鹵獲砲百門、敵死傷十五万、捕虜約五万、我軍急進大風塵起こる。
 この日、三月十日であった。

 王仁三郎が疑問を持った直の水行であったが、旧二月のある日、「直よ、水行はもうよいぞ」と、神は言われた。七十歳を過ぎた直の肉体の衰えを、神は案じられたのか。
「いいえ、それではわたしはすみません」
 そう答えて水をかぶる。水は直の頭上に落ちる寸前にはねとんで、一滴も身にかからなかった。神は笑った。
「この神がもうよいと言うたらできぬぞよ」
 帰神の初めの頃にも、直は強情はって神に逆らい、同じ体験をしたことがあった。直はそれを思い出し、畏れて水行を中止、以後は手桶に汲んだ水を受けて、髪と額を丹念に清めるだけにした。

 三月二十八日、二、三冊の書を木綿の風呂敷に包んで、王仁三郎は腰にくくる。傘一本、着替え一つなかろうと、本だけはいつも手元になければ落ち着けぬ。今度の旅には、小型の聖書が一冊、こっそりと加わっていた。
 四方藤太郎、村上房之助が、人目を避けて由良川沿いの道まで送ってきた。中村竹吉の狂態に不安を覚えた二人は、悪神小松林への警戒を忘れて王仁三郎に接近、その教説とお筆先の間にはさまって、「見当がとれぬ」とすすり泣く。言葉を尽くしてなだめ、励まして、ようやく二人は王仁三郎に傾倒しはじめていた。
 反会長派で固まっていた役員の中から二人の支持者を得たことは、頑迷固陋で練り固めた土塁の一角を突き崩した感であった。
 いざ別れようとする時、村上のはいていた下駄の前緒がふっつりと切れ、つんのめって危うく転びそうになった。「門出の不吉」とたじろぐ二人に、王仁三郎は笑った。
「鉄でできた鼻緒やなし、古びれば切れるのはあたり前やろ。いたちの道きり、蛇のさえぎりを見て旅だちを思い止まるなど、みな昔の迷信家どもの弱い心の迷いにすぎん。誠一筋で出ていく宣教の旅や。おそれずわしの帰りを待っていてくれ」
 彼らに別れて一人旅、須知山を越え、台頭、大原を過ぎて枯木峠を踏み渡り、質志神社を横にみて、三の宮のとある小さい茶店にやすらう。
 この貧しい店が王仁三郎は好きであった。あめ玉一つ頬張りながら、番茶を飲む。
「爺さん、今日は酒はあるかい」
「へーえ、あいにく今日も無精してましてなあ……すんまへん」
 爺さんが心から恐縮してもみ手する。下戸の王仁三郎だが、あれば本当に酒の一杯も傾けたい気がするほど、この茶店の日に焼けた看板が気に入っていたのだ。実にまずい字で、こう書いてある。
 ……さけさかな、あったりなかったり
 この看板を見るたび、ほっこりと身も心も休まるのであった。
 世が栄え、人々が利口になるにつれ、外見だけは派手やかに、たとえ毒があるものでも飾りたてる。五の価値なら十に見せかけるのを当然の商法とする時勢がくるだろう。それが、体主霊従の、われよしの世のなりゆきなのだ。
 利口者が正直に勝ち、悪が栄える暗闇の世。心の艮に神を封じこめ、省みる直霊の力を失った人群万類のつくり出す末世の姿なのだ。
 ――いつまでも、ここにこうしていておくれ。
 風にひらひらする看板を目でいとしみながら、王仁三郎は茶代をおいて立った。
 檜山の坂原巳之助宅、園部の浅井はな宅、天神山の裾のなつかしい南陽寺、王子の栗山琴宅と泊まりを重ね、山陰街道を上がりつつ神の道を伝える。少しずつ、王仁三郎の説教の中に、筆先不信、教祖批判がまじる。教祖を立て続けようとする努力は、はっきりと捨てていた。
 四月二日早朝、夜の間に自分であんだ草鞋一足をはいて王子を発ち、金明霊学会嵯峨会合所の供川弥一郎宅に着く。供川家は南北朝の昔、北桑田の常照寺より移住した天龍寺の開祖夢窓国師の供人の子孫という。熱心な王仁三郎の支持者であった。ここにしばらく腰を据えて、京都、伏見地方の宣教に心をくだき、想を練った。
 十二日、下京区烏丸通綾小路西入に新しく発足した皇典講究所国史国文講習会を訪ね、規則書を入手した。王仁三郎のように、学歴といっては小学校の卒業証書も持たぬ者でも実力に応じて入会でき、志望の学科の終了試験の成績によっては神職の資格も授かる道ありとのこと。
 王仁三郎の胸は大輪の花が咲きこぼれんばかりに明るくなった。
 よし、苦学をしよう。小さい時からどれだけ学問にあこがれてきたことか。本を読むな、絵を描くな、百姓しろと父にどつかれた。野良仕事や奉公の寸暇に走っていって縁先から障子越しに聞いた金剛寺や穴太寺での塾。南陽寺で受けた岡田翁の薫陶。あとは車力や牛乳配達や子守りの道すがら本を読んだ。
 年は三十を五つも越えたが、いまだ人目を盗まねば本も読めぬ境涯にあって、学びたい意欲は熾烈になるばかりである。筆先も霊学も一度は投げ出して白紙に返り、新たに国学の教授を受けたかった。外国の教えである聖書ばかりでなく、古い日本の書物の中からこそ改めて大本を見詰め、深くつかみ直したかった。
 本科二年間ではあるが、初めから高等科へ進む自信はあった。供川弥一郎に打ち明けると、在学中の面倒は喜んでみさせてもらうと言ってくれた。
 通学路は約二里。王仁三郎は少年のように胸をはずませて、願書と履歴書に筆を走らせる。
 その翌日、願書を出しに行って帰ると、供川家の空気が変わっていた。通学の宿のこともしぶりだし、今にも出て行ってほしげなのだ。わけを問いつめると、王仁三郎の留守中に綾部から田中善吉が出て来て、
「艮の金神や教祖の御命令で気をつけにきたのだ。上田の貧乏神が帰ってきたら、閾一つまたがせたらあかんでよ。うろうろと会長を歩かせるのは小松林の悪神のせいやさかい、一刻も早く綾部へ追い返しとくなはれ」と告げ、あたふたと出て行ったという。
 あてにする宿をことわられては、講習会の参加は無理であった。テンツルテンの王仁三郎には、町の下宿屋を探すだけのゆとりはない。
 穴太から来た西田元教と一緒になって、王仁三郎は京都の三ケ所の支部を回った。しかし一足早く、田中善吉の言霊の吹き荒れたあとであった。どこもかしこも居留守をつかったり、顔色変えて箒で掃き出したり、果ては、「貧乏神の祟り神の小松林はん、もう二度と来ては下さるな」とわめく。その指令は徹底していた。
 高瀬川に沿って勧進橋のそばまで下りながら、西田がつぶやいた。
「田中の奴、今頃伏見の方までまわっとるか知れん。畜生、この高瀬川に放り込んでやりたいわい」
 まる三年もかけ、苦労に苦労を重ねて西田の開拓した伏見であった。綾部の教祖さま、筆先を絶対と仰いで今日まで説いてきた以上、その筆先の指令とあれば、根こそぎ崩れていくのは仕方ない。何のための苦労、何のための宣教であったのか。私心のない西田元教だけに、やる方ない憤懣も絶望も激しかろう。けれど、王仁三郎の心を締め付ける国学への、止むに止まれぬ志向をさまたげられた悔しさ、背骨ががちがち鳴るほどの無念さを、西田とて分かりはすまい。
 王仁三郎は筆先を呪い、教祖直を思いのたけ罵りたかった。
 それぞれの思いに浸って重い足を運んでいると、西田が叫びを上げた。
「おう、田中……お前は……」
 ひょっこり、目前に風呂敷包みを背にした田中善吉が真っ赤な顔で突っ立っている。
「おい、お前、また邪魔しにまわったな」
 王仁三郎の怒気に吹っとばされたように、田中は横にとんだ。折しも京都伏見間の電車がそこへ来て停車した。
「こら待て、馬鹿もん。馬鹿っ……」
 田中は振り返り、やれまあ安心とばかり北行電車に飛び乗った。
「馬鹿、阿呆、たわけ奴がっ……」
 走り出した電車に、王仁三郎はこぶしを振り上げた。
「こんなところでどなる方が阿呆や、兄貴」
 西田が袖を引く。
「ほんまに、どなる方が馬鹿やのう……」
 立ち止まって珍しもの好きの目をのぞかせる二、三人の町人にてれながら、王仁三郎は肩を落とした。
「小松林さん、去んで下され。うろうろしはると、ろくなこっちゃないそうどすえ」
 案の定、伏見の信者たちは、とりつく島もない応対であった。
 二人は宇治町さして日暮れを急いだ。御室支部の南郷国松方では信者たちが待っていた。ここまでは田中善吉の手はのびなかったらしい。四、五日布教して西田を残し、王仁三郎は一人京都に戻った。
 供川の家に村上房之助が来ていた。田中善吉の動きを察して王仁三郎の身を案じ、後を追って来たのだ。
 仔細を聞いて憤激する村上をなだめ、大堰川に沿って帰途についた。
 汽車は走っていたが、汽車賃がなかった。二人合わせて懐中は一銭五厘。元気を出して愛宕山を越えた。四月の半ばというのに、みぞれが降り出していた。日は落ちて空腹はつのる。いっそう吹き降りは激しさを増す。
 八木へ立ち寄ると、義姉久は気の毒がって米をかしぎ、もてなしの支度にかかりながら、泊まっていけとすすめてくれた。しかし神憑りの福島寅之助は、やにわに塩を振りまき、竹箒で王仁三郎をはき立てる。
 真っ暗がりにとび出た王仁三郎と村上に、久は提燈を差し出す。
「きさまも、小松林の眷属か」
 狂ったように寅之助は妻の手の提燈を叩き落とした。
 京鉄線路の踏切のかたわらに荷物を下ろして、村上は着たきりの王仁三郎に着替えを出してくれた。蓑笠支度の村上はまだしも、王仁三郎は全身ぬれそぼっていて、震えが止まらないのだ。どうやらみぞれは上がったらしい。手探りで股引、脚絆をつけかえて、それでも震え震え、夜更けのどろどろ道を園部まで辿った。
 往きとはうってかわって、浅井宅でもあしらいは冷たかった。もうここにも田中らの手は回っていた。
 一夜をここで過ごして、翌二十三日、檜山の坂原方へ。巳之助は不在で、女房が口ごもった。
「今しがた田中はんがおいでて、艮の金神さんのお気障りになるさかい、小松林はんが改心しやはるまで茶一杯飲ますやないと……」
 無言で二人はきびすを返した。越えるべき山坂までが、胸をつく険しさに思えた。須知山峠の茶店で立ち止まる。昨日から、宇治よりの山坂二十四里をろくに飲まず食わずで歩き続けてきたのだ。一銭五厘で、二人の空腹の虫をおさえるものはないか。
 王仁三郎は水桶の中のこんにゃくをつかみ上げた。
「婆さん、いくらやい」
「五厘じゃで」
「よっしゃ、三枚もらうでよ」
 銭を置くなり、一枚のこんにゃくを半分に引きちぎって村上に渡し、一枚ずつ生のまま頬張った。ぷりんとした歯ごたえとのどに通すときの量感が、涙の滲むほどうまかった。
 須知山峠の頂きから望む北東に、弥仙山のとがった頭がかすんでいた。村上は、神霊こもる頂上の宮に心を馳せて手を合わした。
 ――大橋こえて、たずねに行くとこ、他にはないぞよ。肝心のこと放かいておいて、先へ行こうも行方わからず……。
 村上が唱えているのは、弥仙山籠りの時の筆先の一節ではないか。
「おい、中村の真似すんやない」
 王仁三郎が村上の背を小突いた。振り向いた村上の顔は涙だらけだった。
「先生、あの時なんでわしの下駄の緒が切れたか……大橋こえて、他に行くことはならぬと、神さまが気付けてくれちゃったさかいや。それを……小松林に引かれて、わしまで越えてしもた。わしの心は二つや。二つに引き裂かれてしもたわい」
 王仁三郎の頬も歪んだ。
「信仰なんぞ止めたる……こりごりや……苦しいばっかしや……」
 泣きながら走る村上を追って、王仁三郎は峠を下った。由良川の川波が、王仁三郎の涙の中に光っている。大橋はもうそこであった。
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