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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第3章 >2 小学校の生活よみ(新仮名遣い)
文献名3偕行小学校よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ112 目次メモ
OBC B195401c1321
本文のヒット件数全 1 件/言霊の妙=1
本文の文字数1902
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本文  一八八〇(明治一三)年の春、喜三郎はようやく健康になり、偕行小学校下等第八級(最下級)に入学した。校長は亀山の旧藩士出口直道であった。当時の小学校は、整った設備もなく、穴太寺の念仏堂などを改造して、四間の教室をつくり、大きな木製のついたてで仕切った教室に、各学年の生徒を収容していた。校長と、やはり亀山旧藩士で吉田有年という先生の二人が、こちらの教室で読本の一節をおしえると、すぐ隣りの教室へ行って算術をおしえるという風であった。こんな教室では生徒が静粛であるはずはなく、先生の姿がついたての蔭に消えると、すぐ騒ぎがおこり、喧嘩がはじまるというありさまであった。
 そのころの小学校の入学年齢は、現在と同じく満六才であったが、喜三郎は、前述の事情もあって、三年おくれて満九才で入学した。しかし、当時の小学校は実力編入制であったから、すでに、祖母の教育で学力がついていた喜三郎は、半年ごとに一年進級し、下等の四年間をわずか二年で卒業した。当時の小学校は、満六才~満一四才の八ヵ年で、これを上下二等各四年にわかち、各自八級から一級にいたった。そして、六ヵ月を一修学期間とし、春秋二季に試験をおこなって、八級から順次一級に進ませる制度で、一級を卒業するときには大試験をおこなっていた。
 弟の幸吉は「兄は一度聞いたことは何年たっても覚えていた」といい、穴太に住む友人の斎藤友市は「阿呆なのか、利口なのか、ぼんやりしたようなところがあった。……ちょっと普通の人ではなかったが、記憶力は非常に良かった」といっている。現在園部に住む松本鉄之助は「喜三はんは八文や、八文やいうて、少し足りないようなところがあったが、あんなに偉い人になった」といっているように、阿呆のようにみられる半面もあったようである。
 喜三郎は、この頃から祖母に言霊の妙用を説明されて、言霊の研究に興味をもつようになり、人の居ない山や野に行って、大きな声で「アーオーウーエーイー」と叫び、人にみつかって笑われたり、発狂したのではないかと間違えられたりすることもあったという。少年時代の友達には、地主の子や自作農の子が多かったようで、喜三郎は、他の少年たちと同じように兵隊ごっこをしたり、川遊びをしたり、相撲をとったりして遊んだ。しかし、一一、二才の頃になると、村人たちから、水のみ百姓のせがれとしてあつかわれることにたいし、しだいに、現実の差別を身ぢかに体得するようになった。ある時、担任の吉田有年教師から小学修身書をおそわっていた。修身書のなかに、大岡越前守忠相という人名がでていたのを、教師が「タダアイ」と読んだので、喜三郎は立って、「タダスケです」と注意したが教師は聞かなかった。しかし、正しいことはどこまでも通してゆこうとする喜三郎は、「タダスケ」を主張した。吉田教師は大いに怒って、「貴様は生徒の分際として教師に反抗するとは不都合な奴だ、懲戒にする!ちょっとこい」といって、喜三郎を無理やりに引ぱって行こうとした。喜三郎は、思わず大声で校長の名をよんだので、隣の室で授業をしていた校長が驚いて走ってきた。校長は逐一報告を聞き、修身書をみて、みなの生徒のいる前で、「ここは生徒の読んだタダスケが本当だ。君も少し調べておきたまえ」といった。喜三郎の胸はおさまったが吉田教師はそれ以来喜三郎を非常ににくんだ。一字一句にも読み違いがあろうものなら、なぐったり太い麻縄でうしろでにしばり上げたり、大きな算盤の上に一時間あまりも座らせたりするなどの乱暴をした。そればかりでなく、乞食が通れば、「喜三郎さまのお父さんが通る、お母さんが通る」と指さし、倒れかかった便所があると、「喜三郎さまの立派なお宅だ」とあざけるので、他の生徒までが面白がり手をうって笑った。喜三郎は、子供ながらにそのことを残念に思い、ある日、吉田教師が学校から帰る途中を待ちうけて、青杉垣の中から竹の先にクソをつけたまま教師の腰の辺を突きさし、自宅へ逃げ帰った。これがのちに学校で問題となって吉田教師は免職となり、喜三郎も退校を命じられた。しかし、喜三郎は承知ができず、ただちに出口校長に事の次第を申告した。校長はすぐに学務委員(現在の教育委員にあたる)の斎藤弥兵衛と協議の結果、一旦退校を命じてその場を無事にすませたが、数日後に、喜三郎を吉田教師の代りに助教員として月給二円で採用し、下級の生徒を受持たせることにした。斎藤弥兵衛は、面白い人で、時々こういう皮肉な処置をとる人であったという。

〔写真〕
○偕行小学校(現在穴太寺の念仏堂) p113
○聖師の「わが半生の記」の草稿 p114
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