文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第2章 >1 帰神よみ(新仮名遣い)
文献名3神命のまにまによみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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大本開祖出口なおは、夜となく昼となく、大きな声で神のことばを叫び、帰神がおさまったのちに、心中にわきおこる不安や怖れをしだいにこえて、ひたすら、神命のままに生きるみちを歩んでいった。
このころ、開祖の、とつぜんの帰神をつたえ聞いた三女福島ひさとその夫が、八木からわざわざ母を見舞いにきた。お見舞いのしるしにと、紙につつんだ一〇銭銀貨一つを差出すと、開祖は受け取らず、「わしは何もみやげにやるものがないから、ちょっと待て」といって、間もなく裏口から持ってきたのは、板ぎれにのせた一かたまりの土であった。「これがわしのみやげじゃ」と渡すので、ひさは「土みたいなもの」とあきれた。開祖は「お土があるからみなが生きておられるのじゃ。何万円の金よりも一にぎりのお土のほうが、どれほど大切か分からぬ。金は世のほろびのもとじゃぞよ。世界中の人にこれが分かってきたら、この世がみろくの世になるのじゃ」といい、裏口に出て「ここが坪の内で、むかしの神屋敷じゃ。ここに大地の金神さまのお宮を建てるのじゃ。ここが世界の大本となる尊い地場、世界の大本じゃから万年青を植えたのじゃ」とおしえたという。
開祖のはげしい帰神は、せまい町でたちまち評判になった。もともと、気丈で誇り高い性格の開祖にとって、発狂とうわさされることは、ひじょうな苦痛であったが、おのずから口をついてほとばしる叫びは、とどめるすべもなかった。
「村の者、はやく改心いたされよ。足もとから鳥が立つぞよ」と開祖は叫びつづけた。近隣の人々は「おなおさんも、とうとう頭にきて気ちがいになられた」と心配し、二月には、組内の者が相談して法華の僧侶をつれてきて祈祷をさせたが、「モット修行してこい」と逆に突きたおされてよりつけなかった。しかし開祖自身も、平常にかえると、組内から狂人あつかいにされることが恥ずかしかった。いつまでも、こんな状態がつづいては生計をたてることもできないので、吉美村の小呂に算盤うらないがいることを聞いて、これを訪ねた。算盤師は憑きものを当てて封じこむのである。算盤師は鑑定して「おなおさん、エライこっちゃぞ。マアどえらい神さんじゃ。わしが封じてやろう」と言ったが、封じることはできなかった。つぎには、数珠うらないのつきもの封じで有名な山家村の本経寺の僧侶にたのんでみたが、開祖はまた帰神状態となって「コラ坊主、修行の仕直しをいたせ」と強くたしなめた。これは三月一〇日のことであったという。さらに四月四日には金光教福知山教会(青木松之助)をたずねて行ったが、神がかりにたいする見定めはつかなかった。
こうして、開祖の周囲の人々や、開祖じしんがこころみた「つきもの」封じは、ことごとく失敗した。開祖は、しだいに、艮の金神の神徳を感ずるようになり、この神がかかったのも、何かの因縁と観念して、これからは神命のまにまに従順に仕えようと覚悟した。この決意ができてからは、おいおいと帰神もおだやかになり、昼間はあきないにでかけたが、それも、一々神のさしずのままに動かねばならなかった。
このころの行商は、次男の清吉の奉公している紙屋から紙をもとめ、それを近村へ売りあるいて、そのわずかな口銭で糊口をしのいでいたが、その行商ぶりはいたってゆっくりしたもので、時には家ごとに神床をしらべて、ことわりもせず床の間を掃除し塩をまき、神さまを拝んで帰ることもあったという。四女りょうは近所の四方源之助宅へ、五女すみは八木の福島(三女ひさの婚家)宅へ子もり奉公に行っていた。開祖は一人ぐらしとなったので、貧しくてもあくせくすることもなくなったのであろう。
〔写真〕
○旧正月元旦の霊夢 p84
○山家村の本経寺 p85