文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第3章 >2 小学校の生活よみ(新仮名遣い)
文献名3神道への関心よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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OBC B195401c1323
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喜三郎は、小学校の代用教員を一年あまり勤めたが、僧侶出身の山本という教員と、神道のことについて衝突したのが原因となって辞職した。穴太は仏教のさかんな所だけあって、神道に心をよせていた喜三郎は、周囲からせめたてられていたようである。のちに、聖師は『本教創世記』(明治37・1・11自筆本)で「余が一三才(数え年)の春のことであったが、妙霊教会の布教師岸本という人、穴太なるわが伏家に祈祷のために出て来て、種々の神教を語った。その時分に余は半病人ともいうべき厄介なる代物であったが、その岸本が余の面を見て、君は珍しき人である。男子にして女子である。救世主たる運命をもって生れて居られるから、我々とともに惟神の道に身をゆだねては如何、かならず成功すると強いて勧められた……余は一派の神道を国家のために開かんと終始念頭にかけて居ったけれども、何分貧乏の家に養われて居るのであるから、神学を研究する事が出来なかった……」とのべている。これは一八八三(明治一六)年春のことで、喜三郎は、妙霊教会布教師の岸本勇助から「みそぎはらい」や「大祓」の素読をおしえられた。喜三郎は、すでにこの当時から、神道に強い関心を寄せていたようである。しかし、年々貧窮の度をましていた上田家の状態では、喜三郎の念願も思うようにはならなかった。