文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第2章 >4 広前の成立よみ(新仮名遣い)
文献名3広前の移転よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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祭ごとに信者はふえて、野菜・米・金とお供物が多くなり、経済的には世話人の負担は軽くなった。まもなく大島の裏座敷では狭くなり、一八九五(明治二八)年一月一八日(旧一二月二三日)に四方源之助の養蚕室八畳二間を借りて広前を移した。その年の春をむかえたある朝、開祖は参拝にきた平蔵に、「これが読めますか」といって筆先を渡した。平蔵には読めないところもあったが、しだいに開祖の言葉と照合して読めるようになった。これが筆先の読みはじめである。
この当時の入信者に竹原房太郎があった。竹原は綾部から一二キロほどはなれた志賀郷村の人で、病気で悩んでいた父が、金神さんへ詣ったまま幾日も帰らなかったのを迎えにきて、開祖に会ったのが動機となり、しだいに開祖の人がらに傾倒して入信した。当時一六、七才の青年であった。
源之助の家が四月の養蚕期に入ったので、立退いて同年四月二七日(旧四月三日)、新宮の西岡弥吉方に移った。最初の広前ができてからわずか半年ほどの間であったが、祭典のときは、三六〇人もの参拝者で、はいりきれないほどになり、やがてその家も狭くなった。同年九月二一日(旧八月三日)にはさらに新宮東四辻の黒住教会のあとの家に移った。
開祖は、毎日、炊事、洗濯、家のまわりの掃除から、使い走りと忙しいなかで、参拝者の世話には真心をつくし、信者の汚れた足袋・きゃはんまで、洗って乾かしてあげた。その行きとどいた温かい心づかいと謙譲な態度に、開祖の徳を慕ってくる人はますます多くなってきた。しかし、奥村は、開祖を使用人のようにとりあつかった。
開祖の神は、「この方は金光の下になるような神でない。世界の神じゃ。この神の身上を分けい」と、しきりに迫った。開祖は「筆先を見て信者にお話してほしい」と言って、奥村に筆先をわたしたが、奥村はこれを隠して出さないばかりか、ついには、開祖を邪魔ものあつかいにするようになった。開祖は、ついに愛想をつかして、六月の半ば、世話人の引止めるのもきかず八木へ糸ひきに行ってしまった。八木で二〇日ばかり、ついで、馬路に行って糸ひきをしていたおりに、開祖のことを聞きつけて、八木の天理教会からも、中西の金光教会からも、開祖に「ぜひ、いっしょに神の道を開きたい」との話があった。しかし、開祖は、こういうさそいには耳をかさず、七月、八木から綾部に帰って、西村忠兵衛方に身をよせ、東四辻の広前へは祭のときだけ参拝にきていた。九月二八日、福知山の金光教会青木松之助から招かれて、翌年の三月まで福知山に滞在し、炊事や洗濯、掃除など家事を手伝ったが、青木も開祖を利用しながら、開祖の帰神については、ついに理解できなかった。
この間に、日清戦争は日本の軍事的勝利が決定的となり、一八九五(明治二八)年四月にいたって講和条約の締結をみた。その結果、日本は台湾を植民地として領有することが決まり、五月、近衛師団がその平定におもむいた。近衛兵として入隊していた開祖の次男の清吉は、鎮定軍に加わって台湾に渡ったが、この地で戦死した。その通知をうけた開祖は、落胆しながらも、しばらくは戦死を信じることができなかった。この年旧六月には、「こんどは露国から始まりて大いくさがあると申してあろうがな」と日露戦争を予言警告した筆先がでている。
開祖は一八九六(明治二九)年満六〇才の還暦をむかえた。四月初旬には開祖は、綾部の裏町(現若松町)の定七の木屋を借りて住まったが、そのころ奥村は東四辻の教会に教会長然として頑張っていた。中旬の春季大祭のおり、開祖が玉串奉呈に神前に出ると、「金光大神」の御神体だけで、「艮の金神」の御神体は片付けてあるので、開祖の神は、はげしくこれをたしなめられた。「金光殿の御世話にならいでも、艮の金神一筋で開いて見せる」とのお告げにより、開祖は、一時また糸ひきに出た。開祖が出てしまうと、教会に寄りつくものが、ほとんどいなくなって、それから五六日目に奥村はついに夜逃げをした。
奥村の出た翌七月二〇日(旧六月一〇日)、開祖はひょう然と帰って来た。開祖が戻ると、再び信者があつまってきたが、綾部警察署から「金光教の布教師がいなければ、ここは金光教の教会ではないから、許可をうけずに人をあつめてはならぬ」ときびしくいってきた。世話人は協議して手続をとったが、許可にならなかった。そこへ、京都の金光教会から、教師の足立正信を派遣してきた。そこで、表面は金光教でやっていくことを開祖も承諾した。
この年の二月、開祖がまだ福知山の青木宅にいるとき、「今年は大荒れがある」と警告していたが、はたして八月末、降りつづいた雨が大暴風雨となった。福知山の町は大洪水で大被害をこうむり、死傷者や家屋の流失など少なくなかった。このとき、開祖は綾部にいて、この悲惨な状態を霊眼で手にとるようにみたが、のちに調べてみると、そのとおりであったという。
一八九七(明治三〇)年になると、開祖と足立との間には、奥村の時と同様にはげしい対立がつづくようになった。足立の家では、足立の家族は奥座敷に寝て、開祖は、広前の片隅の板の間に寝させられるというように、足立一家の世話をする女中のようにあつかわれた。それでも、開祖はいやな顔は少しもしなかった。しかし、足立は布教に不熱心であり、筆先を粗末にするので、開祖もたまりかね、この年四月四日(旧三月三日)、金光教会の関係から離れて裏町の梅原伊助の倉に移り、艮の金神をまつることとなった。ささやかながら、ここで、はじめて独立の広前をもつことができたが、非公認であったために、信者があつまると、警察がやかましく布教に干渉してきた。
当時、綾部における公認の教会には、金光教のほか、天理教・黒住教・キリスト教があった。天理教は、一八九四(明治二七)年天神馬場に神殿・教祖殿・客殿等を完備した教会を設け、黒住教はこれよりさき、一八九一(明治二四)年、味方に小学校校舎を買い受けて教会所をつくっていた。キリスト教も一八九一年、綾部町区に講義所を設け、一八九六(明治二九)年には教会堂ができた。
〔写真〕
○出口清吉(近衛兵入隊のころ) p104
〔図表〕
○広前の移転(番号は移転の順序を示す─①大島の裏座敷②四方源之助③西岡弥吉④東四辻⑤伊助の倉⑥中村竹蔵⑦東四辻⑧大島景僕⑨神殿─点線内は現在の神苑の範囲を示す) p103