文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >5 災厄と困窮よみ(新仮名遣い)
文献名3時代の霊魂よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一八九〇(明治二三)年九月、なおの三女ひさがはげしい神がかりにおちいった。ひさは小さい時に、なおの実家へ奉公にやられ、政五郎が病気になると呼びもどされて、なおの留守中は父の看病と妹たちの世話をした。しかし父の政五郎が死ぬと、八木の宿屋へ奉公にゆき、一八八九(明治二二)年に律儀な車夫であった福島寅之助と結婚して八木に住んだ。ひさは、結婚の翌年、長女が生まれたとき、貧乏な実家だから、とても産着は持ってこれまいと考えているうちに、血が頭にのぼって、急に大声が腹のなかから出てきて、神がかりになったという。ひさは、ある夜夫が眠っているのをみとどけて家を抜けだし、川へ身を投げて死のうとしたが、四〇才ばかりの黒い羽織を着た男があらわれて「お前、こんな所は来る所ではない、早ういね」と、ひさにさとした。そこで、川から上ったひさは、こっそり家に帰り、ぬれた着物を着かえ髪の水をしぼっていると夫が目をさまし、ひさの話を聞いて大騒ぎとなり、ひさは、ますます逆上してしまったという。妻のはげしい狂乱ぶりに手をやいた寅之助は、おなじ車ひき仲間の和助のすすめで金光教の祈祷をうけさせた。ひさの話によれば、篠村の王子にとついでいた姉ことが、亀岡から金光教の布教師をつれてきて、ひさの祈祷をしてもらったのが、金光教と接触したはじめのようにで、福島寅之助夫婦は、これを機会に金光教の熱心な信者となった。
金光教は備中国浅口郡の、つつしみ深く信仰心のあつい農民川手文治郎によって、一八五九(安政六)年に開教された幕末維新期の有力な新興教団のひとつであった。山陽の農村地帯には山伏の説く陰陽道系俗信が栄え、とくに七殺のたたりをするといわれる金神信仰が深く浸透していたが、川手文治郎は難病の克服を通じて、艮の金神はたたり神ではなく、正直で信仰心のあつい人々の生活を守る大地の祖神であり、愛の神であるという信仰に到達した。川手は、現世中心・人間中心の信仰を説いて俗信を排撃し、実直で明るい人間生活を強調した。金光教は明治一〇年代には、大阪で発展しはじめ、一八八三(明治一六)年、京都で布教した。京都・大阪では病気直しなどの現世利益を中心に、明治一〇年代から二〇年代にかけて中下層の商工民の間に急速にひろがった。金光教が丹波へ入ったのは明治二〇年代の初期で、一八九〇(明治二三)年、大橋亀次郎が亀岡支所をつくったのをはじめとして、翌年には福知山支所(青木松之助)、園部支所(玉川信常)ができた。福島夫婦や、なおが接した金光教は、こうして、この地方においてまさに発展をはじめようとしている活動力にみちた金光教であった。なおは、三女ひさのこの神がかりを通じて、はじめて金光教に接したようである。ひさと、つづいておこった、よねの神がかりは、なおの心をゆすぶり、神や霊の偉大さについて深く考えさせたが、その際に金光教のおしえが、影響を与えたであろうと思われる。
翌一八九一(明治二四)年の暮には、長女のよねも狂乱状態になった。この年は、何鹿郡だけで二八人の発狂者ができたというが、よねの狂乱はことにはげしいものだった。よねは、すでにのべたように、婚家をとび出して大槻鹿造のもとへ走り、鹿造は牛肉屋、よねは髪結いをしてどちらもよく繁昌しており、二人は子がなかったので、なおの三男伝吉を養子にしていた。この年の旧一二月二八日、鹿造の家では餅をつき、よねは水取りをしたが、そのときから、よねは狂乱状態になり、戸障子や家財道具をひっくり返したり破ったりして暴れ、大声でわめいた。困りはてた鹿造は、白木綿を買ってこさせて、よねを柱にしばりつけ、妙見や鬼子母神の加持祈祷をしたりしたが平癒しなかった。世間では、あまり金持になったからのぼせたのだとうわさしたが、それ以来客はこなくなり、大槻家は急速に没落した。よねにかかったのは妙見で、よねは「これが真正の妙見ざ」とこわい顔で叫び、鹿造や伝吉に改心をせまったという。「経歴の神諭」によれば、よねの狂乱は「鹿造が改心のための気違ひ」(明治35・1・5)であり、よねには「竜宮の乙姫さんの一番見ぐるしい時代の霊魂が授けて」あったとされている。
〔写真〕
○金光教亀岡教会 p77